場は、阿鼻叫喚には包まれなかった。
薄氷の上に立つような緊張感は、おそらく誰かが微かな悲鳴をあげただけで崩れ去るだろう。だが誰もみな、息を立てることさえ押し殺していたのだ。
ここには小さな子供もいる。彼らが叫ばないのは現場にいないのか、それともモリス同様に呑まれているのか。
今の彼に子供たちを心配する余裕などなかった。彼自身、目の前で殺人を見せられてなお、何一つ考えることもできないでいたのだから。
パーネットは愛おしそうな手つきでドナの骸を横たえる。首を大きく裂かれ、断面からはなおも泉のように鮮烈な色の血が溢れていた。
当然、パーネットもまた頭から胸元まで、夥しいほどの血を浴びて濡れそぼっていた。
ひゅっとどこかで音が鳴る。しかしそれはどうやらモリスの体内だけに響いたらしい。全身が強張り、喉は今にも無様な悲鳴をあげそうなほど絞まりきっていた。
「かわいそうに、かわいそうに。彼女も、彼らも、君たちも」
べっとりと張り付いた血糊の中、色素の薄い目ばかりがいやに目立つ。普通より大きなそれはかつてこの男をより幼く見せていたはずだった。
「だけれど罪があるなら害があるんだよ。……ああ、そうだ。悪い報せを伝えないと」
敬語をなくしたその口調が彼本来のそれなのかどうか。違和感ばかりが先立ってそんなことを考えることしかモリスはできなかった。
しゃがみこんだままぶつぶつと呟いていたかと思うと、パーネットは先ほど降ろした鞄を掴んだ。
「あなたたちは、彼を化け物だとか悪魔だとか言っていたね。それは違うと、僕は伝えに来たんだよ」
厚手の布でできた口を開いた瞬間、すっかり麻痺していたモリスの嗅覚が再び強烈な臭いを脳に訴えかけた。
それはパーネットが入ってきた時にうっすらと感じた臭いだ。予想もつかぬ事態が立て続けに舞い込んだおかげですっかり忘れていた臭い。それでも全員を緊張させていた臭い、
彼は一度顔を上げ、殊更にぞっとするような笑みを浮かべて面々を見渡した。
「化け物になるのは、悪魔になるのはあなたたちの方だ。見てごらん――」
底を掴み、無造作に中身を出す。
転がり落ちてきたものたちに、モリスを含め全員が、極限まで張り詰めさせていた緊張の糸を途切れさせた。

