00:七年前





光。

光だ。


真っ白な閃光がぽつ、ぽつと瞬く。
ぼんやりとした赤い光は揺らめき、寂しく取り残された柱や木の残骸を照らす。
私は幻想的なその光景を、暗闇の中から覗いていた。
息の詰まりそうな狭い箱、衣服がたっぷり詰まったクローゼット。
なぜそこに身を隠しているのか、それは事実隠れなければならなかったからだ。

真っ白な閃光は、爆弾が炸裂する瞬間に見せる光。
揺らめいて踊っている赤い光は、人を舐め家を舐めすべてを焼き尽くす炎。
火の手が届いていなくともクローゼットの中はひどく熱く、火がすぐそこまで来ていると錯覚しそうなほどだ。
それに何よりひどいのは、臭い。
生臭いような、焦げ臭いような……今まで何度も嗅いできた吐き気を催す悪臭が広がっていた。
家が、人が燃えている。たくさんの血が流れている。
扉の向こうは戦場と化していた。
そして私の手元には、クローゼットの中には――二人の少女がいた。
私は彼女たちの歳を知らない。名前も知らない。
知っていることといえば、二人の両親は裏庭で冷たくなっていること、ここが彼女たちの家であることだけだ。
彼女たちは怯えきり、ひんやりと冷たく汗の滲んだ手で私のシャツの裾を強く握っていた。
私は戸惑いを覚えながら、小さな二つの頭をそろそろと撫で続けている。
そしてこう思っていた。なんて綺麗なのか、と。

ぱちぱち瞬く白い光に、ゆらゆら揺れる赤い光に、躍り出るのは兵士の影絵。
暗闇と閃光とが繰り返され、彼らの動きはさながら人形劇のようだった。
砂埃や塵は薄い影を作り、時には星のように反射してきらきらと舞い上がる。
緩慢な動きで少女の頭を撫でながら、私の心は確かに躍っていた。
気付かれてはならない、外に出てはならない、子供たちを泣かせてはならない。
身動き一つとれないこの状況は確かに理解していても、それが不謹慎以外の何者でもないということを理解していても、私の心はどうしようもないほどクローゼット越しの光景に魅せられていた。
彼女たちはまだ幼く、惨たらしい死体を見たのも、大切な人を亡くしたのも初めてだろう。
しかし私はもはや若いとさえ言えない歳になっている。
死臭や肉の焦げる臭いには慣れてしまったし、もっと酷い死体だっていくつも見てきたのだ。大切な人もそれなりに亡くしてきた。
だがそれを差し引いても、私には足りないものがある。
それは――

腕が強く引っ張られ、私は我にかえった。
下を見ると、涙に濡れた大きな瞳と目が合った。
口が動いている。何か喋っているようだ。私は目線を外し、そちらに注目した。
――いつまで、ここに、いるの。
彼女の言葉につられたか、もう一人も固く閉じていた目を開けてこちらに縋りついてくる。
大きな目と鼻の形がそっくりだった。よく目立つ金髪からも二人が姉妹であることがわかる。
――つかれた。
少しだけ背の高い少女がそう言って鼻をすすった。
その言葉に私は着けていた腕時計に目を落とす。確かに、避難してから二時間は経っていた。
緊張状態も相俟ってか少女たちはかなり疲弊しているらしい。
だがそうは言ってもどうしようもない。二人を抱き上げるほどの腕力はないし、そんなことをして物音をたててしまえば元も子もないのだ。
私は人差し指を口許に当て、また頭を撫でてやることぐらいしかできなかった。
思わずため息がもれる。彼女たちを疎んじてではない。自分の無力さを痛感しての嘆息だった。
戦う力などないし、二人を連れて逃げ出すほど体力もない。私は人並み以下の人間だ。
それなのに彼女たちは私を頼るしかないのだから、これほど気の毒なことはない。
せめてもの罪滅ぼしにと、私はクローゼットの隙間から外を覗き見ることにした。
戦局がわかれば、あと少しだよとかもうちょっと頑張れだとか言えるかもしれない。
そう思って横へ規則的に開いた隙間から目を凝らしてみたのだが――

クローゼットの向こうは玄関だった。
慌てていて奥の部屋へ入る余裕がなかったことと、状況が把握できないような場所に隠れると何が起きるかわからないと思ったためだ。
その玄関は開け放たれ、そこからあの幻想的な光がやって来ていた。
だが私がそこを覗き込んだちょうどその瞬間、人影が見えたのだ。
その人影はあの兵士の影絵のように小さくもなく、また動いてもいなかった。
人そのものの大きさで、まっすぐに正面を向いて立っていた。

