アビィの主張にどよめく群衆。しかし、
「この――」
怒りに顔を歪め、持っていた棒きれを振り上げるモリスの姿が見えた。アビィの小さな頭に向かって、一直線に狙いを定めているのが見えた。
止めなければ。私はそう思った。いくら朽ちた棒とはいえ、あれが下ろされればただでは済まないだろう。
しかしひどくゆっくりに見える光景に反して、私の体は驚くほど緩慢だった。
腕を上げようと力を入れた時には腕が振り下ろされ始めていた。足を踏み出そうとする時、モリスの凶器を認め呆然と頭上を見るアビィの怯えた表情が見えた。
――遅い。遅すぎた。
このままでは彼女をかばうより前に、その小さな頭へ男の渾身の一撃がぶつかってしまうだろう。その先は、
(ほら、呪いはこんなにもあなたをかばってくれていた)
……私は力を抜いた。無理だ、と確信してしまったからだ。
ずるいと笑うかもしれない。だが、私に何ができるだろう。滑稽なほど鮮明に送られる映像をただ享受する、それ以外に……観客でいる以外に何ができるというのか。
きつく目を閉じてその先を耐えようと決意するアビィを助けることもできない。やめろ、と無駄な叫びを出すこともできない。
私は、ただ見るだけだ。
それ以外にできることといえば、信じもしていない祈りをどこかへ送ることだけだ。
――神様。
手も組まず、目を閉じもせず、私はただどこにもいない神に祈った。

(信じぬ者は救われないのではない。救わないのだよ)

――私の無益な祈りが届けられたとは思えない。
だがその瞬間、大きな手がアビィの体を引き寄せ、代わりに差し出された腕にぶつかった棒が砕けたのが見えた。
ひどく緩慢に見えた先ほどとは反して、それは本当にあっという間の出来事だった。
「……やれやれ」
彼女をかばったのがグエンだということに気付いたのも、彼がそう呟いた後のことだ。
それまで私は上げようとした手を下ろしかけたひどく無様な格好のまま、ただ彼女の行く末を見ていたに過ぎなかった。だがグエンは違う。私と違い、アビィを救い出したのだ。
アビィに覆いかぶさるようにしたまま、切れ長の鋭い目がモリスを射抜く。冷たい視線を受け、モリスが一歩たじろいだ。
「これがお前たちのやり方か。気に入らなければ、家族のはずの娘にまで手をあげるのか」
グエンは気だるげでもあったが、周囲を取り囲む群衆とはまた異質の怒りを確かに孕ませてそう問いかけた。
単なる怒りではなく、この街の、この国の人々すべてに向けられた敵国の者としての失望の言葉のように思えた。
何もできなかった私の胸が、膿んだように痛む。彼の失意のなかに私が含まれていないはずもないのだ。
「恵まれているはずのお前たちは心も豊かだと思っていた。血の繋がりがなくても家族になれる、そう信じていると思っていた。
 だが、わかったよ。いくら神に守られていると抜かしたところで、お前たちは薄汚い泥棒だ。体のいい言葉に浸りきったクズの集まりだ」
呪いの言葉を続ける間に、彼の腕の中でアビィが涙をこぼすのが見える。
襲われる恐怖をようやく感じとったのか、それともグエンの冷たい言葉に感化されてしまったのか。
私の胸にある、絶望に似た悲しみと同じ気持ちなのかもしれない。じゅくじゅくとした痛みは別物としても。
敵国の男。彼がなぜこの国へ流れてしまったのかはわからない。だが、キャスやルイスよりも他人であるはずの異質な隣人が放つ言葉は誰よりも重かった。
幾人かが自らの愚行に気付いたか、武器を振りかざす手を弱めて顔を見合わせる。
しかし、それですべてが終わるわけではない。終わるはずがないのを、私はよく知っている。
(呪い、庇護の呪いが、消えようとしている。やはり戻ることはできないのか)
言葉ひとつで終わるのなら、彼らはここまで来ることもなかったのだから。
私もまた、ここまで無知で無力なままではいなかったはずだった。
「……黙れ。黙れ、悪魔の言うことに騙されるものか」
群衆の中の一人が声をあげた。彼もまた、施設の者だった。
「俺にはわかってるんだ。そんなことを言っても無駄だ、この悪魔め。お前が殺したんだろう。お前が兵士を、グレアムの奥さんを、サミュエルを殺したんだろう!」
彼の怨嗟に呼応して、怯んでいた面々が顔を上げた。
「そうだ、騙されるな!」
「こいつは私たちの目を欺いて騙してきたずる賢い敵だ。悪魔だ」
勢いを取り戻して口々に叫ぶ彼ら。「もうやだ、なんでこんなこと」と、アビィが悲痛な顔で呻く。そんなアビィを見下ろし、きっと面を上げ、
「悪魔はお前たちの方だろう。同胞を殺し、部下を殺し、――何もかもを独占してあぐらをかくお前たちこそ悪魔じゃないか!」
グエンがついに声を荒げた。自分たちの醜さにどうして気付けないのかと、今にも吐きそうに顔を歪めて呼びかける。
しかし彼らの勢いは弱まるどころか更に勢いを増していった。水を差すはずのグエンの言葉も、今の彼らにとっては体のいい燃料に過ぎないのか。
ひとつの生き物のような巨大なうねり。それが徐々に形を作り上げ、散らばった私たちへ迫ってくる。
「化け物」「悪魔」と私たちをなじり、死んでしまえと手に持つものを振りかざし歩みを進め始める。
彼らは、もはや事実をつきつけても止まりはしないだろう。事実、彼らが――その生き物の細胞たちが放つ言葉は、無意味な唸りのように途切れていた。