「――ほら、こんなにも醜い」

頬を紅潮させ、浮世から離れた目を細めるパーネットの声は掻き消えていた。
原型を疑わせるほど腐敗した、しかし明らかにそれとわかる肉の塊の数々に、誰を皮切りにしたかもわからない悲鳴が一斉に室内を満たしたのだ。
同時に逃げ出そうと動き始める人々。彼の立ちふさがる正面玄関は使えないと踵を返して走り出すも、通路に阻まれ立ち止まる。
怒号とも悲鳴ともつかない喧騒、押し合い泣き叫ぶ子供の声が幾重にも響き、建物を揺らした。
「どうして逃げるの? あなたたちがずっとしてきたことでしょう? どの道逃げられはしないんだよ」
張り上げることもない声はやはり人々の叫びに埋もれていた。
パーネットはゆったりと立ち上がる。それを見た最後尾の人々は血相を変え前へ進もうと死に物狂いで体を押し付けた。
モリスもそのうちの一人だった。
だが、勝手口がある。他にも通用口がある。いずれは前に進める、あの男も立ち上がってこちらを見ているだけだ。もしかすると助かるかもしれない。
一心にそう願っていたモリスだったが、いつまで立ってもたたらを踏み続けている現状に気がついた。
いくら詰まっているとはいえ、全く進まないはずがない。疑問を抱く彼に、彼らに訪れたのは、前方からのヒステリックな叫び声だった。
「開かないだって? そんなわけがあるか!」
伝聞に次ぐ伝聞に、再び生まれる怒号。何が起きているのか。モリスは恐怖と闘いながら、後ろをゆっくりと振り返った。
腐敗した死者の肉片を足元に転がせたかの男は、全てを知っているかのような顔で悠然と地獄絵図を眺めていた。
「おかしいね、僕はたった一人なのに。みんなで襲い掛かったあの勇気はどこへ行ったの?
 ほら向かっておいでよ。団結して僕を殴って、蹴って、踏み潰して、この気の毒な人たちのようにしてしまえばいいじゃない。
 ああ、そうだ。扉が開かないのなら二階から飛び降りたらどうかな。歩けなくなるかもしれないけれど、こうなるよりはマシなんでしょう?」
言いながら無造作に足元の肉塊を足蹴にするパーネット。彼の言葉は届いていないだろうが、ちょうどその時人波が動き始めた。
階上に向かっているのだろう、壁の向こうでギシギシと音がした。だがその音も、新たな絶叫に掻き消える。
何が起きたのか。思案する前に、鼻に焦げ付いた臭いが入り込んできた。
「飛び降りる前に焼けてしまうかもね。壁は煉瓦だけれど、他はほとんど木と布だから」
くすくすと笑う男、そして押し戻される人の波。
なぜ開かないのか、窓もあるだろうに、そしていつ、どうやって火など放ったのか。
前に進もうにも進めず、進んだところで救いがない。モリスは気がつけば正気を失ったかの男に呼びかけていた。
「――わかったぞ。お前は一人じゃない」
近くの何人かがぎょっとしてモリスを見た。彼自身なぜ話しかけているのかはわからなかった。
出た言葉そのものはすこぶる平静に思えることも、声そのものは怯えを隠そうともしない上ずったものであることも、彼を驚かせる。
パーネットは気取った仕草で顎に手を添え、「へえ」と楽しげに続きを促した。
「それで?」
「……。やっぱり俺たちは、正しかった。お前は、お前らは悪魔だ。悪魔だったんだ」
パーネットの表情がわずかに変わる。だがモリスは、それに気付くことができなかった。
「そう。誰のことを言っているの?」
「決まってる――」
「――わかってないね。あなたたちは、何一つ。これだけのことがあっても、何をしても、ねえ、モリス、モリス・ベイリー」
低く吐き捨てられるパーネットの声に、演説をぶちあげようとしていた声帯が急速に締め上げられた。
モリスの全身の毛は逆立ち、逃げることも忘れ、ただ笑みを消した男の目に射竦められる。違う、相手はイカれているが人間だ、ただの人間だ――
鼓膜の向こう側で絶叫は更に増えていく。焦げ臭さは秒を増すごとに強まり、建物の悲鳴すら聞こえ始める。
「あなたはかわいそうな人だね。でもあなたも、僕をかわいそうだとは思わないんでしょう」
パーネットが血に塗れた、鈍りきったナイフを見下ろす。
悲鳴が増す。
なぜか、どこかで悲鳴が途切れる。
「ああ、誰か死んだみたいだ。でも大丈夫、あなたは殺しはしないよ」
残酷な、しかし救いともとれるせりふを述べながら、彼はナイフを腰のポーチに仕舞い、歩き出した。その様子を認めた人々は一層の狂乱を描くも、彼の目指す方向は人垣ではなかった。
年代物の薪ストーブの前で立ち止まるパーネット。薪を賄えないからと長年放置され、埃かぶったそれの脇に備えられた火掻き棒を掴む。
豪奢な飾りのついた頑丈な作りの棒を軽く振り、直角に曲がった煤まみれの先を眺めた後、モリスに向かって微笑みかけた。
「たくさん命乞いをするといい。かつてあなたが食らった人たちのように。でも、大丈夫、あなたは殺さないから」
同じ言葉を並べ、パーネットがゆっくりと歩き始めた。今度はモリスをしっかりと見据えて。

