ざわめきが聞こえる。
不穏な、不安な囁きが折り重なったざわめきが。
「――何かの紋様ということはわかるんですがね。こういったもの、何かご存知ではありませんか」
生成りの幕にこもった熱。臭い。布の向こうで、野次馬が影絵のように頭を揺らしている。
「こんな紋様は聖典になど無い。……なんと禍々しいことだ。邪教の輩め、神を冒涜するつもりか」
レオンの問いに、デントバリー担当の神父、テレンスが憤る。
彼らはよくも平気なものだ。こんなものを目の当たりにして、よく平気で会話ができるものだ。
人のはらわたで描かれた円と線。血にまみれた見たこともない文字。
直径三メートルはある陣、その中に正三角形を描いて置かれた人の塊。
「おい……キャス。大丈夫か」
心配そうに声をかけるマギーの顔も蒼白で、薄い唇がかすかに震えている。目にはうっすら涙まで浮かんでいる。
「気分が悪くなったなら出たほうがいい。何か知ってるかと思って誘いはしたが、無理はするな」
つかみどころのないあのレオンでさえも、優しい声で言う。
「……マギー。お前は出とけよ」
キャスは何度もこみ上げてくる吐き気を飲み込みながら、それでも平常心を装って彼女を促した。
「お前もひどい顔してるじゃねえか」とキャスのローブを引っ張るが、彼は頑として動かない。
「俺はいいから。さっさと出て何か冷たいもんでも飲んでろ」
退く様子はないと悟ったか、マギーは不服そうに一瞥して幕の外へ消えていった。
彼女もまた影絵になる。
うごめく影絵にまぎれていく。

(……あの施設の人たちらしいよ……)
(……施設って言えば、あの……)
(……殺されたのも、表立って言ってた……)
(……化け物って、悪魔って、どんな奴が……)
(……本当に? ああでも、確かに……)

「では、現場に残されていた紙についてなんですが……」
ざわめき。
その中に混じる、レオンの声。
キャスは朦朧としてきた意識を必死につなぎとめ、彼の声に集中しようとした。
妙にねばりけのある汗がまとわりつく。キャスも神父もレオンも、検分を続ける兵士も皆汗に服を濡らしていた。
死者の怨念を纏うように。
「……一枚目は被害者が書いたもの。二枚目はおそらく、犯人が書いたもので、……わかりますかね」
「『神の名の許に』――? ふざけるな! 神がこのようなことを許されるはずがない!」
「真に正しい罪人、神を偽る者、友の皮を被る、祝福と呪い、罪人の血。まったく要領を得ない。聖典に類似した記述があればと思ったのですが」
「いや……いや待て。見覚えがある。しかし、何であったか……」

「――福音だ」

予想外の人物の発言に顔を寄せていたレオンと神父が驚いて彼を見た。
キャスもまた、自分がその答えを知っていたことに驚きを隠せないようで、二人の顔を交互に見る。
しかし、知っていたのは事実だった。
彼が師の下にいた頃、字の練習だと飽きるほど書かされた――数ある聖典の中でもとりわけ古く、すっかり埃かぶってしまっていた本の中にあった一節。
その一節に酷似していたのだから。
「『彼は言われた。神は滅びの世を憂えておられる。混沌に戻りつつある穢れた大地に生きる人もまた清くはない。
  私は穢れを祓うため、神に遣わされた最初の一人。私は神の名の許に、真に穢れた罪人を罰する。神を偽る者、友の皮を被る敵を許しはしない。
  与えられた祝福を忘れる者は混沌に還る。だから私は罰さねばならない。罪人の血によって敵は神を名乗るのだから』。
 ――キリル一世が、なぜあなたに人を罰する権利があるのかと聞かれた時に答えた言葉だ」
一気に諳んじるキャスに、神父は「そうか、第一巻のものだったか」と大きく頷いた。
「一巻と言うと確か、聖典というより伝説とか物語調で、教えも若干過激なせいであまり一般化してないとか。小耳に挟んだことがあります」
レオンもまた、呆気にとられたまま同意する。
キャスは反省文をしこたま書かされたせいだと口に出しそうになったがそのまま押し黙った。
この場において自分のことばかり考えるのは、それこそひどく汚らわしいことだと思ったのだ。
未だに囁かれている不気味なざわめきが、まだ耳から離れないせいかもしれない。彼らが人知れず耳をそばだてているのを知っているからかもしれない。
「――しかし、どの聖典も一般の者が買うことはできる。高価だが無理をすれば買えない値段ではない」
「聖典の一部をもじっていることといい、この……儀式めいた紋様といい、やはり犯人は教会に反感を抱く者かもしれませんね」
うつろな目、だらりと出された舌。空いた口の中を行き交う小さな羽虫たち。
名前こそ知らないが、何度か顔を合わせたことのある彼ら。その、変わり果てた姿。
「ここに書いてある文字についてはご存知ですかね」
キャスは逆流してくるものを何度も押しとどめながら、レオンの言葉を聞いていた。
床に描かれた、まるででたらめにも見える文字に再び目を落とす。
「いや……見たことがない。知っていたとしても、見ていたくもない」
吐き捨てる神父。キャスも当然ながら知ってなどいなかった。
そのはずだった。

