丘を駆け上がる私。
それは全速力で走っているとは到底言えない光景だと自分でもよくわかった。既に体力は限界だ。
私の少し先を駆ける二人の伝教者たちも息こそ上がってはいる。だが、彼らが気遣ってくれることも理解できないほど私は愚かではない。
歩を進めるごとに、ものの焼ける臭いが鼻をついた。数日前、施設の厨房で嗅いだ臭いよりも更に粘質の――不快な臭気が体の外側に、内側に纏わりつく。
何とか丘を登り、燃える施設が見え始めたところで、前方の二人が驚きの声をあげた。もはや地面しか見ていなかった私はその声に顔を上げる。
まだ玄関が見えるほどではないはずだ。そう思い二人を見やった私は、彼らが前方を見ていたわけではないことに気付く。
上だ。私は施設の屋上を見上げた。そして、凍りついた。

屋上、私がかつて毎日出入りしていたそこに、一体の案山子が立っていた。
古びた木で出来た十字架に両手両足を楔で打ち付けられ、だらりと頭を垂れる案山子。ところどころが腐敗し、つぎはぎだらけの……死体の寄せ集め。
皮を剥がれ、筋肉を晒した顔面に、不恰好に縫われた鼻と耳。目はちょうど瞳の位置に釘が刺さっている。内容物が出た眼球は涙を流しているようにも見えた。
絞首刑に処された囚人のように垂れ下がる舌も借り物だ。顔面は頭そのものを除けば、すべて腐敗し虫が涌き始めていた。
誰のものかはわからなくなってしまっているが、首を縫われて無理に繋がっているその頭の主――手入れされていないぼさぼさの白髪交じりの髪は、つい先日に見た覚えがある。
襤褸を纏った体も、両手両足いずれも体格は合致せず、まるで噛み切られたような切断面を無理に縫合しているせいで熱風に煽られるたびに不安定に揺れる。
破れ、焦げた服の隙間から見える腹にはおさまっているべきものはなく、ただ枝肉のような闇がちらちらと覗く。
マギーがくぐもった声をあげるのが聞こえた。続いて、キャスが彼女を呼びかける声、そして嗚咽が。
嘔吐に呼応して胃袋が痙攣を起こす。荒く息をつくたびに逆流しようとする内容物を力ずくで嚥下し、私は二人を追い越して歩を進めた。
待て、と諌める声が耳に入るが、私は聞こえていないのだ、彼らにとっては。

玄関が見えたところで、私はまたしても立ち止まった。
熱気のせいではない。確かにここからも、熱は私の頬を舐めるほどだったが、足を止めたのは別なものが原因だ。
「嘘だ――嘘だ」
マギーを抱え、私と肩を並べるキャスが絶望に暮れる。玄関の石畳に横たわる、血にまみれたその人。そばに立つ金髪の兵士など、お互い目には入っていなかった。
「ドナ、さん?」
掠れた声でマギーが続け、キャスの手から離れてよろよろと駆け寄る。
一目見ただけで、彼女がもう事切れていることはわかった。首はぱっくりと割れ断面を晒し、頭と目があらぬ方向を向いていたのだから。
「……」
無言で佇む金髪の兵士、サンディオを見やる。彼は疲労の滲む隈を、朝よりもっとひどくさせていた。足元には煙草の吸殻が何本も散らばっている。
燃えている建物。無惨な姿を晒すドナ。その他には誰もいない。そんな状況で、彼は一体何をしている?
一瞬だけ腹立たしさを覚えたが、改めて彼の顔を見、そして目を落とし――顔色は蒼白で、唇は変色し、手は小刻みに震えている――叱責の念は即座に萎んだ。
ただ何が起きたのかだけは説明してほしかった。
「なあ、おい、アンタ。一体……何があったんだ?」
私の思いを代弁する、キャスの変に乾いた声。サンディオはしばらく無反応で、ややあってからキャスを一瞥した。そしてまた煙草を口にくわえた。
続いて、
「ドナさんはなんで……他のみんなは? みんなどこかにいるんだろ?」
蹲ってドナの手を握り、縋る眼差しでマギーが問いかけた。彼女の声はしっとりと濡れていた。
彼は答えない。虚空を見つめ、ただ黙々と煙を吸っては吐き出し続ける。耐えかねたキャスが苛立ち紛れに声を上げようとしてようやくサンディオは口を開いた。
「全員、この中だ」
「この中って、」
「この中だ」
目で施設を指すサンディオ。うっすらと汗をかく二人の顔が、上昇した気温にかかわらず青ざめる。
「そんな、……違うだろ? だって何も聞こえない――」
「――今はな」
煙草をもみ消し、胸ポケットを探り、そして彼は忌々しげに舌打ちした。空になった煙草の紙箱を握り潰し、打ち捨てた。
努めて平静を装っているのがうかがえる。
私はドナのそばに跪いて彼女の目を閉じさせることしかできなかった。
自分の胸の内に広がるのはどうしようもないほどの無力感だ。笑えることに悲しみさえ麻痺しているらしい。
だがそうではない者もいた。そのままサンディオに噛み付くのではというほど彼を睨み付けていたキャスが唐突に駆け出そうとする。
「キャス! やめろ!」
行動を予測していたマギーがキャスの背中にしがみつき、羽交い絞めにした。彼ももがいてはいるが、その動きに力はない。
「……扉は開かん。内側から鍵がかかってる。人手がないことにはどうにも……」
「だから黙って見てろって言うのかよ、え? てめえみたいによ!」
キャスの罵倒に、サンディオの眉が歪んだ。だがすぐに冷たい顔を張り付かせ、
「好きなだけ罵るといい、気が晴れるならいくらでも。これ以上死人を増やしてくれるなと言ってるんだ」
扇動するかのようなせりふに、しかしキャスは言葉を詰まらせ力なくうなだれる。彼も状況は絶望以外の何者でもないことを理解してはいるのだろう。