誰かこれを止めてほしい。この、あまりにも醜い光景を、すっかり消してしまえたらどれだけ楽になれるだろう。
どうしてこんなことになったのか。私が悪かったのだろうか。やはり私は、あの時死んでしまうべきだったのかもしれない。
(奴が来る。奴が目覚める。もう止まらない、止められない、助けることができなかった……)
じりじりとこちらへ詰め寄ってくる群衆。グエンはアビィを後ろへ退かせ、力のある目で立ち上がった。
この人数にどうやって対抗するというのか。私は、私は戦うことなどできない。グエンと違って私は無様なほどに弱いのだ。
小さな少女一人さえ守れず無責任に祈るような、弱く愚かな……人間なのだ。
二人並んで泣く姉妹の前に立ってはみたが、果たしてこれがどれだけ役に立つことだろう。
盾になりもしない。あの、七年前と違って二人とも大きく成長した。体も、心も、私を飛び越してしまうほどに。
自己満足のためにかばっているのだろうか。私は、この期に及んでそんなことを考えて自嘲した。
何も出来ない、見ることしかできない、死ぬ前にその罪滅ぼしができるならと、そう思っているのだろうか。そうかもしれない。
……そうに違いない。
「――――」
微かに鼓膜をくすぐる、何かの囁き声。
しかし、そんなことはもうどうでもよかった。私はどうせ死ぬのだ。二人を守ることもできず、ただ目の前の異形の群衆に叩き潰されて。
私が悪かったなら、私だけを殺せばいいのに。どうして彼らはその殺意をグエンやアリアナたちに向けるのだろうか。
「――――」
誰かこれを、止めてほしい。なんて無責任なのだろう。原因は私だというのに。
これは私が止めるべきなのだ。私がすべての泥を被るべきだ。
――だが、私に何ができる?
私はただ見るしかできない、視るしかできない、

(おまえはわたしで、わたしはおまえ)

そう。彼らが抱いているのは憎しみなどではない、ただ、恐怖し怯えているだけだ。
窮鼠猫を噛むということわざがあるだろう。人は自分の範疇を超えたものを理解しようとはしない。
益をもたらすものは奇跡と呼び崇めるが、害をなすものは異常として滅ぼそうとする。
彼らの目を見ろ。あまりにも気の毒なくらいに怯えた目でこちらを見ているではないか。
本当に身に覚えがないのか? これっぽっちも記憶にないのか? こんなに怯えるなんて尋常ではない。
わかっているはずだ。なあ、私。わかっているはずだろう。
私なんかが奇跡をもらっていいはずもなかったのだと。
奇跡を奇跡と呼ぶには、人が私をそれに足る人物だと認めなければならないのだと。
私よ、おまえは一度でも彼らの大きな、些細な罪を許したことがあっただろうか。弁明を聞いたことがあっただろうか。
私にできることは見ることだけ、視ることだけ。あるいは嗜虐心を潤させるだけ。
彼らの顔を視ろ。声を視ろ。悲痛なまでの叫びを、呪いを視ろ。
みんなみんなおまえのせいだ。おまえのせいなんだよ、私。
一番愚かなのは、罪深いのは、おまえがそれを忘れようと努めていることだ。神に赦されてしまったことだ。
誰よりも罪深いおまえに罪を暴かれる屈辱に晒されながら、彼らは耐え忍んできたんじゃないか。逃げ出したおまえとは違って彼らは耐えてきたんだ。

(たかが一回、撲殺されるくらいで、おまえの罪が晴らせるとでも?)






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