(……悪魔。化け物。化け物はあいつだとするなら、……)

『私は忠実な、どこまでも忠実な神のしもべ。
 裏切りは許さない。許さない。許さない。裏切ろうとする者も。裏切りの道を整える者も。私の意に背く敵も。
 これを見る者すべてに祝福を与える。等しく、絶対の、死の平穏。安らかに眠る。蘇ることもなく。
 これを読む者、あなたは慈悲をかける者。罪人や悪魔にさえ慈悲をかける。嫌いだ。私はあなたを嫌う。
 しかし私は忠実な、どこまでも忠実な神のしもべ。裏切り者の後釜におさまる偽善者に神は祝福を与える。犠牲への代償を。
 あなたは何を望む? 偽善者。止められるものなら止めるがいい。もう既にそれは始まっている。
 盛大な祭りにのぼる炎はきっととてもよく燃え盛る。許さない。私を悪魔と罵る、化け物と罵るすべての罪人を。
 何を望む? 何を? 神は私と違ってとても慈悲深い。神もあなたも大嫌いだ。
 ようこそ。あなたも神のしもべの一人だ。あなたもまた悪魔と罵られるがいい。そして醜く死ぬがいい。殺されてしまえ。あなたが情けをかける者たちの手によって』

(……悪魔なんて、あいつのことに決まっているだろう……)

めまいがした。
魔法陣いっぱいに敷き詰められていた呪詛の言葉に、絶えず囁かれる呪詛の言葉に、この臭いに、熱気に、異常さに。
信じられない気持ちでキャスは何度も床の文字を読み返した。それは一字一句、変わることなく、あっさりとキャスの脳に染みこんでいく。
いくら解読しようとも、彼はやはりこの文字を見たことなどなかった。記憶の端にさえ覚えがなかった。
なのになぜ自分は読めるのだろうか。なぜ誰も知りえない、でたらめな文字を読むことができるのだろうか。
「どうした?」
キャスの異変を察してレオンが鋭く問うた。だがキャスは彼に目を向けるでもなく、ただ狼狽する。
――頭がおかしくなってしまったのではないか。
そう思った。有り得るはずがないのだ。だのに、目に入る血文字はそのつど律儀に解読されて目に飛び込んでくる。
キャスは固く目を瞑り、その場に蹲った。
文字から、綴られた文章から滲み出る憎悪に頭がどうにかなりそうだった。
これを書いた者は、何もかもを憎んでいるのだ。繰り返される、許さないという言葉。自分以外の全てを憎んでいる。神も人も、すべて。
「――おい。おい……」
レオンの声が、囁きが間近に聞こえる。しかしそれは同時に、ひどく現実味の無い声にも思えた。
見えるはずはない。読めるはずがないのだ。繰り返し言い聞かせても、目を開ける勇気はなかった。ここから動くこともできなかった。
読めないものを読んでしまったことに、書いた者の憎悪に、そして内容があまりにも――予言と合致しすぎていることに、キャスは今まで感じたことのない恐怖をおぼえていた。
生贄。炎に捧げられた生贄の血によって悪魔も、神の使いも目を覚ます。書き綴られた言葉は、その不整合さを除けば第二の予言といっても差し支えなかった。
「どうした、おい、どうしたんだよキャス、しっかりしろよ! 顔を上げろってば、キャス、キャス、キャスリーン!」
マギーの声が聞こえた。彼の異変を察し再び入ってきたのか。
しかし、どうしても顔を上げることができなかった。
あれだけ嫌いだった自分の本名を叫ばれても、怒りさえ湧いてこない。
顔を上げれば、またあの文字が見えてしまう。読みたくもないのに勝手に解読してしまうのだ。
――何がどうなったって構いやしない。どうせ自分が何をしようが、何一つ変わることはないのだから。
役立たずの自分でも何かできるかもしれない。無理をしてまで現場の調査に協力していたキャスの思いはもはや消えうせていた。
あるのは、得体の知れない、常軌を逸した大きな狂気を前にして怯える男、ただそれだけだ。
あの文字を、狂気の塊を見ることになるぐらいなら、いっそここで朽ちてしまったほうがいい、そうとまで思えた。

