安穏とした空気が流れたところで、背後から気配がして振り向いた。
ルイスたちには物音として伝わっていたのか、同じく後ろを見やる。
「おや、まあ……食後だっていうのにやけに来客が多いね」
昨日の私が思ったことと似たせりふをドナがもらした。
食堂の扉を開けたのはキャスだった。常に一緒にいる印象を受けていたが、珍しくマギーの姿はない。
彼は相変わらず薄い眉をしかめ、どことなく不機嫌そうにこちらを見た。
「あんたも昼を食べ損ねたのかい?」
ドナが問う。彼女は以前の一件以来、キャスに対して少しだけ距離を置いていたはずだった。
しかし先ほどの会話で気持ちも和らいだのか、表情も幾分か柔らかく見えた。
「……いや。教会で、食べてきた、から」
対するキャスはまだ負い目があるらしく、ぎごちなく答える。
そうかい、とドナは軽く笑い、
「なら、誰かに用でもあるのかい? 食事以外にこんなとこ来やしないだろ」
「……」
キャスは今度は答えるでもなく俯いた。何なのだろう。血気盛んな外見に似合わぬ内気な様子がちぐはぐだ。
ドナやルイスも不思議そうな顔で彼を見つめていた。その視線を受けてか耳が若干赤くなりかけているのがわかる。
「あんたと話がしたかった」
意を決したように顔を上げたキャスは、まっすぐ私を見てそう言った。
ドナでもなく、ルイスでもなく――ルイスに対して言うのはもっとおかしいだろうが――この私を見ていた。
もし私に声が出せているなら、私? と問い返していることだろう。
最近の来客の多さ、というより他人との接触の多さには驚くばかりだ。なぜ皆こちらを注目してくるのだろう。
「珍しいこともあったもんだね」と、ドナも少しだけ驚いているようだった。
そもそも彼は私と同じように、極力他人との接触を避けて暮らしているようだったのだから。どういう風の吹き回しだろうか。
「まあ、あたしは片付けとか夕飯の準備があるからね。ああ、ゆっくり食べてて構わないよ」
言い残してドナはよっこらしょと立ち上がり、再び厨房へ戻っていく。
残されたのは何とも奇妙な取り合わせ。キャスと、ルイスと、私。
私に何の話があると言うのか、キャスは殊更に顔をしかめて立ち尽くしている。
「そんなところで話もなんですし、座られたらどうですか?」
助け舟を出したのはルイスだ。しばらく彼を見て複雑な表情のまま沈黙していたキャスだが、気乗りしない様子で足を進め始めた。
二人で話したかったのだろうか。確かに、彼にとってルイスは見ず知らずの他人に近いだろう。しかしそれは私に対しても同じはずだ。
やはり彼の行動に疑問を抱かずにはいられない。

私は奥の席に座っており、向かいにいるルイスの方がキャスにより近い場所にいる。キャスは彼から一席空けて腰を下ろした。
その瞬間、何か奇妙な感覚が走った。この光景を――これを見たことがあるような、体験していたかのような、既視感とでも言うべきか。
既視感は、しかし不協和も伴っていた。あるはずのものがないという感覚。ここにいるべきなのは、キャスではなく――

「きちんと話すのは初めてですね。ドルフィさんでしたっけ」
――やはり私の些細な違和感は、誰にも気付かれることなく流されていく。当然だ。彼ら二人がこの感覚を味わっているわけではないのだから。
そう、これもまたきっと私が変わったと言われるものの一つなのだろう。気にしてはいけない。私は何度目かの違和感を振り払った。
ルイスがにこにこと話しかける。やはり彼はキャスの奇抜な格好に驚いたりはしない。
また彼の本名についても特に言及する様子はなかった。その気遣いの細やかさには、もはや感服するばかりだ。
「……キャスでいい」
不機嫌そうに呟くキャス。私の周りには名字で呼ばれることに抵抗のある者が多いのだろうか。
ではそう呼ばせてもらいますね、とルイスが応じ、再三自己紹介を済ませる。
キャスは彼の挨拶にもあまり反応を見せず、ただ頷くだけだった。そしてルイスの顔を怪訝そうに見つめる。
やはり彼がここにいることを好ましく思っていないのか。私はためらいがちに、話があるといっていたが、とキャスに示して尋ねた。
「……」
キャスは何度か口をぱくつかせたが、言葉にならないのか意味のある単語を作らなかった。
その様子を見兼ねたか、
「心配されてたんですか? レンツさんのこと」
私に話があるということは、大方が私の異変だとか体調に関するものであろうとは推測していた。
だが、そこまでストレートに言われると何か恥ずかしい。それにキャスは体調を心配してくれるほど私と親しかっただろうか。
「いや……、なんつうか」
彼もまた直球の問いに臆したか言葉を濁す。優しく微笑み返すルイスの表情はキャスより年少と思えない包容力があった。
「あんたは知ってるのか? ……知ってるんだろ?」
何を知っているのかは明言せず、キャスはただルイスに問い返した。
私にはそれが何を指しているのかはわからない。だが二人の間では通じているらしく、
「原因はよくわかりませんけど。でも、何となくは」
ルイスはキャスの言葉に同意を見せた。ならいい、とキャスは幾分か肩の力を抜く。だがすぐに厳しい顔に戻った。
「……あいつの部下なんだろ? それなら、今だって……」
「部下、というより知り合いに近いんです。もちろん階級は違いますけど。でも、何も命令だからってここにいるわけじゃありませんよ」
本来の主題であろう私をさしおいて、不思議な会話が飛び交った。
キャスはどうやら、相手の立ち位置についてを慎重に探っているらしい。
少し前に軍と教会とが連携しているという話をちらりと聞いたが、キャスは軍をあまり信用していないのかもしれなかった。
それだけ確認して満足したか、しばらくルイスをまじまじ眺めていたキャスは今度こそ表情を和らげた。
「それなら、いいんだ」
机の上に載せていた手、にぎられていた拳の力がわずかに緩まったことにも気付いた。
返答次第では彼は殴りかかっていたのだろうか。印象でものを言うのはよくないとわかっているのだが、私はそう思えてならなかった。
「キャスさんがそう思われるのも仕方ありませんよ。僕も今の軍はあまり好きではないですし」とルイスが苦笑する。
対するキャスは別のところで不愉快に思っているようだった。というのも、彼はあまり敬意を払われたことがないのか、さん付けで呼ばれてむず痒そうにしているのだ。
だが更に訂正する気はないようだ。「それで、僕がいて差し支えないなら――話とは何なんでしょうか」と問うルイスの言葉に耳を傾けている。
キャスがこちらに向き直った。先ほどのように躊躇いがちではあるが、意を決したかまっすぐとこちらを見据えてくる。