薄い色素にもかかわらず、光の一切を拒絶する灰色の瞳を直視したモリスは、今度こそ平静を失って踵を返した。
喉から絞れているのは、かつて彼が蔑み恐れていたかの男の肉声よりも不様な悲鳴だ。華奢な女の肩を無理に掴み、後ろへ向かって引き倒す。
彼は背後を振り返らなかった。願わくば、ルイスが今の女に気をとられていいとさえ思っていた。
子供だろうと老人だろうと、先ほどまで仲良く話していたはずの友人でさえも押しのけて強引に人ごみを掻き分けて逃げる。
「すごいすごい。見えなくなったよ。まさに火事場の馬鹿力ってやつだね!」
前方からの悲鳴は近付き、新たに背後から生じる絶叫は遠ざかっていく。ルイスの揶揄する声が耳に届いた瞬間、モリスは更なる恐慌に襲われた。
「何しやがる!」「やめて、押さないで」「痛いよう、痛い……」
非難する声は聞き流し、柔らかな質感の何かを踏みつけ、炎が待っているはずの階上へ向かう。
――とにかく、とにかくあの男から少しでも遠ざかることができれば。


どうやってそこに辿りついたのか、モリスはよく思い出せなかった。
押し合う人々に抗うようにして進むうち、彼は彼を守護する肉の壁に誘われるようにして、屋上へとやってきたのだ。
先客はいない。三階建ての屋上から飛び降りようとする者はいなかったということか。
軋む扉を押し開け、だだっ広く埃っぽい空間に躍り出たモリスは、そこでまたしても得体の知れない恐怖に襲われた。

確かに先客はいない。生きている先客は。
「なんだ……何なんだ、あれは」
街へ通じる坂道、正面玄関側の淵に何かが立っていた。
モリスの位置からは、十字に組まれた丸太の骨組みがまず見えた。横に組まれた木の両端には紐が。縛り付けられているのは、人だろうか。しかし人にあるべきものがない。
混乱を極めた彼ですら疑問を抱いた。あの男――ルイスは今しがた、この施設に入ってきたはずだった。
誰が作ったのか。誰で作ったのか。何のために作ったのか。どちらにしろ言えることは、ここですら安全ではないということだ。
モリスは慌てて踵を返し、再び狂乱の最中へ戻ろうとした。しかし、強い力が彼に歩を進めることを許さなかった。
誰もいないはずだった。にもかかわらず、気配すらなく、モリスの背後に誰かがいた。その誰かは腕を回し、既に彼の首筋に鋭い刃物をあてがっている。
「困るよお客さん。飛び入りはさぁ」
同じく背後から聞こえた声に、モリスはむしろパニックから救われた。これまでに聞いたことのある声ではない。
絡みつくような粘質の声は耳障りだが、少なくともルイスのものではなかったからだ。
あの男でなければ、化け物でもなければ、どうということはない。
当然ながら、モリスの判断は間違っていた。
「お前は誰だ」と尋ねようとした瞬間、刃物が素早く横に滑る。実際に彼の口から、切り裂かれた喉から出てきたのは笛のような音と怒涛の飛沫だけだった。
咄嗟に手で喉を押さえてようやく、モリスはそれが自分の血であると気付いた。
「悪いね。アンタに恨みはないんだけどさ、やっぱり仕事は仕事じゃない?」
およそ腕力では抑えきれない水圧を受け止め、モリスはそれでも振り返った。
突如として背後に現れ、一分の隙も与えず彼に致死傷を負わせた男。その男は亜熱帯の地域にもかかわらず全身を布で覆い隠し、目深にフードを被るという異様な風体をしていた。
その男の身長は高い。こうしている間にも、モリスより更に高く、高くそびえるように――
「……いいね、そういうの。そんなに俺の顔を拝みたいってわけ」
噴き出す血を避けつつ、男は床へ仰向けに崩れ落ちた彼の隣にしゃがみこんだ。モリスの願いを理解しているのだろう。
その男がフードを手にかける必要はなかった。おのれを手にかけた犯人の素顔を見たモリスの、光をなくしかけた目がわずかに見開いた。
ぱくぱくと口を動かすモリス。音はない。そして、言い終えたかどうかもわからないまま、彼は絶命した。







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