――ふいに肩を叩かれ、私は飛び上がった。
どうしてこんな林のなかにいる?
ここはどこだ?
「君、ここで何をしているんだ?」
混乱する私の前に、軍服を着た長身の男が立っていた。
慌てて周囲を見渡す。獣道より細い道と、森に近い林。人は私と兵士以外になかった。
肩を叩いてきたのはこの男だろう。
警邏用の布帽子を被った兵士は、鍔の下から疑わしげな目を向けていた。
ここで何をしているのかなど私が聞きたいくらいだが、変質者だと思われる方が問題だ。
私は慌ててメモを取り出した。……メモをいつ持ち出したのだろうか。
迷ったこと、デントバリーの者であること、そして、耳が聞こえないことを走り書きする。
ついでに読唇術ならできることも書き足しておいた。
「……。ああ、そうでしたか」
読み終えた男は顔を上げて、申し訳なさそうに帽子を直した。
「でもね、こんな所にいると危ないですよ。知ってるでしょう? 殺人犯が潜んでいるかもしれないんです」
彼の言うことはもっともすぎた。深く頷いて、すみません、と書く。
今回の事件を受けてデントバリーに派遣された兵士なのだと彼は言った。林の中で犯人を捜索していたらしい。結局、私以外の収穫はなかったと笑う。
その話を聞いて、私はなんとなく、殺人犯かもしれない人間に不用意に近づくべきではないのでは、と聞いてみた。
何がおかしいのか、彼は読むなり笑い出す。
「兵士を何人も殺すような奴が、途方に暮れた顔で突っ立ってるわけありませんよ。それに、失礼ですけど体格も」
そう言われて納得した。見るからに貧弱な私のような男が兵士を皆殺しになどできようはずもない。
だが、前者に関してはやはりいささか無用心だと思う。
よく見ればこの兵士も、そこそこいい体つきをしているが、おそらくまだ成年していない若者のようだった。
年齢の割に精悍な顔つきをしていても表情に幼さが残っている。
それではこの油断も仕方ないのかもしれない。成長とともに警戒というものを覚えていくだろう。
不躾な想像をめぐらせている私に、若い兵士は打ち解けた様子で提案する。
「よかったらわかるところまで送ってあげますよ。ここがどこかもわからないんでしょう」
その提案はありがたかった。正直、どちらへ歩き出せばいいのかすら判断がつかない。
私は難民コミュニティの「屋根裏」、と書いた。
「え? あそこですか? あそこならすぐそばですよ。この道をまっすぐに行けばいい」
あっちの方、と言って私の後方を指差す。
ここはどうやら裏の林であったらしい。
そんな近所で迷っていたことが恥ずかしくなった。そもそもなぜ覚えていないのだろうか。
「まあ、念のため送りますよ。また迷子になられたら寝覚めが悪いですから」
彼は意地悪く笑いながらも、私の歩調に合わせて案内してくれる。
並んでみると彼がかなりの長身であることが実感できた。さすがにアリアナほどではないが、グエンより目線を上に感じた。
髪を伸ばしているようで、後ろで一まとめにされた黒髪が目に入る。細くまっすぐに伸びた綺麗な髪。私の弱々しくもしぶといくせっ毛とは大違いだ。
「――ところで、ここ、どうしたんですか?」
ここ、と言いながら兵士は自分の左頬を指した。三日か四日前にキャスに殴られた痕。
もう腫れは引いてしまっていたので忘れていたが、まだ鬱血が残っていたのを思い出す。
「うわぁ……、よく見るとけっこうひどいですね。ケンカするようには見えないけど」
そうなのだろうか。あまり痣を見ることさえないので、よくわからない。
深くは訊かず、すぐ治るといいですねと優しく微笑む兵士。なんとも社交的な男だ。

(みつけた)

――寒くもないのに一瞬ぞくっと震えた。
そういえば、私は頭痛を起こしていたのだったか。
もう痛みはなくなり、むしろさわやかともいえる気分だったが、熱が出始めているのかもしれない。
ありがとう、と書く文字が少し崩れている。
こんな見も知らぬ人にまで失態をさらすわけにはいかない。
少しでも元気に見えるよう、気を張ってみた数秒後。
「あ、見えてきましたよ」
彼の言ったとおり、歩いて五分もしないうちに施設の勝手口が見えてきたのだ。
本当に一本道だったらしい。だが、一本道とはいえ、使われていない裏道の奥まで、私は何をしに行っていたのだろうか。
もやもやと考えつつ彼に深々と礼をする。
彼はこれが仕事ですからと恐縮した。仕事をさぼるような輩も多いのに、感心な若者だ。
「じゃあ、僕はこれで戻ります。……あ、そうだ。これも何かの縁ですし、名前を教えてもらえませんか?
 下っ端の僕にもできることがあれば相談に乗りますよ。お会いした時、なんだか悩んでいるようでしたしね」
彼に見つけられたとき、私は何か悩んでいたのだろうか。頭に靄がかかるどころか、その靄さえ見当たらない。
なぜ彼がそこまで私などを気にかけるのか、ふと違和感を覚えた。聾唖ゆえの同情だろうか。
それでも好意はありがたく受け取ることにした。外から来たせいかもしれないが、初対面で偏見を持たず接してくれた人は久しぶりだ。
自分の名前を書いて渡す。
「レンツ……ヴァイルですか? それともウィール?」
その言葉に驚く。確かに本来、私の苗字はウィールと読むらしい。なんでも古い言葉の読み方なのだと叔父が言っていた。
だが、実際に古いほうの読みを言ってくる者は初めてだ。私もそちらの読みがあることをすっかり忘れていたほどだというのに。
一応ヴァイルの方だと説明し、よくそんな読み方を知っているものだと感心する。
彼は恥ずかしそうに笑い、
「いえ、ただの趣味ですよ。いろんな名前の読みがわかるとその人のルーツもわかって楽しいんです。僕の苗字も古い読みがあるからかな」
あなたの名前は? と尋ねる。彼は帽子の鍔を少し上げ、
「ルイス・パーネットです」
ルイス・パーネット。
ルイス。
……?
ペルネとも読むんですよ、と解説する彼の話をもはや私は聞いていなかった。
どこかで聞いた気がするのだ。だが、それがどこであったのか。
私は彼に、どこかで会っていないかと尋ねようとした。ペンを持つ手が震えていて、うまく書けない。
その間に彼はもう歩き去ろうとしており、「お迎えが来たみたいですよ」と軽く手を振っていた。
振り向くと、ひどく憔悴したようすのアリアナを筆頭に、アビィ、ドナ、キャスとマギーがこちらへ駆けてきているのが見えた。
彼はもう林の奥へ消えようとしていた。
行かないでほしい。これを読んでくれ、だから、待って。
アリアナの大きな体に抱きしめられた時、メモにはいびつな線しか残っていなかった。
なぜこんなにも震えているのかがわからなかった。






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