(あんたの目。見透かされてるような――)

「――悪かった。ほんとに、悪かったと思ってる」
そう言うなり、彼は勢い良く頭を下げた。
――何なんだ?
謝られる覚えのない私。まさか殴ったことについて? 確かに謝罪を受けた覚えはないが、
いや、
受けただろうか?
「……わかってる。あんたが俺と話したことを覚えてないってのも。だけど、謝りたかった」
違う、違う。私は前にも謝られたことがあるのだ。いつだったかは思い出せないが、そう、確かにそんなことがあった……気がする。
だからそんなに謝らなくともいい。覚えていなかったのも私が悪いのだし、殴られたことだって気にしてはいない。
ようやく取り出すことができたメモ帳に書き出すと、キャスは悲しげな様子で首を振った。
「俺が言ってるのは殴ったことじゃない。あんたが……その……他の奴らに変に思われたのは、多分俺のせいなんだ。だから本当に、悪かったと思って――」
キャスのせい?
それは一体、何の話だ?
当事者であるはずの私にはさっぱり話が見えず、しかしキャスは心から罪悪感を覚えているようで殊勝に頭を下げなおした。
整理しようではないか。このままでは訳がわからない。私もいい加減言葉足らずだが、彼と話しているとそれが助長されてしまう。

私は今、一部の記憶をなくし、何か大切なことを忘れていると指摘され、なぜか体調が――本来あったものがなくなっていると言われている。
彼の言葉をそのままに受け取るのなら、そうなった原因が彼によるものだということになる。
この解釈で正しいだろうかと尋ねると、キャスは頷いてきたではないか。
なぜそんなことを思うのか?
「他の奴らの話を聞いてて、気付いたんだよ。あんたがそうなったのは、俺と話した直後だった」
尋ねるとキャスは淀みなく答えた。
――だからといって、それが即原因になるわけでもないだろうに。彼はずいぶんと罪悪感に打ちひしがれているようだが、単に私の体調不良ということも否定はできないだろう。
「……」
しかしそう書くと、彼は黙ってしまった。
何か他に心当たりがあるということなのだろうか。そしてそれはとても言い出しにくいことなのだろうか。
覚えていないせいでどうフォローすべきかわからず、困り果てる私。すると、
「キャスさん。一人で抱えていても仕方ありませんよ」
黙っていたルイスが代わりにキャスを促した。
「レンツさんは思い出したいって思っているんです。もしあの夜、キャスさんが言ったことが原因でこうなっていたとしても――
 知らないでいるより、知ってから一緒に解決法を探せばいいんじゃないですか?」
僕が言うことじゃないかもしれませんけど、とルイスは恥ずかしそうにこちらを見てきた。私はそれに頷いて答える。
彼の言うとおりだ。私が言い切れないでいた言葉をそのまま代弁してくれたようなものだ。むしろ、よりいっそうきれいな形で。
どれほどひどいことを言われていたとしても、知らないままでいることは気持ちが悪い。知った後はまた苦しむことになるのかもしれない。
しかし、それでも、知らないままでいることよりは遥かに有意義だと思う。
キャスは彼の言葉を受け、長く迷っていた。
「僕で良ければ一緒に考えますよ。第三者がいたほうがいいでしょう?」
ルイスの提案で意を決したらしく、ゆっくりと顔を上げ、ひどく申し訳なさそうな表情のままぽつりぽつりと話し始める。






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