翌日。
今日は珍しく雨が降っている。勢いは強いが長雨にはならなさそうだ。
いくぶん下がった気温にほうと息をつく。故郷が北の方だったせいか、暑いのはあまり得意ではないのだ。
「確かにここは暑いですよね。僕も暑いのは苦手です」
私の言葉を受け、隣のルイスが芝居がかった手つきで喉元を扇いだ。
陶磁器のように肌理細やかな白い肌を見ても、彼が暑さに強いとはとても思えない。どちらかというと雪の中にいるほうが合っている。
想像通りの返答に口を緩ませ、私は暗い空を見上げた。

自室にて安静にすべし、という指示に従わず私は今施設の外にいる。
とはいっても街に降りるでもなく、ただ正面玄関の屋根で談笑しているだけなのだが。
目に届く範囲ならば外出しても構わないだろう――古参の者より外部から来た彼の言葉に従ってしまったことに多少の罪悪感はある。
だが今日も今日とてルイス以外に誰も来はしなかったのだから、こちらも多少好きにしてしまおうとも思ったのだ。
唯一の訪問者である彼もまた、業務上ずっと建物内にいるわけにもいかないだろう。
「昨日亡くなられた方の身元がわかったんです。外れにある――」
何か事件の進展はあったのかと尋ねると、やや渋い面持ちでルイスはそう告げた。
シンディ・グレアム。街の外れ……キャスたちが来た初日、早速問題を起こしたあの宿屋の奥方だった。
喋ったことはないが、何度か見かけたことならある。悲しむほど親しくはなかったが、彼女がもうあそこには立っていないと思うと不思議な気持ちにさせられた。
「人が死ぬ、っていうのは悲しいことですね」
雨粒の向こうを見つめるルイス。そう、知っていようがいまいが、そこにいたはずの人がいなくなるということは悲しく寂しいことだ。
「すぐにでも捕まえたいみたいですけど、今回で犯人像が大きく変わってしまったので……」
淡く微笑む彼は今何を考えているのだろう。能力のない自分に落胆しているようにも見えた。
言い方は悪いかもしれないが、彼ひとりが参加したところで捜査が進展するわけでもない。
彼もそれはわかっているからこそ、苦悩しているのかもしれなかったが。
だが確かに犯人はこの街にいるようだ。さすがに詳しくは伏せているが、同一犯と見ているところから手口なども同じなのだろう。

政治的犯行の線は薄れ、今度は異常者の仮面をかぶった犯罪者がどこかに潜んでいる。
この街で、同じ雨を見ているのだ。
「――いけない。天気が悪いからこそ明るくしないと」
どこかばつが悪そうに笑うルイス。いくぶん砕けた口調が心地よい。
「それにしてもよく降りますね」と、ルイスは少し腰を屈め曇天を見上げた。
その時、ふわりと鼻をかすめた臭いに思わず首を傾げる。
水を吸い込んだ土の匂いかとも思ったが、そうではなかった。

(いらないならもらおうか?)

「――あ」
視界の隅に動くものを捉え無意識にそちらをうかがう。
年代物の古びた傘、胸に抱えられた大きな紙袋、そしてこの遠さでもよく見える大きな体。なぜだかひどく懐かしく思った。
アリアナは傘のせいで最初はこちらに気付いていないようだった。知らず彼女に釘付けになる。
ルイスも気付いたようで、視線を丘の下り坂にやっていた。
顔を上げたアリアナと目が合う。
私を見て、何か言いたげに口をもごもご蠢かせる。どうしても伝えたいことがあるような、切羽詰った表情だった。
彼女との摩擦も忘れ、声をかけようと思った。
――が。
「こんにちは」
何かに動きを阻まれた。いや、何かはわかっていた。だが、なぜ。
私の肩に手を置いたルイスはやはり穏やかな笑みでアリアナにそう言っていた。
いきなりの接触に驚き身を固める私。それに、どこか動きを遮るような雰囲気も感じていた。
「……っ」
ルイスに挨拶されたアリアナは硬直していた。
顔から血の気が引き、唇がわなわなと震えている。今にも傘や荷物を落としかねない勢いだった。
彼女は何におびえているのだろう。
いや――わかっている。だが、やはり、なぜ?
私は手を伸ばした。瞬間、アリアナの肩が大げさなほどに跳ねた。
そしてこちらの視線を振り切るように走って通り過ぎていったのだ。玄関には入らず、普段は使いもしない勝手口のほうへ。
追おうかとも思った。それができなかったのは、
「まだレンツさんを受け入れきれてないんでしょうか」
同じくアリアナを目で追っていたルイスがそうこぼしたからだ。肩からも手が離れる。
彼は私とアリアナにある隔たりを知っている。昨日、世間話のなかで私自らが説明した。
それにしても彼女は彼を見てうろたえていたような気もしたが、二人はほとんど面識がないはずだった。
見間違いなのかもしれない。ルイスにも心当たりがないのなら、やはり私との行き違いが原因なのか。
私もまた寂しさをおぼえつつ、もうとっくの昔に見えなくなっていた彼女の行く先を見送る。

