「さて、何を望む?」
そう問うのは私の姿をした暴君だった。
ここは教会、礼拝堂。倉庫から引っ張り出してきた毛布にくるまり、長椅子に体を押し込めて眠るキャスとマギーの背中が見えた。
早くもガチガチに固まってしまった体を引き剥がすように起き上がった私は時計を見、それが午前三時を指しているのを認めた後に驚愕した。
それは、夢の中では有り得ないはずの極めて現実的な行動だったからだ。
「これで最後だ。お前は、何を望む?」
にもかかわらず、最前中央の壇上で悠然と足を組む暴君の声がするりと耳に入ってくる。あの高いのか低いのかわからない、少し篭もった声が。
これは、夢か? 現実なのか?
なすすべもなく混乱する私を見て、暴君はせせら笑った。そして目で答えを促される。
戸惑いながらもメモを取り出せば、「そんなものは必要ない」と暴君が手を振った。
「一拍置いた情報など無意味なものだ。わたしにも、お前にも。――耳は聞こえているのだろう」
耳は聞こえているのだろう。
それは確かにその通りだ。そして私は、決して喋れないわけではない。
持て余した紙の束を長椅子に置く手が震えていた。ぱさり、と静かな音が聞こえた。
聞こえている。暴君の声だけでなく、わずかな衣擦れの音も、キャスたちの小さな寝息もすべて聞こえている。
いっそう震え始めた手を耳に当て、それから喉に触れた。喉仏がわずかに動くのを感じ、
「……あ……」
小さく声帯を絞ってみれば、体からも鼓膜からも、指先からも自分の声というものが伝わってきた。
恐らくは――壇上の暴君と同じ、同じ声だ。
心臓の音がひどくうるさい。これほどまでに耳障りなものだっただろうか。
面白げにこちらを見下ろす暴君に対し、私はそのまま倒れてしまいそうなほどに狼狽していた。
「さあ、今一度わたしに教えてくれないか。お前が何を望むのか」
にたりと笑う暴君。罪悪感もなく虫の羽をちぎる子供のような表情だった。
「……」
はくはくと口を動かしても声が出ない。どうやって出せばいいのかなどとうに忘れてしまっている。
そんな私を見て、暴君はやはり不出来な同級生をあざ笑うそれのように無垢で残酷な笑みをしていた。
「……こ、れ……は……」
掠れていてもおかしくない埃かぶった声帯、それでも出てくる言葉は明瞭で滑らかだ。
なぜ、と問う前に暴君がくつくつと含み笑いをもらした。

「お前が望んだものだ。だからわたしが与えたのだよ」
それは、なぜ?
「わたしがお前を選んだからだ。奇跡というものは神につきものだろう」
神、だと?
「そう。わたしはお前たちすべての主。泥人形の親玉だ」
……これは夢なのか?
「夢と思えば夢になり、現実と願えば現実になる。どちらがどちらでもわたしにとって違いはない」
あるはずがない。聴力が戻るなど、あるはずが……。
「そうかね? お前はずっと聞こえていたじゃないか。わたしが最初に与えたそのちからを、お前が勝手に放棄したのだろう?」
最初に、与えた? 私が放棄した?
「やれやれ、これではこの前と変わりやしない。お前はどこまで愚かでいれば気が済むんだ? 望みを叶えたのだからもっと喜ぶべきではないのか」

暴君と私の、傍から見れば暴君が一方的に喋っているような問答が続く中、彼の言葉に私は咄嗟に声をあげた。
「――ちがう」
そう、違う。違うのだ。
「私、は……こんなこと、を、望んで……いない」
たどたどしくとも口に出して言いたかった。夢であろうとも、声に出せる間にきちんと言っておきたかったのだ。
ほう、と暴君が目を細める。思考を読み取る彼ならば答えもとうにわかっているはずだ。その証拠にひどく不快な笑みを貼り付けている。
「耳が聞こえるようになりたいと、そう望んでいたじゃないか」
「違う……違う。今は、ちがう……」
「そうかね。ならば今は何を望んでいる?」
「今は……ただ、皆と、暮らして――」
「――本当に、そう願っているのか?」
発音に苦心しながらも言葉を紡ぐ私を遮り、暴君は顔を前に突き出して問うた。
青とも緑ともいえない暗い目が大きくこちらを覗きこんでいる。その向こうに、怯える私がいた。
「昔と変わらない暮らしを望んでいる? 自分の視線に怯えながら暮らし、周囲に不快と恐怖を植えつけていたあの時に、ただの役立たずにまた戻りたいのか?
 そうではないだろう、そんなことはないだろう? お前は平穏には不必要だ。平和こそお前とは対極にあるものだ」
「……そんな……ことは」
ない、とは言えなかった。事実私は視線を泳がせているし、脳裏を掠めるのは圧倒的多数を占めるはずの楽しい思い出よりも、その間を縫うように発生する嫌な思い出ばかりだった。
偶発的に起きるとばかり思っていたそれは、どうやら必然であったということも今は判明している。
「何よりも他人の幸せを願う、無意味に慈悲深いお前なら理解できるはずだ」
目を逸らしても暴君の言葉がするりと耳に入ってくる。無慈悲な、冷たい――同じ声が。
「お前がそれを願うことで、お前以外のすべての人が不幸になる。それでも構わないのならわたしはその望みに応えてやろう。己の幸福のため他を踏み潰すのは悪いことではないのだから」
暴君、いや、それ自身が言うところでは神らしいが……およそ自称するそれらしからぬせりふを吐いて、更に私を追い詰める。
そのような物言いをされて「そうしてくれ」と言えるほど、私は強くはない。
最初から暴君の指摘には気付いていたのに、あえて無視して自分だけの幸せを願っていた。だが、私は、戻りたい。
だが、だけど、それでも。ぐるぐると逆接の言葉が回る。
私がいることで皆に迷惑をかける、アリアナ、アビィ、ドナ、グエン、ばらばらになってしまったのも私のせいだ。
仮初め、確かにそうだ。だがどうしてそれではいけないのだろう。

