(この化け物)


私は思わず、同じ形をしているはずの自分の目を覆った。
――そんなはずはない。
「……お前は……まぼろしだ」
掠れた声でそう言うのが私にできる精一杯の抵抗だった。
目を覆えば耳からするりと音が入る。暴君という名の幻影に与えられた夢想の聴力は古い教会に吹く隙間風も、外でわずかに燻る松明の音さえも拾っては脳へ運んでくる。
視界を塞げば音が聞こえる。
耳を塞げば呪いが視える。
幻だ、何も視えない、何も聞こえない。言い聞かせるように何度も呟いた。
だが目の前にある気配は消えることもなく、ただこちらを見ているのがわかる。確かにこちらを見ている。何もかもを――見透かして。
心臓がうるさいくらいに肋骨を叩き、いくら息を吸っても息苦しさが止まない。
おかしいではないか。暴君の言うことを鵜呑みにしてしまえば、私は……私はいつから、この男に魅入られていたのだ?
私はこの神だと名乗る男のせいで、呪いのような力に縛られ欺瞞に満ちた人生を送ってきたというのか?
祝福であるはずがない。誰も彼も私のせいで不幸になる。私もまた決して幸福ではなかった。誰一人幸福になれない力、そんなもの祝福であるはずがない。
違う、違う、これは私の夢なのだ。
夢だ。
何もかも。
なのにどうして私は、恐れている?

「そう、祝福だよ。お前は罪のない魂を救うために、今もまた生まれてきた」
追い立てるような暴君の声が耳に忍び込んでくる。
夢だ。これは夢だ。私は何者でもない。何者であるはずもない。
心で唱え、口で呟く。暴君が大げさに嘆息するのが聞こえた。
しかしそんなことはどうでもいい。何よりも、夢でなければこの現象についてどう説明をつけるというのか。
自分と瓜二つの暴君が現れる、失ったはずの聴力が戻る、そして、そして神にもたらされた――
「――夢だと思いたいのは果たしてわたしのことなのかな? 違うだろう、そうではないだろう。お前が願っているのは現実、事実、真実を夢に化すことだ」
暴君の冷たい声。私は緩く首を振ったが、内心では確かに頷いていた。
私の目。
キャスの放った「異常だ」という言葉、たくさんの人々から向けられた「化け物」という呼称を思い出した。
普通ではないのだ。常軌を逸している、それが大多数の中にある常識から弾き出された解答であり、私はつまり異常だ。
ただ異常なだけ、私は自分の忌まわしいちからを受け入れつつもそう頑なに言い聞かせる。
だが私は知っている。
奥底で、すべてが真実、事実、現実であることを知っている。
「……夢、でなければ……私は……」
顔を手のひらで覆いながら、薄いまぶた越しに感じる目玉の弾力に吐きそうになった。

私は何のために生まれたのか。
神の意思だなどというもののために、蔑まれながら生き続けることを強いられていたとでもいうのか。
底辺に近い私の人生は――この暴君のためだけにあったとでもいうのか。

指に力が入り、押し込まれた目がじくじくと痛み始める。そのまま抉り出したい衝動にかられ、おそらくにたにたと細められているだろう同じ目をくり出したいという強い願いがやってきた。
今ここで、御使いたる証拠であるこの目を抉り出せばどんなにかすっきりすることだろう。
指先を思い切り突っ込み、粘り強い筋肉を引きちぎって取り出したそれを踏み潰す。そして手探りででも何としても、暴君にも同じことをしてやりたい。
しかし私がそうしなかったのは、どこまでも矮小でくだらない利己心からだった。憎しみを押しつぶすのは勇気ではない。私にあるのはつまらない打算だけだ。
「実のところを言えば、今のおまえに拒否権などないのだよ。すでにお前は了承しているのだから」
裏も表もすべてを見透かしている暴君はやはり取り乱すこともなく、平然と話を変えた。
「すでに頷いたものを放棄するなど、幼い子供のすることだ。しかし、それでも、わたしはお前に選択肢を与えようとしている」
寛大だろう、と言いたげな響き。私はうっすらと腫れた目を開き、暴君をねめつけた。
同じ姿をしていることが、私へ向けた最大限の揶揄なのだということが今でははっきりとわかる。
数多の人の言葉を信じるならば、私は何よりも仕える主へこれ以上ないほどの憎しみを抱いていた。
――あれはやはり神などではない。暴君だ。
心の中で呟けば、暴君はくつくつと低い笑いをもらした。
「何一つ変わらない、これだから人間は面白い。……選択肢だ。そう、お前は選ぶことができる。
 お前が何も望まないと言うのなら、わたしは与えたものをすべて取り戻してやろう。
 お前は二度と音を聞くこともないし、不可思議なものを見ることもない。しかし時間もまた戻りはしない。
 普通以下の人となったお前を信じる者がいれば、きっとかりそめの平穏を食いつぶし生きることができるだろう。信じる者がいるかはわからんがね。
 お前の友はいなくなった。家族もまた消えつつある。憎しみの種は育つだけで枯れはすまい。今まさにお前自身が味わっているはずだ」
私は無表情を努め、暴君が冷たい嘲りの視線をよこしてくる。
「それすらも嫌だと言うのなら、やはりお前はお前の役割を果たすしかない。
 仲間を得、類稀な視力と失ったはずの聴力を得て、人知れず誰かのために戦うという役割を。神の使いとして生きる道を。
 もはやお前の前に横たわっているのは平穏ではない、あれはとうの昔に逃げ出した。目の前にあるものをよく考えることだ」
私は悩んだ。いや、悩んだふりをしていた。
言葉を詰まらせ、視線を泳がせる私はひどく滑稽で愚かしいのだろう、暴君は吐き気をもよおしたような表情でこちらを一瞥する。
それらがすべて芝居がかったふりであることなど彼はとうに知っているのだから。

