来る。
あいつが、来る。
だから早く逃げろ。遠くへ逃げるんだ。
この際、この世じゃなくたってかまわない。
でなければ、お前以外のすべてのものが、殺されるだろう。
すべてを失うか、すべてを捨てるか、どちらを選ぶ?
逃げろ、忘れろ。こっちへ、逃げて来い。

「いつでも、こっちへおいで」



早くに目が覚めてしまい、私は寝不足を実感しつつ食堂へ向かうことにした。途中でグエンと合流する。
昨日のことが早速脳裏によみがえり、今まで彼にどう接していたかがわからなくなる。
だがグエンは私にまごつく暇も与えず、いつもどおりの態度でいつもどおりの挨拶をするだけだった。
その無神経さ、鈍感さが今は心地よい。
私はグエンとともに歩きつつ、昨夜のことを忘れてしまうことに努めた。記憶の底へ葬り去ろう。
何もかも忘れてしまったほうがいい、長い夜のあいだにもそう結論づけたのだ。
記憶を埋め立ててしまったあとは、そういえば皆と一緒に朝食を摂るのは久しぶりだなどと他愛もないことに思案をめぐらせ、
グエンのくだらない話に頷いたり肩をすくめたりして移動時間を過ごした。

だが、そういった個人的な悩みなど本当に吹き飛んでしまうような事件が起きているなどとは予想もしていなかった。

それは既に、食堂の話題を占領するほどにまで広まっていた。
「なんか騒がしいな」
私にはざわついた空気はわからない。が、食事をともにする人たちが皆一様に興奮した様子で何事か喋りあっているのは見てとれた。
何かがあったのだ。きっとそれなりに、大きな事件が。
入り口横に積まれた木皿をとりながら、周囲の話に目を向ける。
「……まさかこんな所で? 前言ってた……」
「……あいつら、気のいい奴らだったのに……」
壮年の男が二人、いかにも声を潜めているふうに話し合っていた。
唇を読み取ってみても、すでに話題は進行してしまっているようだった。概要さえも掴めない。
そして更に残念なことには、食堂に私、そしてグエンの知り合いはいなかった。誰かから情報をもらえることもなさそうだ。
盗み聞き、いや、盗み読みでの情報収集は諦めることにして、食堂中央の丸テーブルへ足を運んだ。
幸い行列にはなっておらず、二、三人がテーブルの周りをうろついて、テーブルに並べられたさまざまな料理を思い思いに自分の皿へ盛っていっている。
私たちは後手だったようだ。並ばずに済むのはありがたいが、そのかわり料理のバリエーションは減ってしまっているだろう。
グエンも今日一番の話題が多少は気になっているらしかったが、目下の議題、すなわち何をどれくらい食べるか。
それこそが現在の最重要項目なのだろう。パンや麺類には目もくれず、わずかな肉や野菜などを手当たり次第、皿に載せている。
私の優先事項もまた同じだったが、彼ほどの食欲はない。また特別好きなものも嫌いなものもない。
仕方なく、いつもドナと二人で食べるメニューを選ぶことにした。
塩気のないパンとサラダを少し取り分ける。残るは、サラサラしたコーンスープ。
テーブルの一角に深底の鍋が二つ置いてあるのが見えた。そちらへまわりこんで、ふたを開けてみる。
一方は玉ねぎのスープが半分ほど残っていたが、目当ての方は空になっていた。
なくなってしまったのか。
空っぽの鍋の前でしばらく、あまり好きではない玉ねぎを受け入れるべきか、それともスープ以外のものに甘んじるべきかを悩む。
自分で好きな量を盛れるとはいえ、朝から油の多いものを食べたくはないし、かといって今は生野菜を食べる気分でもない。
さっきまでは何でもいいとさえ思っていたのに、いざスープがないとなると落ち着かない。
朝はパンとコーンスープだと決まっていたようだ。習慣とは恐ろしいものだ。

などと若干の脱線をしつつ、早くも一大ニュースの存在を忘れかけ、くだらない思索にふけっている私。
そんな私の前に、救いの女神が現れた。
ドナがスープ鍋を重そうに抱えて、厨房から姿を現したのだ。
「あら、レンツ早いねえ。これ待ちかい?」
気軽に挨拶してくる彼女は、炊事の熱で全身、特に顔と頭にじっとりと汗をかいていた。
働く女性の象徴。汚らしいというよりも、健やかさが感じられる。
ふと、昨夜の仕事を途中で引き上げてしまったことを思い出した。
普段から汗もかかないような仕事。しかも、昨日は勝手に早上がりする始末だ。
急に居心地が悪くなった。
私はせめてもの罪ほろぼしにと、空いたスープ鍋を下げてやった。「気が利くね」と茶化しつつ、もちろん礼も忘れない。
対する私はいつもの曖昧な笑みを返すだけだ。かえって彼女との差を強調してしまったような気がした。
働き者の彼女は、さっき下げた鍋を片付けにすぐ厨房へ戻るだろう。
そう思ったのだが、ドナは新しい鍋をテーブルに置くと、ふう、と一息ついてからこちらに目を向けてきた。
「あんた、昨日の夜、何か見たかい?」
などと聞かれ、私は意味もなくどきりとした。
理由はもちろん、昨夜の負い目からだ。罪悪感がふたたび膨れ上がってくる。
私はうまい言い訳を探したが、そもそもメモを携帯していなかったことを思い出した。弁解の余地なしだ。
諦めて首を振った。
「昨日は早上がりしたんだよな。そういえば腹、大丈夫か?」
助け舟を出してくれたのはグエンだ。ドナの向こうで、山盛りになった皿二枚を片手にうまく載せていた。
ドナが一度振り返り、
「早く上がったなら上がったでかまわないんだけどね……。だいたい何時くらいかわかるかい?」
再び質問。
「ちらっと見ただけだしなあ。二時ぐらいだったか」
そして二人の視線が向けられる。私は仕方なく頷いた。
間違いないね、とドナは更に念を押してくる。執拗な確認に嫌な予感がした。
「じゃあ、それより後のことか……」とドナは沈痛な面持ちで押し黙った。
一体、何の話なのか。しびれを切らしたグエンが「一体何なんだよ。この騒ぎと関係あるのか?」とドナを問い詰めると、ようやく彼女は顔を上げた。

「昨日の夜。関所の兵士が全員殺されたらしいんだ」






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