人影を認識した瞬間反射的に身を固くし目を凝らした。
――気付かれたのか?
私の変化を察したのか、それとも別の何かを感じたのか体の下で二人の体も強張る。
影はしばらく立ったままだったが、それから歩き始めた。歩み去るならと思ったが、影はどんどんこちらへ近づいてくるようだ。
びくん、と大きく少女たちの体が跳ねる。どうしたのだろうと下を向いた瞬間、クローゼットが大きく揺れた。
慌てて頭を上げる。さっきまでそこにあった影はない。むしろ、クローゼットの扉さえなかった。
あの衝撃は扉をこじ開けたせいだったのか。
私は緊張感もなくそう思う。影の正体を目の当たりにしたせいだった。

黒髪を長く伸ばした、童話か何かに出てきそうなほど整った顔立ちの美少女が私たちの前に立っていた。
背丈はこの年頃にしては高く、男としては小柄な私とほぼ同じだ。
透き通った白い肌に、桜色の唇が目を惹きつける。
恐らくは十代の半ばだろうが、幼くも妖艶にも見える彼女の顔は年齢を判じさせない気迫のようなものがあった。
麗しい外見の少女が突然現れたことにも驚きを隠せないが、彼女の纏っている服もまた異様だった。
浅緑の大きなコートを大雑把に羽織り、その下にはやや深いが同じ色合いの緑の服。
彼女は、少女が着るにはあまりにも無骨な軍服を――この国の軍服を着ていたのだ。

なぜこんなところに女の子がいるのか。しかも軍服を身に纏って。
まさか軍人とも思えない。だが落ち着いた様子から言って、二人の少女たちのように逃げ遅れたわけでもなさそうだった。
少女は私を確認すると、やや目を見開いて首を傾げた。私もまたどうしたものかと戸惑う。
やはり大きな、少し垂れた目をじっとこちらに向けられるのはどことなく居心地が悪かった。
まじまじと見つめられることなどほとんどない。ましてや、こんな整った顔の少女になど。
目を逸らしたかったが、奇怪な少女の登場に心惹かれたのか目を逸らすことができなかった。

少女はひとしきり私を眺め尽くしたあと、唇をしならせて微笑んだ。
唇が開くのを認め、反射的にその動きに注目する。
「何してるの、こんなところで」
少女の口はそう形作った。問いに答えたいのは山々だが、私にはそれを応える術がない。
小さな頭から両手を離し、そのまま自分の喉にあてる。口を何度かぱくつかせてから首を振った。
「喋ることができない」というサイン。彼女は理解してくれただろうか。
浅く頷くのを見て少しだけ安心する。意思の疎通ができるとわかれば彼女への戸惑いも若干薄れた。
聴覚のない人間を初めて見たのか、少女は再び丸い目をこちらに向けてきた。
しばらく物珍しげにこちらを見ていたが、視線がふいに下へ降りた。その先はあの姉妹だ。
彼女よりも幾分か幼い二人の少女を今ようやく認識したかのように、やはり無遠慮なほどまじまじと見つめている。
軍服を着た少女の視線を受け、姉妹はなぜか更に体を密着させて竦みあがった。
「この二人は、おじさんの子ども?」
聞かれ、反射的に首を振る。
……言っておくが私はまだ二十五歳だ。
ふうん、と彼女は腰を曲げ、私にしたのと同じように二人の少女を凝視する。
二人の体が小刻みに震えているのを感じた。軍服が彼女たちを刺激しているのかもしれない。
「いいひとなんだね」
体を起こしてそう言う彼女の笑みには心なしか棘が見えた気がした。
「でもね、隠れてても意味がないよ。誰もいないからね」
彼女が一歩退いた。私は半信半疑で、おそるおそる一歩を踏み出してみる。
裾を掴む姉妹は二人揃って私を引きとめたがったが、いつまでもここにいるわけにはいかないのだ。
クローゼットの世界を抜け出した瞬間、すっかり忘れていた悪臭の塊が一斉に襲い掛かってきた。
いつの間にかあの閃光はなくなっていたらしい。代わりに見慣れた光が溢れてき始めていた。
朝日が昇りかけている。
「おいで」
踊るように彼女は外へ飛び出し、足取り軽く私をそこへ誘った。脇ほどまで伸びた黒髪がさらさらと流れる。
まるで花畑にいるかのような振る舞い。改めて少女の存在に疑問を抱きつつも、あまりにも静かな光に安心した私はのろのろと外に出た。
相変わらず二人は裾を引っ張っていたが、それでも私に取り残されまいと後をついてくる。
土に足を置いた瞬間、思ったよりも強い日光にめまいを覚える。
眩しさに何も見えなかったが、目が徐々に光に慣れた頃、――私は「見える」ということを少しだけ後悔した。
反射的に後をついてきた姉妹の目を覆い隠す。