時間は戻らない、神であったとしても戻せはしない。あるいは、戻すことなどないのかもしれない。
それでも決して戻りはしないのだ。私一人が嫌だと喚いたところで人は死ぬし、友達も去っていく。
暴君の言うとおり、私はすべてを理解している。理解していないふりをしているだけで。
知らぬ存ぜぬを貫けば、よくも悪くも他人は私というものへの関心を忘れてしまう、だから私はそうしてきた。
何も選ばないように、誰も傷つかないように、何よりも私が痛まないように。
暴君の視線が、執拗に隠していた奥底の恥辱を暴き、五臓六腑を巻き込んで深く深く突き刺さってくる。
……そもそもこの暴君の存在が幻であろうとなかろうと、私の言っていることはすべてが逃避に過ぎないのだ。
耳が聞こえようが聞こえまいが。
目が今までどおりであろうがなかろうが。
家族は消え去り、友達は遁走し、街にはおれず、かといってどこか行く当てもない。
私には何も残されていない。誰もいやしない。

「お前の思い描いていた理想など、はなからありはしなかったのだよ」

暴君の冷たくも優しいとどめの一言で、私は絶望を悟った。
また耳に囁きかけてくる、軽い衣擦れの音。平穏無事に眠るキャスとマギー、彼らの過去にどのような受難があったかを私は知らない。
それでも、私ほど不様で惨めな生涯ではなかっただろう。事実二人の目は明るい未来を約束する光が宿っているのだ。
「不様で惨め、愚かで姑息なお前にもう一度問いかけよう。お前の望みは――何だ?」
暴君の声音は人を人とも思わぬ冷酷な響きを持っていたが、それは奇妙なことに心地よいとさえ感じた。
私は答える。
耳が聞こえるように、なりたかったと。

予想以上に滑らかに出てきた声を出し終えたとき、私の脳裏にあるものが閃いた。
閃いたというより、こじ開けられたとでも言うべきだろうか。
真っ先に浮かんだのはある男――真っ黒なカソックを纏う、縁のない眼鏡の奥で穏やかに笑う男。
リズ。
私の、友達。たった一人の友達だ。いつでも、何回でも、彼は唯一の友人であり続けてくれた。
(今回もまた彼は友人でいてくれるだろうか)
……いつでも、何回でも? 今回もまた?
いつだったかに幾度か味わった奇妙な既視感がまた蘇ってくる。
神の使いだなどという荒唐無稽な話を聞かされ、さまざまな超常的な事柄を経験してなお、まだ何かあるとでもいうのか。
こちらの思考を読み取っているはずの暴君は何も答えず、初めて見る思案の眼差しを向けるだけだ。
しかしすぐさま嘲笑が戻り、暴君は「まあ、いい」と鼻を鳴らした。
「お前に残された問題も、すぐに解決へ向かうだろう。ともかく約束は果たされたのだから。
 私は神として、人の上に座する者としてお前に一つの言葉を贈ろう」
尊大な調子で暴君がわずかに両手を広げた。
素足の、不釣合いなほど豪華なローブを身に纏った王。下手な芝居に立たされた下手な役者を見ているようだ。
しかしその目から放たれる底の知れない光は、どんな役者をも凌駕するほど凄まじい。
私は彼の目から今、確かに人ならざるものを見た気がした。
暴君は口を開き、私に一つの言葉を授ける。
それが何であったか覚えていれば、もしかするとこの先、もう少しだけ不幸というものを軽くすることができたかもしれなかった。






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