――あの日。兵士の殺害事件が起きた頃から少しだけ遡った夜。
私がいつものように屋上で外を眺め、夜警をしていた時に、キャスは屋上へ向かったそうだ。
「あの時も、今みたいに言いたいことがあった。だけど何を言いたいかとかよくわかんねえから、なんとなく行っただけだった。とりあえず謝らなきゃって思ってたし」
彼は私のことを苦手に思っていたらしい。だがそれでも彼は私に何事かを言いに向かった。
何事かが何なのかはまだ言わなかった。
その夜に見た私には別段変わったところはなく、殴った張本人である自分を平然と受け入れたのだという。
二、三言葉を交わし、少しだけ緊張が和らいだところで暴力を振るったことに謝罪した。私はそのことを忘れていたと言ったようで、それを知った彼は思わず呆れてしまったらしい。
言われれば所々を思い出すことができた。やはり彼は、前に一度謝ってくれていたのだ。
(目が――見透かされて)
それで、と彼は話を続ける。
もちろん謝ることも目的だったが、もっと言いたいことがあったと。先ほど言葉を濁した本題のことだろう。
謝罪のあとは何となく言葉が続かず、じりじりと時間が過ぎることに焦っていたキャス。
山々を眺めていた私を見て、これしかないと意を決したのだそうだ。
そしてここで初めて、私は驚くべき事実を知る。
「あんたは言ってたんだ。ふもとの街だろうが、ずっと向こうの関所だろうが――障害物がなければ見えるもんだ。それが普通だって」
キャスの言った言葉が信じられず、いやそれは私が言ったことらしいが、本当に私がそう言ったのかと念を押した。
そうだ、とキャスはなにやらポケットを探り始める。出てきたのはくしゃくしゃになった紙片。
私のメモだった。そこには確かに私の字で、「今まで見える範囲で見えなかったものはない」と書いてあった。
グエンが――あの兵士が言っていたことは、まさか、本当だったというのか?
私はこれを忘れていたのか?
だが、いくら紙面を睨んでも、私はこれを書いた記憶などまったくなかった。思い出すも何も、最初からないと思えるほど心当たりがない。
荒唐無稽だと思っていた話が真実で、しかも私自身がそれを当然のことのように認識していた。その事実に打ちひしがれる私をさしおいて、話は進んでいく。
「それで、俺はどうしても信じられなかったから……有り得ねえ、信じられねえ、異常だって、言ったんだよ」
キャスは深く恥じたように目を伏せていたが、正直なところ私はちっとも彼を悪いとは思えなかった。
彼の反応は至極当然のものだ。というより、そうなんだとあっさり認められる人などいるはずがないだろう。そんな人がいたら教えてほしいくらいだ。
だがその時の私の反応は違ったらしい。ペンを持ち、なぜそんなことを言うのかと不思議そうに尋ねたそうだ。
キャスは自分が担がれていると思ったのだという。私も今、担がれている気分だ。
「目がいいとしても、せいぜい何メートルぐらいの話だろって。それに生まれつきでもなく、事故で耳が聞こえなくなったあんたに、どうしてそういうことができるんだって」
思わず深く頷きそうになるのをこらえ、私は半ば呆然と、次々に出てくる紙片を目で追った。
書き綴られた文字を追い、キャスの言葉を反芻すれば、このときの私は徐々に追い詰められていっているのだろう、枚数を追うごとに字に余裕がなくなってきていた。
「あんたはこう書いたんだ――」
キャスが一枚を、ためらいがちに差し出した。
そこにはこう書いてあった。
――これまで十年以上も暮らしてきた施設の人たちは誰も、私を異常などといわなかった。賞賛の声さえくれた。
――もしも私の視力が異常だというのなら、どうして私はここで普通に暮らしていけているのか。今こうやって集団の中で生活などできなかったはずではないか。
――だからこれは別に異常でもなんでもない。ただ、多少よく見える。それだけの話だ。

(だから忘れて逃げ出せと言ったのに)

