私はいつまで仕事を休めばいいのかわからなかったが、ともかく朝になり目が覚めた。
たった数日間にもかかわらずもはや朝起きることに何の抵抗もなくなりかけている。習慣というものは恐ろしいものだ。
この分では、体調が完全に回復してもしばらくは苦労することになりそうだ。

身支度を整えながら、今日も朝昼兼用の食事になるのだろうか、と考えた。
昨日は約束どおり夕食はドナが持ってきてくれたが、朝は食堂に降りることもできないし誰も来てくれないしで結局抜いてしまっていた。
別に空腹で死にそうというわけではない。しかしやはり腹は減る。
時計は午前の六時を示していた。普段なら寝るはずの時間。これから食堂に降りれば、誰とも遭遇することなくドナに朝を頼めるだろうか。
どことなく寂しい気分を味わったが、私はとかく深くは考えないように努めることにした。
行く先々で身に覚えのないことを言われてしまえば、そう努めなければ仕方がない。
気分を変えて前向きな気持ち、と何度も心の中で唱えながら、立ち上がって伸びをしようとした、その瞬間だった。

「――おい、おい! レンツ!」

どたばたと振動を響かせて勢いよく扉が開いた。
唖然とする私の前に、ひどくうろたえた様子のグエンがいた。息を切らし、どこかからこちらへ帰ってきたようだ。
彼が慌てるなど、ただごとではない。何かがあったのだろうか。
「えらいことになった――すぐ出られるか? 早く、早く来い。早く!」
だが私が尋ねる前に、グエンがこちらを急かしてくる。身支度は、といってもそもそも支度するような格好でもないが、ほとんど終わってしまっていた。
頷けば、手招きをしてすぐに身を翻し、彼は駆け足で先を急ぎ始めた。
寝起きもあって余計にもたついていた私は慌ててその後を追う。当然のことながらどんどん差がついていった。
私の足が遅いことさえ、グエンは忘れてしまっているらしい。彼にとっては小走りかもしれないが、私にとっては全力疾走だ。
差が離れても、彼を見失っても私は後を追った。なぜわかるのかというと、その道のりは施設の外に出るものだったということ。
そして、私とグエンの他にもたくさんの人が同じ道を向かっていたからだった。
施設を出てからもそれは続いた。むしろ丘を下れば下るほど、人は増えていった。
見知った顔がいくつも私のそばを通り抜けていく。おそらく、施設の者すべてが総動員しているのではないだろうか。
アリアナ、アビィ、ドナ、私のよく知る顔は見かけなかった。彼女たちは仕事を優先しているのかもしれない。
そういえば――昨日出会ったサミュエルやハロルドも見かけない。割と物見高い性格だったような覚えがあるのだが。


果たして、私がふと思っただけの彼らがそこにいた。私たちが、すべての人たちが向かった先に、彼らはいた。
「ロープを超えないでください! お願いします! ロープの内側に下がってください!」
非常事態に張られたロープの内側で、兵士たちがそう叫ぶ。口の動きはやたらと遅く見えた。
サミュエル、ハロルド。そして……あれは誰なのだろうか。ぼんやりとそんなことを思った。
それ以外に、何を考えろというのだろう。
……ああ、あれは確か、サンディオという名の兵士。ロープの向こうへ入っていく。一瞬こちらを見たが、すぐに逸らされた。
ルイスはどこにもいない。確か以前も気分が悪くなったと言っていたし、邪魔者扱いされている節もあった。待機させられているのだろうか。
彼らは、サミュエルたちは私のことをあまりよく思っていなかったようだし、私もさほど多くを知っているわけではない。
それに今まで何度も死体を見てきたではないか。今更何を驚くことがあるのだろう。たった三人死んでいるだけだ。それだけだ。
努めてそう思っても、心臓は嫌な音を鳴らしていた。首筋がちりちりと痛んだ。
だって、ここはデントバリーの中央通りではないか。一番人が多く通り、賑やかな場所。
平穏な場所に物言わず転がされる肉の塊。惨たらしい様相は嫌でも不安をかきたてる。違和感がありすぎる。
――違う。違う。そうではない。そんな冷静なことを考えたいのではない。