(……私たちに災厄を運んできたのは誰だ? ……)
(……悪魔。化け物。サミュエルは正しかった。彼らは正しかった……)

しかし。
キャスリーンの耳に、不穏なざわめきが飛び込んできた。
固く閉じていた目が開く。
「気持ち悪いのか? なら俺がほら、おぶってやるから! 大丈夫か? 返事しろって、してくれよ、お願いだから、キャスってば!」
遠くに聞こえていたはずの言葉が急に近く感じられた。
現実の重みを持って、確かにキャスの耳に届く。
そして思い出した。彼の師が言っていた、あの言葉を。
どんなことが待ち受けていようとも、それを試練だと思えるか。立ち向かうことができるかと問うた、師の厳しくも優しい顔を。
こんなところで立ち止まっている場合ではないのだ。
昨日、思ったばかりではないか。人を傷つけるしかできない自分を変えたいと。
彼が許してしまうのなら、せめて自分だけは罪を忘れず償って生きていきたいと。
たとえ自分が役に立たなかったとしても、何もしないこともどれほど罪深いかはよく知っていた。
――彼らに会わなければ。救わなければ。間違いが起きようとしている。あの二人は、何の罪もないというのに。
「駄目だ。……そんなの、正しいわけない!」
呟き、決意の叫びをあげてキャスは立ち上がった。驚き戸惑うマギーの声がする。
視界の端には確かにあの文字が飛び込んできたが、首ごと目を背ければそれは沈黙した。
「……お前までどうかなったんじゃないのか」
キャスの奇行を目の当たりにしていたレオンがためらいがちに尋ねるが、彼にとってそんなことは些末なことだった。
今は時間がない。根拠はないが、強くそう思っていた。
だが、どう言うべきなのか。見たものすべてをありのまま言うことは気が引けたし、かといって粗末な言い訳をすれば余計に疑われるだろう。
「あいつを、神の使い、を保護しないと。でないと、街の連中が……化け物って呼んでるのは、あいつしかいないんだ」
膠着し、進展を見せない状況に住民のストレスは高まっている。
気付いていないのは張本人だけだ。最初から限界まで張り詰めていたそれは、針一本の刺激で破裂してしまうだろう。
レオンもそれがどういう意味なのかを悟り、忌々しげに「最悪だ」と吐き捨てた。
少しだけ悩んでいたが、装備したものを確認して俺も行くと提案する彼。
彼に答えずキャスは幕を飛び出し、外の世界に躍り出た。いくつもあったはずの影が少なくなっている。
逸る胸を押さえ、まっすぐに街路を駆け抜けた。
早く、早くしなければ――間に合わない。
もう、既にそれは始まっているのだから。






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