そう。そうだ。
私はそう書いて、
「それを見せられた時、つい……ダメだってわかってるのに、だけど……あんたは何も知らないんだ、って思ったら――」
キャスはひどく悲しげな目を向けてきて、
「――きっと、あんたは知ってたんだ。だからあんな顔……知ってて、ずっと忘れようとしてきたんだ。それを俺が、余計なことを言ったばっかりに……」
――もういい。
私は手を前に突き出し、顔を下に向けた。
そうすれば、私には何の情報もなくなる。余計なことを見ることもなくなる。
実際、すべて思い出せたわけではない。断片的に画像が出てくるだけだ。私がそう書いたこと、キャスが向けてきた目のこと。
なぜ彼はそんな目を向けたのかは思い出せない。いや、思い出したくなかった。
頭がひどく痛む。痛むというより、疼いている。どくどくと血管の動きにあわせ、膨張しているかのようだ。
思い出せないのに、これ以上聞いてはいけないのだという予感があった。
駄目だ。これ以上は。
だがなぜ、なぜ思い出してはいけないのだろう。
(みんなみんな燃えていくよ)
――そう、だめだ、ああ、いけない。 ――このままでは、リズが――リズがくれたのに――駄目だ。駄目だ。リズとは誰だ? 、私はそう考えるべきなのだ。
ああでも、忘れたくない。忘れたまま、大切な友達、家族、リズ、アリアナ、アビィ、グエン、ドナ。
私はどちらを歩けばいいのだろう。
どちらかを歩くことで誰かが不幸せになるのなら、どうして私が、私がここにいる理由、私が、この、世界に――、

手だ。
大きく、少しざらついた温かなぬくもり。
そこに、すぐそばに人がいた。
もう何も聞きたくない、見たくないと思っているのに、私は気がつけば顔を上げていた。
「大丈夫だよ」
机の向かいから、私の手をとって励ましてくる。
――ルイス。ルイス?
彼はそんな性格だっただろうか、敬語は、いや、しかし、そう。余計なことだ。そうだろう、誰だか忘れてしまった私の友達。
薄い灰色の大きな瞳は優しく弧を描き、私をやんわりと見つめていた。
「大丈夫、大丈夫だよ。君はここにいる。僕と彼と、みんなが今、ここにいるよ」
少しだけ幼い口調でルイスが私に言い含める。私は彼の声を知らないが、穏やかな口調が心地よく響いた気がした。
「どうあっても君は君だよ。何も変わりはしないでしょう?」
混乱を続けている私の視界は、しかし何か一点に集中することで徐々に落ち着きを取り戻し始めていった。
ルイスに促されるままゆっくり目を閉じ、数回深呼吸を繰り返す。目を開けた時、先ほどまでの雑然とした内心が薄れているのがわかった。
「……本当に大丈夫か?」
キャスに目をやる余裕も出てきた。彼はらしくないほどに憔悴した様子で、年甲斐もなく取り乱した私をひどく心配してくれているようだった。
ほとんど面識のないはずの彼までもが驚いてうろたえている様子を見て、私はそうか、と合点する。
施設の者たちが――アリアナやグエンたちが私の変化に戸惑い敬遠した理由がなんとなく理解できた。
なぜこうなってしまうのかは私にもよくわからない。しかし、普通でないことは確かだ。私は確かに何かを忘れ、そしてそれを思い出すことを恐れている。
「やっぱりやめておいた方がよかった」と嘆くキャスに、首を振った。
そんなことはない。確かにまだ、完全に思い出すことはできず混乱してしまったが、それでも私は自分の状態についてきちんと知ることができた。
自分で思っていたよりも異常をきたしていること、辛くないと言えば嘘になるがそれがわかっただけでもよかったと思えた。
「でも」とキャスが食い下がる。
「今のを見てわかった。やっぱり俺のせいだ、俺が変なことさえしなけりゃ、あんたはこんな嫌な思いすることもなかったんだ」
私の異変を見て、彼は改めて自分の罪を悔いているようだった。
だがそれは違う。キャスは元々部外者なのだ。部外者の言葉で簡単に崩れる程度に、私が脆かっただけの話だ。
キャスは私の言葉に顔を歪めた。ひどく傷ついたような、今にも泣き出しそうな表情で、怒ったように眉を寄せた。
「あんたは……あんたは優しすぎるんだ。殴りたきゃ殴ればいいし、怒りたきゃ怒ればいいだろ? なんで、なんで許すんだよ!」
ある意味、私を責めているようにも思える言葉。しかし彼の深い後悔を知っている私は、彼を責めることなどできなかった。
彼もまた、同じようなものを抱えているのだろうと何となく理解していたのだ。だからこそ過度に自分が悪いと責めている。
キャスは何も悪くない。私は優しくなどないし、自分のやりたいことばかりやっていていつも迷惑をかけているほどだ。
「キャスさんだけの話じゃないと思いますよ。もっと、ずっと前から無理されてたんでしょう」
元の口調に戻ったルイスが私の気持ちを代弁した。頷いて、気に病むことはないとキャスを反対に慰める。
それでもキャスは納得がいかなかったようなので、私はこう提案した。
いつか本当に私が怒った時、その時はキャスのことを思い切り殴ろうではないかと。
多分そんな時が訪れることはないだろうが、煙に巻いた私の提案にキャスも渋々頷いたのでよしとしよう。

