街が暗い沈黙に包まれている。
不安に足をせわしなく揺らし、視線をどこへとも知らずさまよわせ、蝋燭の灯ほどの希望も見出せない足取りでぎゅうぎゅうに詰まった室内を歩き回る人たち。
腐乱する死体の悪臭に顔色を土気色にしながら足を棒にして役にも立たない捜索を繰り返し、文句を言う気力すら消えうせた兵士たち。
意味のない行為を繰り返す無益さに辟易としながらも、兵士を繰り出しては煙草の火をもみ消す不眠の色が濃い兵士。
消えてしまった家族の身を案じ、己の行為の浅はかさと得体の知れない悪寒に背筋を震わせ泣き続ける女たち。
静まり返った街よりもさらに深く深く身を隠し、蹲って風化した執念を燃やそうと苦心する男。
それぞれに異なった思惑がある。しかし誰しもが明るさや希望というものを忘れていた。
やってくる朝も夜が去った安堵ではなく、再び夜がやってくることへの恐怖が勝る。晴れていようが雨が降ろうが、陰惨な湿気が消えることはないだろう。
一つ門を隔てれば、そこでは街は総意ではなく個々の細胞として活動を続けている。今日という一日などすぐに忘れてしまうような、当たり前の日に過ぎなかった。
そこでは誰かは笑い、誰かは諍いを起こし、誰かが生まれ誰かが息を引き取っている。しかしそれらすべては彼らの中でのみ咀嚼され、それ以外は無味乾燥な他人事だ。

街の中ではただ二人、ただ二人だけが笑みを浮かべていた。
一人はその地で最も高くに構えられた聖堂の屋根に立ち、一人は暗闇に存在さえも溶け込ませて。
そしていくつもの門を越え山を越えた地下の奥底でも、確かに笑うものがいた。
「人は神ではない、だが人は学ぶことができる。そうだろう、なあ、御使いたちよ――悪魔たちよ」
暗闇の中で二つの金色の光だけが、緩い瞬きを繰り返していた。




07:めざめ




私は目覚めた。
何によって目覚めたかをはっきりと覚えている。
話し声が聞こえたのだ。それが思いの外やかましく、少しだけ苛立ちを覚えつつ目を開けた。
気温は既に高くなっている。ずいぶんと眠っていたらしい。かけていたはずの布が椅子の下に落ちていた。
体を起こせば椅子が不安になる軋みをたてる。体もすっかり固まってしまっていた。
「あ、起きたんですね」
礼拝堂、神父が説教をする壇の前で会話をしていたのはルイスとサンディオだった。彼の姿を見たのがひどく昔のことのように思える。
それにルイスも正装というべきか、あの布帽子を目深にかぶっていた。まるで彼のことを知る前のように、それがひどくよそよそしい。
私はこっくりと頷いた。
聞こえている、何もかも。驚くべきなのに、私の心にあるのはやっぱりか、というだけの気持ちだった。
なぜだか心が不気味なほどに落ち着いていた。波一つない。風もなければ、水もない。
この街のように。
「よく眠れましたか」
煙草の吸いすぎで少し掠れた、顔と態度に似合った気だるげな声。眠れないのか疲労も色濃く滲んでいた。
サンディオの無機質な問いに私はまたゆっくりと頷いた。そうですか、と言いかけたサンディオがこちらをまじまじと見つめてくる。
「……あなた」
いかにも訝しげな様子で問いかけようとするも、続く言葉が思いつかないのかそのまま口を閉ざした。
自分でも何が疑問なのかがわからないという顔。ルイスの声がして、私は彼へと顔を向けた。
「今、彼と話していたんです。遠い先のことはともかく、とりあえずは何をしていくか。迂闊に動ける状態ではありませんから」
ルイスは顔に似合わず、思ったよりも低い声だった。背丈を考えれば当然のことか。その声は初めて聞くにしても、何か浮き足立っているように響いた。
事実彼はにこにこと笑んでいた。いつもの微笑ではなく、鼻歌でも歌いだしそうなほどに上機嫌なのがうかがえる。
私はふと、いつだったかに彼に抱いたある違和感を再び思い出した。
それが何だったのかは思い出せない。
(私にかけられているのは彼の呪いではなく私自身によるもの――思い出してはならないのだ。もう遅いとその目が言っている)
鷹揚に頷く私に、ルイスは殊更ににっこりと唇を吊り上げた。
「まずは神父様ですが、彼は施設の方へ送ってさしあげました。ここにいてはお互いにとってよくありませんからね。
 それで――街の方々には謹慎をお願いして、今こちらでは大掛かりな捜索を始めています。二人のね。一人は犯人と……それからグエンさん」
グエン。
グエンとは、誰であったか?
私はふとそう考え、そしてすぐに思い出し、それからどことなくぞっとした。
人生の大半を彼とともに暮らした事実が驚くほどにかすんでいた。まるで、八十年、いやそれ以上の人生で一瞬すれ違った人であるかのように、思い出そのものが圧縮されてしまっている気がした。
無意識にこめかみを揉み、軽く頭を振る。そうするとかすかな動揺はまたなりを潜め、また水のない井戸のような暗闇が覗く。
もやがかかっているようだ……沼に沈んでいるようだ。
「あまり気分が優れないようですが」
サンディオが訝しげにこちらを覗きこんできた。それから発音するところに、私への配慮に苦心する姿勢が見受けられる。それはどことなく滑稽だ。
しかしそう言うサンディオこそ、いつ眠ったのかと疑いたくなるほどに顔色が悪い。目の下にできた黒いものが死相のようにこびりついている。
私は首を振る。なんと簡単なことだろう。私はイエスか、ノーか、それだけを答えればいいのだから。
体調を慮るだけでない疑惑の眼差しを振り払ったサンディオは軍人特有の無表情を貼り付け、ルイスの言葉を継いだ。
「捜索がひととおり済めば、規制も多少は緩和する予定ですが……まずは見つからないことにはね。あなたの処遇についても――あー、その、予言がらみのことに関して」
前夜に彼らから話を聞いたのも承知なのだろうが、サンディオは言いにくそうにそれを発音した。
彼の窺うような口ぶりは私への配慮だけによるものだけではない。
見るからに超自然を信じなさそうな彼のことだ、仕事といえ予言だなどという馬鹿馬鹿しい単語を出すのも疎ましく思っているのだろう。
「一介の軍人である私があなたに対してどういう処置をするかを決めるわけにはいきませんので、上の指示が出るまでは保護させていただくかたちになりますが……」
私が軽く頷くのを見て、サンディオはあっけにとられ――そしてまた得体の知れない疑惑への眼差しを深めた。
「まあ、その……何かと不便かとは思いますが、どうか辛抱してもらいたい」
彼の向ける視線はどことなく硬さを増し、たわ言めいた予言の人である私の向こうにある何かを見透かそうと苦心している。
読み取ろうとしなくともありありと言葉が顔に張り付けられている。こんな男が世界を変えることがあるなら、酔っ払いさえ崇められるだろうと。
その意見について反対はない。表も裏もまったくそのとおりだ。
「すみません、レンツさん」
ルイスが謝罪の言葉を述べる。すまなそうな口ぶりに似合わない笑みが目についた。
そしてなぜか、彼が私の名前を呼んだときに頭の中身がちくちくと痛んだ。それの正体は判然としない。
しかし一つだけおぼろげながらもわかるのは、それが
(あの暴君の言ったことを覚えてさえいれば、そうすればここで気付けたかもしれないのに)
ささやかな……しかし重大な違和感であるということだ。
そもそも彼の表情からして違和感以外の何者でもない。深刻な状況にもかかわらずなぜ彼はこうも機嫌がよさそうなのか。
たとえ私の耳が今までどおり聞こえなかったとしても容易に理解できるほどに彼は浮き足立っている。
だがそれとは違う。共通点はあるが、異なっている。
なぜなのだろう。私の名を呼ばれても、それが自分だと思えない。特に彼に呼ばれた時は、……。