そこに見慣れない、だが見覚えのあるシルエットが現れた。
「……ああ、そういうことか」
グエン。
アリアナを振り返るように後方を見ていた彼はこちらに頭を戻すとそう言った。
私は内心で慌てる。いくら顔を隠しているとはいえ、そんなに堂々と姿を現していいのだろうか。
「二人して雨宿りか?」
更に驚くべきことに、グエンは私たち二人に向かって話しかけてくるではないか。
昨日までのあの冷淡な反応はなんだったというのだろう。
「僕の仕事に付き合ってもらってるんですよ」
対するルイスはやはりいつも通りだ。いや、むしろ不審者の塊のような格好の彼に何のためらいもなく返答できるのだから肝が据わっていると言える。
「見回りとか言ってたな」
グエンも昨日までの警戒心はどこへ行ったと言いたくなるほどの自然さだった。
うろたえる私をよそに二人は会話する。読み取らなければいけないわけでもないが、正直首が痛い。
「重大事件のわりにはのんびりしてるんだな」
「お恥ずかしい話ですが、僕は入りたてなので……」
「訓練卒か?」
「そんなところです。お詳しいみたいですね」
皮肉まじりのグエンに臆することなくルイスは丁寧に答える。
ルイスの発言に答えずグエンは顎で向こうを指した。
「……ここじゃ通行人の邪魔だ。歩かないか? 見回りも兼ねて」
やたら積極的なグエンに戸惑いは隠せない。
グエンは興味なさそうな無表情を貫いているし、ルイスもまた人のよさそうな笑みを浮かべたままだ。二人の表情は判然とせず、どことなく不気味だった。
そして私はどうするべきか。グエンはルイスを誘っている。ならば私は邪魔以外の何者でもないだろう。
ひっそりと退散しようとしたが、
「じゃあ、ちょっと散歩しましょうか」
玄関そばに立てかけてある傘を二つとるなりルイスは私にそう提案してきた。
――私も行くのか?
彼の発言にグエンも否定する様子はない。渋々傘を受け取り広げた。

「ここは元々、学校だったんですよね」
私は左端に立って二人と肩を並べていた。後ろを歩いてもよかったのだが、身長から言って傘もさほど視界を邪魔しないためなんとなくそこにいる。
隣はルイス、その向こうにグエン。
「そうらしいな。戦争が始まって閉校した校舎を借りている」
ルイスの当たり障りのない言葉にグエンはあまりにも素直に頷いた。
……帰りたい。
「僕が生まれた頃には学校なんて都会の一部か養成学校しかありませんでしたね」
「この街じゃ教育なんて受けている奴はいない。読み書きできない子供も多い」
アリアナやアビィも難しい単語は苦手だ。私は体質上文字を書く機会が多いため、以前はよく彼女たちに字を教えていた。
「見たところお前はそれなりに教養がありそうだな」
それは私も感じていた。物腰もそうだが、発言のひとつひとつが丁寧なのだ。
都会から来たようだし、彼はもしかすると学生を経験した数少ない若者なのかもしれない。
「養成学校なら行きましたけど、多少読み書きができるくらいで」
やはりルイスは苦笑交じりに謙遜した。

勝手口が見えた。その向こうには忌まわしい林が。
林は雨を吸い込み、より鬱蒼と茂っているように見えた。暗闇がこちらを吸い込もうとしているようだ。
「……自己紹介がまだだったな」
立ち止まったグエンが口を開く。
嫌な予感がした。というより、彼の発言が信じられなかった。
だがちょっと待てと制止する余裕などない。それ以前に私にどうやって止められるだろうか。
「俺はグエン・ヨウニ。元兵士だ」
あまりにもあっさりとグエンは自らの正体を明かした。
彼が何を考えているのか、私にはさっぱりわからなかった。昨日からの雰囲気からして、施設ごと口裏を合わせて素性を隠していたようだったのに。
時折見せる感情を隠した顔をして、その裏で何を――考えているのだろう。
「……」
ルイスはあっけにとられたらしく無言だった。
「もちろんあちら側のだ」とグエンが余計な補足をつけた。
何を言っているんだ、と抗議の目線を送るも黙殺される。彼の思惑が何なのかは知らない。少なくとも意志は固いようだ。
もっとも、今更発言を撤回することなどできないのだが。
唇に手を当て、探るようにグエンを見るルイス。視線を受けてグエンは帽子を脱いだ。これでどうだと言わんばかりだ。