円状に張られたロープの対岸で何か騒ぎが起きている。地面に広がる淀んだもの。誰かが戻してしまったらしい。
「誰か、誰かお知り合いの方はおられますか!」
兵士が叫んでいる。手を挙げる前に、そんな気もなかったが、施設の者が挙手した。泣いている。
私も泣かなければならないだろうか。
でも、非現実すぎるではないか。こんな――こんな、誰かに見せるためだけに殺したかのような死体は。
どうして二人の首を刎ねる必要があったのだろう。
どうしてハロルドの耳が、サミュエルの鼻がないのだろう。サミュエルだけ不必要なほど血にまみれているのだろう。
どうして彼らを全裸にし、切り刻んで、その中身を――この、石畳に描かれた紋様は――なぜ、描かれただけのはずの線に影がある――?
そこまで考えると、腹の底が痙攣し始めた。ぐっと堪えて飲み込むが、刺すような嫌な味が残る。
早く帰ってしまおう。そう思ったが、なぜか私は視線をずらし、顔すらわからなくなった三人目の死者のほうへ目を向けた。
何かがある気がしたのだ。それが何なのかはわからない。だが、何かがある。

三人目のすぐそばの石畳の上。二枚の紙が落ちていた。同じく紙片を認めたサンディオがそれを拾い上げる。
その時紙面に書かれている文字が見えた。
なぜか私には、それがはっきりと見えた。見えたのだ。見えるような距離でもないのに。
これが、昨日言っていた、私の能力とやらなのだろうか? 何も今見えなくともいいだろう。どうしてこんな時に限って。
『私は悪魔に殺された。彼は人ではない。化け物でもなかった。彼は悪魔だった。死にたくない、死にたくない、どうか許して』
一枚目の紙。ひどく読みづらい汚い字と、黒ずんだ赤いインクが特徴的だった。
小難しげな顔で内容に目を落としていたサンディオ。
「それ……それ、サミュエルの字だ」
声をあげたのは、先ほどロープの中に入っていった施設の男だった。
ぼろぼろと涙をこぼし、そのまま崩れてしまうのではないかというほど震えながらもサンディオのもとへ歩み寄る。
「……間違いない。サミュエルの字だ。……どうして、どうしてこんな……」
奇妙な紋様のせいで足の踏み場もないような、狭い内側。取り乱す彼は兵士になだめられながらロープの外に出された。
サンディオはしばらく考え事をしていたが、やがてそばの兵士に一枚目の紙を渡し、二枚目へ視線を落とす。
それにはこう書いてあった。

『私は神の名の許に、真を盲いた罪人を罰する。神を偽る者、友の皮を被る敵を許しはしない。与えられた祝福と呪いは、罪人の血に流れている』

端正な、教本にでも載っていそうなほどに整った字だったが、書いてあることはまるで謎かけ問答だった。
施設の人間でこんな字を書ける者などいない。――犯人の字だろうか。
紙面を目で追いかけていたサンディオは、ひどく渋い顔をしていた。
「ここまでするなんて……聞いてないぞ」
ほとんど口を開かず、だが確かに、読み終えた彼はそうこぼした。
聞いてないとは、それにここまでするなんて、とはどういうことだろう。
――彼は何か知っているのだろうか。事件にまつわるものを知っていなければ口にしないせりふのように思えた。
サンディオの呟きに反応する者は誰もおらず、慌しげに惨たらしい現場を急ごしらえの幕によって隠そうとしている。現状の保存など後回しのようだ。
おそらく、誰にも聞こえないほどの小さな声だったのだろう。
ふいに彼は、はっとした顔で頭を上げた。彼の目はそのまま、思い出したようにこちらを向いた。

(――見たのか?)
彼がそう思っているのがわかった。サンディオは口に出してなどいない、ただ予測して理解しているわけでもない。
私の脳裏に、はっきりと言葉が……見えた。伝わってきた、という方が正しいのだろうか。
彼の目を見た瞬間、彼の考えていることがそのまま映し出された、いや、そんな――感覚に、陥った。
思わず目を押さえた。暗闇になっても、サンディオの鋭い視線がこびりついている。
……めまいがする。さっきまで吐き気はしていても、めまいなんてなかったのに。
(――まさか本当に)
もう見ては、視てはいないのに、彼の考えがまた私の中に入ってきた。
やめろ。もう必要ない、やめてくれ。……気持ちが悪い。私の目は遠くまで見通せる、
(――なら、あいつはやっぱり――彼を――?)
だがこれでは、人の心まで見通せるのなら、それこそ、私はまるで、――化け物ではないか。






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