結局なぜ私がこうなったのか、その具体的な原因については判明しなかった。
キャスは教会への用事があるとしばらくして去り、その後にルイスも帰っていった。
一人取り残され、ふと時計を見ればあと一時間で夕食時だということを知る。
このまま食堂にいるべきだろうか。それとも自室に戻っておくべきだろうか。
悩んだ末、厨房にいるドナに尋ねることにした。ドナは手を止めて一緒に悩んだ後、やはり一応は戻っておいた方がいいだろうとアドバイスしてくれた。
グエンとは多少喋ったが、アリアナやアビィなどとは不和のままだ。それに、他の人たちに余計な印象を与えたいわけでもない。
彼女の提案通り自室に戻ることを伝えると、夕食を持っていくからと彼女は申し出てくれた。その表情はすっかりいつも通りで、私も笑顔で礼を述べる。
……そうして私は、図らずもこの一件の「原因」とやらを垣間見ることになった。


食堂を出て、自室に帰る道中のことだ。
廊下の窓を覗き、雨が小降りになったことを知る。やはり雨季でもない季節はずれの雨は短命だった。
明日からはまた暑くなるだろうなと思いつつ、道すがらの洗面所に立ち寄ったのだ。
「――あの家に集まることになりそうだ。奴と言えば、兵士が何事か聞いていったらしいな」
「へえ? あんな化け物に何の用があったんだろうな――ああ、もう目も見えないんだっけか――」
壮年の男二人が手を洗っていた。
私はついうっかりと何の警戒心もなく入り、そのまま彼らの口許を見てしまった。
洗面所には扉がないため、長い会話もすべて目に入ってしまったのだ。
なんとなくわかった。私のことを言っていると。
ついに役立たずになったか、と笑いあう二人は、こちらを見るなりぎょっとして口をつぐむ。
そのまま何事もなく入ろうか、それとも引き返そうか迷った。
自分の陰口を囁かれている現場に居合わせたのに思ったことはひどく現実的で、我ながらちぐはぐだと思う。
しかし先ほどまで取り乱していたのが嘘のように、私の心は不気味なほど静かだった。
一瞬ではあったが、迷った末に私は彼らに向かって軽く会釈した。
驚いたまま反応を見せない二人。そんな彼らの姿を見て、私は引き下がることにした。
――ハロルド。サミュエル。嘲っていた二人の名前を思い出す。
二十年以上このコミュニティにいるのに、私には親しい者が驚くほど少ない。
また、私と仲良くしてくれる人たちは誰もが慎重に、他の者たちと私とが接触するのを避けていた。今、ようやくそれがわかった。
……だが、なぜなのだろう。なぜ彼らは、私をそんなにも疎んじているのだろう。
子どもの頃はよく遊んでくれた二人の姿を何度も何度も思い出しながら、私はいつの間にか自室にたどり着いていた。
薄暗い私の部屋。二人部屋が基本なのに、私とグエンだけが個室を持っている。
その理由を考えたこともなかった。いや、考えないようにしていたのだろうか。
いくら愚鈍な者でも、それくらいのことに気付かないはずがないのだ。

私はどの道に進めばいい?
道とはそもそもなんなのかさえわからず、なぜかその問いが頭から離れない。
冷たい家族。優しい部外者。
……人は楽なほうへ楽なほうへと逃げるものだ。
思ったよりも衝撃を受けなかったのも、そのせいかもしれない。






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