そこは確かに戦場の跡地ではあった。跡地であるなら、今はもちろん静かなものだ。
だが静かすぎた。確かに私の耳は何も拾うことはできないが、目に入る情報にもそういったものはある。
普通、多少なりとも生存者がいるはずだ。はぐれた子の名を呼ぶ母の姿や、負傷に呻く兵士の姿や、そういった人々が必ず一人はいるはずなのだ。
だが私の目の前には誰一人としていなかった。
代わりにやかましく主張してくるのは、物言わぬはずの死者だった。
そこかしこに爆撃の跡が残り、散らばった体が見える。しかしそれはもはや見慣れすぎた光景であり珍しくはない。
奇異だったのはあまりに生々しい死体がそこかしこに――散らばっていることだった。

逃げ遅れた民間人が、抱えていたであろう荷物を投げ出した格好で血だまりの中、息絶えている。
砂漠色の軍服を纏った兵士、敵国の兵士がいたるところで物言わぬ塊になっていた。
彼らは四肢をもがれ、腸を撒き散らし、あらゆる破片を四方八方に撒き散らして虚空を見つめる。
爆撃や人に殺されたというよりも、凶悪な災害だとか獣だとかに八つ裂きにされたと言う方がしっくりくる光景だ。
更に褪せた緑色の軍服である、わが国の兵士もやはり皆死んでいた。
彼らもまた血の海に浸かり、混ぜこぜになってしまった自分の手足などを憂いているように見えた。

目の前の光景に絶句している間に、強烈な死臭が鼻をついた。
今まで嗅いだこともないような酷い臭いに胸がむかついてくる。
湿っぽい鉄の臭いや生ゴミに似た内臓の臭い、燃え続ける煙の臭いなどそれらすべてが混ざり合っているようだ。
手で鼻を覆いたかったが、両手は塞がっている。姉妹のうち体の大きな方が泣き出してしまった。
視界を隠されていても何が起きているのかがなんとなくわかってしまったのかもしれない。
「ほらね、だあれもいない」
立ち尽くす私たちをよそに、少女はやはり軽やかに血だまりの上を跳ね回った。
足を進める度に靴底と地面の間が糸を引き、靴やズボンの裾を真っ赤に染める。あれではいくら洗っても落ちやしないだろう。
目の前の少女に若干の薄気味悪さを覚えつつも、私は彼女に置いていかれまいと彼女のもとへ寄った。
血だまりをできるだけ踏まないよう、踏ませないよう注意を払いながら。
誰であろうがいい。せっかく出会った生存者を見失うことのほうが遥かに恐かったのだ。
「行くあてはあるの?」
楽しげに血でできた水溜りを踏みつけて遊ぶ少女はふいにそう尋ねてきた。
行動は異常だが、人並みに私を案じてくれているのだろうか。それならば周囲にも気を向けてほしい。
彼女が跳ねれば跳ねるほど生臭さが襲ってきて、吐き気をこらえるのでやっとだった。
行くあてならある。頷けば、そっか、と呟いた。少しだけ残念そうにも見えた。
「それなら、その子たち」
少女の視線は私ではなく、その下の姉妹に向かった。
彼女たちがどうかしたのだろうか。彼女の行くあても心配してくれているのかもしれない。
だが、
「いらないんなら、もらってあげるよ」
出された提案はやはり、底冷えのする違和感があった。
――要らないなら、貰ってあげる?
まるで物に対する言い草ではないか。それに彼女に引き渡したところで、どうにかなるとも思えない。
姉妹もこの少女も、さして年齢に変わりがないではないか。
何を言い出すのかと彼女の顔を改めて見ると、最初とまったく同じ笑みを浮かべているのがわかった。
しかし、……思わず姉妹を後ろに隠して首を何度も振った。
気付いてしまったのだ。弧をえがくその目が、一瞬竦みあがってしまうほどに興奮していることに。
この地獄絵図の中を平気で歩き回れるところといい、歳の近い少女二人を物のように扱うところといい、
何より異常なのは彼女がそれを普通だと信じて疑っていないように見えることだ。
姉妹はついに二人して泣き出してしまい、震える手が私のシャツの袖を掴んできた。
要らないなら貰ってあげる、その言葉は二人にどのように聞こえていたのだろう。