一体何が起きたのか? 私は口を開こうとした。
だがその前に轟音が私たちの耳を揺さぶる。二階の窓から火が吹き出した。中で何かが崩れたのか。
「……そうだ。あいつはどこへ行ったんだ」
「あいつ?」
「お前と一緒にいた……あの黒髪の、お人好しだ」
キャスの問いにサンディオが問い返し、彼は恐らくルイスのことを言っているのだろうと気付く。
他の兵士たちの到着が未だないのも些か疑問ではあるが、確かにキャスの言うとおりだ。彼らは昨日から、二人で行動しているように見えたのだ。
にもかかわらずルイスの姿はない。彼に関する個人的な疑念はさておいて、私たち三人の顔に不安の色が浮かんだ。
対するサンディオは、人物に見当をつけた途端鼻先でせせら笑った。
「お人好し。そうか、お人好しね。まったく」
顔を歪め、哄笑する彼。さもおかしそうに笑い始める彼を、キャスたちが訝しく見るのも無理はないだろう。
彼らの表情はいささかの恐れを孕んでいた。この異常な状況で、目の前の男が狂ってしまったのではないかとでも考えているのか。
炎の合唱が大気を震わせる中、彼の笑い声はその音よりも耳障りだ。
(聞こえなければよかったと考えたか? いや、)
目の端に涙を浮かべるほどの激情を顕にしたサンディオは、腹を抱え、涙を拭いながら顎をしゃくった。
「あのお人好しがどこにいるかって? あいつならこの中だ。誰も彼もこの中にいる」
指したのはやはり施設だった。彼の言葉を咀嚼した二人の顔に怒りが浮かぶ。
「何がおかしいんだよ! あいつも――他の奴らも、」
「『死んだっていうのに!』、か?」
キャスの激昂に先んじてサンディオが言った。先ほどの態度に違わず、不似合いなほどに彼を小馬鹿にした調子で揶揄する。
例によって怒りを更に増幅するかと思われたキャスは言葉を失っていた。サンディオを得体の知れないものでも見るかのように一瞥し、僅かに後退さえ見せた。
徐々に正気を失っていく街の者たちを見てきた彼らだ。今この兵士が銃を取り出すことさえ、有り得る未来と想像しているかもしれなかった。
だが彼は、死人のように顔色の悪い男は、歪んだ笑みを一瞬で萎ませ胡乱げにキャスを見返す。
「いっそ死んだ方が世の中の為になる。お人好しらしく助けに飛び込んでそのまま死んでしまえば、」
冷酷に過ぎる言い種に、キャスがサンディオの胸倉を掴んだ。ルイスより長身のサンディオに、私より少し高いだけのキャス。
身長差の違和感を拭うのは、義憤に燃えるキャスのまっすぐな目だった。対するサンディオは疲労しきった濁った目で彼を見返す。
「すぐにお前も、俺と同じことを思うはずだ」
キャスの怒りなど歯牙にもかけず、どこか超然的に諭すように言い放った。

一瞬怯みつつも更なる罵倒を告げようと、キャスが口を開いたその時、耳をつんざくような音が二重に鼓膜を震わせた。
「――!」
全員が息を呑み硬直した。建物の崩壊する音か、いや。
私は、私たちはその音が何であるかはよくわかっていた。
ガラスの砕ける音と、人間の悲鳴だ。しがらみを忘れ、全員が音のあった方向へ首を向ける。当然私自身も。
「今のは……」
息を呑むマギーの言葉より先に、私は再び足早に歩き始めていた。私にとっては正面玄関よりも馴染みのある――すなわち、裏口のほうへと。







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