他者を踏みにじってはいけない。
だけど私は戻りたい。
騙し騙し生きていくだけだとわかりきっているはずだ。
それでも、私は戻りたい。
神の使いだなどと呼ばれ祀り上げられるくらいなら、

そこまで考えたところで、私ははたと思い至った。むしろ、今までなぜ考え付かなかったのか。自分の頭の鈍さに苦笑も出てこない。
目の前の、私を模った男は神と自称している。そして私はキャス達が言うところによれば神の使いであるらしいのだ。
「……神の使い、とは、一体……なんのことだ」
皆の言うことすべてを肯定するならば、私は目の前の暴君に仕える者だということになる。
だが神の使いとは一体なんのことなのか。何をするべく成った者のことなのか、私は当事者だというのにちっとも知らされていないのだ。
暴君は豪奢な服装にちぐはぐな素足を晒し、足を組み替えてふんぞり返る。
片方の唇を吊り上げる様はやはりどこまでも人間味を帯びていた。
「文字の通りだ。神の使いとは即ち神により遣わされた者。己の生ではなく神のために命を散らす者のこと」
「私が、……」
「お前などが神の使いであるはずもないと? いや違う、お前はまさしくわたしのしもべだ。わたしという神が遣わした、選ばれた人間だよ」
「……そんなこと」
信じろとでも言うのか?
「敬虔な信者でもない、神を思い描いたことすらないお前が神の使いであってはいけないと?」
そう、私は前にも言ったように聖書すら見たことはない。祈りを捧げたこともない。
教会に足を運んだこともなければ、神と等しく崇められる国王さえ、……
「――キリル・コースチン」
私は思い浮かんだ一つの名前を口にした。
この国を治める王にして、キリル信教の絶対神とされる男。思わず壇上の暴君を見上げる。
私は国王の顔を見たことはない。そもそも話によれば、誰一人として彼の顔を見た者はいないそうだった。
もしやと思って見上げれば、暴君は肯定とも否定ともとれない嫌味たらしい笑みを浮かべるばかりだった。
「神は神、人は人だ。わたしの顔が何者であろうともそれはどうでもよいこと。わたしが神であり、おまえがその御使いであることに変わりはない。
 お前はわたしの代わりを果たし、わたしはお前に祝福と褒美を授ける。この答えの何が不満なのだ」
暴君は不服そうにわざとらしく首をかしげてみせるが、不満と言うのなら何もかも不満なのだ。
そもそも目の前の男が神である証拠などどこにもない。神だとして、私はその御使いになどなりたいとも思わない。
この暴君の招待が国王であろうとその上の神であろうとまぼろしだろうとどうでもいいとすら思っていた。
だが待て、と私は暴君の発した言葉が気にかかった。
「祝福と……褒美?」
なぜ二つあるのか。
一つが聴力の復活とするなら、もう一つはなんだ?
「神は慈悲深いだろう? 祝福を与える上に、使命を全うする褒美まで与えようというのだから」
もそ、とキャスが寝返りを打った。私は一瞬肝を冷やしたが、目覚めることはなかった。
暴君は例によってこちらの思考を読み取り、含み笑いをもらした。
「祝福とは神に仇なす宿敵を滅するための力。それは誰もが奇跡と呼ぶに相応しい聖なる力だ。
 身に覚えはなかったかね、昔も――そして今まさに、お前の身にある唯一の奇跡をしっかりと覚えているはずだ」
暴君は足を崩し、その上に肘を立てて頬杖をついた。にやにやと笑う彼の双眸が暗闇の中で私を映している。
指の隙間から、それはまさしく質量を持ってこちらに視線を突き刺していた。
ちくりちくりと肌が痛むような感覚。不気味な、底の知れない井戸の底のような眼差し。






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