「そっか」
残念そうに肩を竦めるが、大人しく引き下がってくれたことに内心で安堵する。
それなら送ってあげるよ、と再び提案された。無下にすることもできず、私は仲間との待ち合わせ場所を伝えた。
街を東に出たすぐそばの森。逃げ遅れた間抜けな私とは違い、皆そこに待機してくれているはずだ。
いくら間抜けな私でも、少女に送ってもらうほど落ちぶれてはいないはずだが。
「じゃあ街の境までね」
先導を始める少女。踏み出したとたん、やはり無骨な軍靴が横たわる死者の頭蓋を砕いた。
嫌な音でもしたのだろう、姉妹の肩がびくりと跳ねる。私には宥めることも二人を抱き上げて護ることもできない。早足に歩くしかなかった。
……滅入ってばかりでも仕方ない。無言で歩きながら、私は先のことを思う。
行くあてはある、とは言ったが、仲間たちは――ドナや皆は彼女たちのことを受け入れてくれるだろうか。
いや。受け入れてはくれるだろう。私たちは皆、親兄弟などを亡くしているのだから。
また戦災孤児が増えてしまった。食糧は足りるだろうか、私は迷惑ばかりかけてはいないだろうか。
そこまで考えて、やはり気が滅入った。ただでさえ役に立たないのに、厄介ごとばかり持ち込んでくる自分が情けない。
一度は口に出して礼を言いたいものだが、それが叶うことはないこともわかっている。

できるだけ地面を踏むよう苦心しながら歩いていくうちに、崩れた壁が見えてきた。
街を護っていたはずの外壁。開かれた門の下で、数人が様子を窺っていた。
ドナ、グエン。見慣れた顔ぶれに思わず安堵の息をつく。奥にもまだ人がいた。どうやら誰も怪我などしていないらしい。
私の姿を認めてその中の一人が大きく手を振ってきた。
「レンツ! 大丈夫だったかい」
そう呼びかけるのはドナだった。ほっとした顔で恰幅のいい体を揺らしている。
大丈夫、と手を振り返そうとした時、目の前を歩いていた少女が勢いよく振り返ってきた。
「――レンツ?」
始終浮かべていた微笑は消え、大きな目を殊更に見開いて呆然と私の名を反芻する。
その時、


(どうして俺たちが人を殺さなくちゃならない? これは本当に、正しいことなのか?)

頭の中に、ちいさな声が鳴り響く。
記憶にない声だった。それなのに、私はなぜかその声をひどく懐かしく思う。

――いずれ終わる。だからこそ、私たちが罪を背負っているのだろう。
(最後なんて、最後なんて来るものか。ずっと終わりはしないんだ。神なんて名ばかりの悪魔じゃないか)
――リズ。
(君は何もしないくせに。ただ黙って見ているだけのくせに。一番の罪を背負ってあげているのは誰だと思っているの?)

新しい声。やはり、記憶にないのに、懐かしかった。

(違う、違う。そんなの茶番だ。誰が殺そうと俺たちのやっていることは全部同じなんだ)

苦悩する声、冷たい声、そしてこれは――私の声?
そんなはずはない。そんなはずはないのだ。私の声は、子どもの頃に失われてしまったのだから。


それが一瞬のことだったのかどうなのか、知らず俯いていた顔を上げると、さっきまでそこにいたはずの少女は消えうせていた。
周囲を見渡してもあるのは血の洪水と、昇りかけた日に当てられ湯気を吐き出す死体ばかり。
自分に何が起きたのかまったくわからない。しかし初対面であるはずのあの少女は、まるで私を昔から知っていたかのように名を呼んだ。
不可解すぎる少女。あれは幻だったのだろうか。それなら、今さっき聞こえたあの声は?
こちらに向かって駆けてくる仲間――グエンの姿をぼんやり視界の端にとらえながら、私は呆然と立ち尽くしていた。



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