私は正体を探ることを早々に切り上げ、そういえばと思った。
ルイスの不自然なほどの高揚を、上官でもあり個人的にも面識のあるらしいサンディオは疑問を覚えていないのだろうかと。
そうして場を読んでみれば、サンディオは私だけでなく、時折ちらちらと彼を盗み見ているのがわかった。
「でも大丈夫ですよ。きっと、もう少しだけマシになるはずですから」
彼を横目でうかがうサンディオの目はやはり――親しみではなく、疑惑に満ちている気がした。
気がした、ではない。巧みに隠されていた私の時とは違い、それは隠しようもないほどに露骨だった。
猜疑心、疲労、当惑、そして若干の怯えと恐怖。ない交ぜになって、それらすべてを諦めて受け入れている。
この目には他人の隠匿したいものを「視る」能力があるらしいが、執拗なまでに他人の顔色をうかがい続けてきた私の
(長い、とても長い)
人生において、この程度の読心など奇跡のちからとやらを用いる必要もない。
ルイスが何かを隠しているのは疑いようもないが、サンディオは彼の秘匿するものについてをいくらか知っているように思われた。
「そう遠くはない先で――そう、じきに何もかも。よくなりますよ」
情け深い控えめな声。私の心情を慮った優しい心遣い。しかし彼の表情は待望のプレゼントをもらった子供のように喜色に溢れている。
「よくなりますよ」と言った時、唇は驚くほど見事な弧を描いた。
絵画のような笑み。寒気を覚えるほどに完璧な、空想めいた笑みがそこにある。
サンディオが再び彼を盗み見た時、浮かんだのは一種の絶望の色に見えた。

それでは僕たちも、捜索に参加しないといけませんので。
何一つそぐわないそれぞれの空気。それを無視し、力ずくで会話だけが成立している。
上機嫌なルイス、土気色をしたサンディオ、奇跡を体得した私。
おかしいというのならそれこそ何もかもおかしいのだ。つつけばたやすく崩れるような砂糖菓子でできた現実に、立っている。
しかし彼らとすれ違った瞬間かすかに香った、疑いようもなく濃い臭気は紛れもなく現実のものだ。
何かから(何もかもから)逃避しようとする私のふわふわとした頭を目覚めさせようとする、悪意のこもった臭い。私はそれを嗅いだことがある。それも、そう遠くない昔に。
腐りかけた死臭、だ。







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