永遠のように感じられたが、数秒後かあるいはもっと後か、
「そうですか」
ルイスが口にしたのはあまりにもそっけない返答だった。思わず肩が落ちる。
「僕はルイス・パーネットと言います。短い間ですがよろしくお願いしますね」
既にいつもの笑みを浮かべルイスは律儀に右手を差し出した。
握手しようというのか。
グエンは先ほどとは反対に疑わしげな目でその手を一瞥したが、彼もまた右手を出して応える。
出された手が震えているように見えた。内心で彼は恐れていたのか、いや、恐れているのだろうか。
「……ずいぶんと友好的なんだな」
握手を交わしながらもグエンは警戒を緩めないようだった。警戒するのなら最初から言わなければいいのに。
「停戦中でしょう? それに僕は実際に戦線に上ったことはありませんから」
「へえ」
グエンの相槌はどこか腑に落ちていなさそうだ。手が離れる。
「元、ということは今は関係ないわけですよね。警戒なさらなくとも大丈夫ですよ、僕はグエンさんを拘束する気はありません」
彼は早速親しげな呼び方で私たちに説明した。
確かに停戦中ではあるし、彼もとっくの昔に現役を退いている。というより、向こうでは死者として扱われているだろう。
だが、それでも、放置というのはいささか乱暴すぎはしないだろうか。
もちろん何事もないのが一番いいのだが。
「関係があるとは思わないのか? 今回の兵士三……おっと、四人だったか、その殺害事件には?」
なぜだか既視感をおぼえるせりふをもってグエンが再び疑問を投げかけた。
彼は終始徹底して無表情、時折探るような目をしながら唇をわずかに歪ませている。なんとなく違和感があった。
こんな無機質な姿を見たことは一度もなかったのだ。
「昨日の犠牲者が出たことで反政府的人物による犯行の線は少し薄れたようです。もちろん有力な情報があるなら協力していただければ」
「もしもその反政府的人物、組織が存在していてその一員だったらとは考えないのか」
「もしそうであれば、どうして都会でも国境の近くでもないこの街を選んだのかを聞いてみたいですね」
「……そういえば少し前からうちの居候が忙しそうにしているが」
「通信などの連携は教会を経由するのが一番早いんですよ。あのお二人にはご迷惑をおかけしてます」
「二つの事件はどうして同一犯だと?」
「確定ではありません。詳しくはちょっと言えないんですけど、遺体に共通点が多いのでその可能性が強いと見ています」
「ずいぶんと楽観的なんだな」
「そちらこそ。自分を粗末にしてもいいことはありませんよ」
……首が痛い。
二人の表情はまったく変わっていないのに、私のあずかり知らないところで加熱していたのだろうか。
矢のように飛び交う会話のうえにテンポも速く、しかも今日は傘まである。先ほど視界を邪魔するほどではないと述べたが、私は言葉を読み取るので精一杯だった。
不可解な言葉の真意が何なのか私にはわからない。しかし最後だけはどちらの考えもわかる。
軍部はなんだか楽観的にも思えるし、グエンもなぜか自分を犯人にしたいかのような口ぶりだ。
――グエンは前もそんなことを言ってはいなかっただろうか。ぽっかりと欠落した記憶のどこかが引っかかった。

二人はごくわずかの間を置いて沈黙したが、
「ありがとうございます」
ルイスがすぐに沈黙を破った。
さっきまで貫いていた無表情を崩し、怪訝な顔でグエンが首を傾ける。
「自分のリスクを冒してまでグエンさんは僕に素性を明かしてくれましたよね。ずっと隠し通せるものでもありませんけど、自分から言えるものではありませんよ。
 公にするのはやっぱりあまり良くないと思いますし、上には内密ということで僕の胸にしまっておきます」
どうやら突然の感謝は、グエンの勇気を称えたものであるらしかった。
戦争を知っている世代では絶対にこんな真似はできないだろう。若いがゆえの寛容さなのか。
「お話ができてよかった」とでも言いたげな笑みを見るに、単に彼の危機感が欠如しているだけなのかもしれないが。
実際、グエンもまるで人でないものを見たかのような目をしていた。
ややあってグエンはかぶりを振り、帽子を再びかぶる。つばの下から覗く黒い目は気だるげなそれではなく、無表情に戻っていた。
「仕事あるから」
ルイスの言葉に反応するでもなく、それだけを言った。くるりと背中を向けてまた丘を下っていく彼。もしかしてこのためだけに帰ってきたのだろうか。
グエンの手はまだ小刻みに震えていた。
私はその背中を見送って、やはりどうして私が連れてこられたのかさっぱりわからず考え込んでいたが、
「じゃあ戻りましょうか。風邪を引いたら大変ですし」
結局ルイスに促されグエンの行った道をなぞることになった。






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