「臆病者」





 放課後の学校は騒がしい。グランドや体育館から聞こえる運動部の掛け声は離れた校舎にまで届くことがある。
 教室では発声練習をする演劇部や、部活に入っているわけでもない女子たちの笑い声がどこかで必ず響いている。
 オレたち吹奏楽部の出すパート練習の音色も途絶えることがない。
 放課後遅くの学校はおそろしく静かだ。廊下の電気も消えて、日が落ちた外からの光もなくなる。
 教室という空間が急に広く思えてきて、そしてよそよそしくなる。
「もう外が真っ暗だよ」
 音楽室の窓を覗き込みながら、井東先輩が言った。
「まあ、冬ですからね」
「冬ですからね、って」
 トランペットをケースに収めていて生返事をすると、先輩は不満そうな声を出した。
 先輩は声のとおり口を山なりに曲げてオレを見下ろしている。
「じゃあオレが送りましょうかとか言えないの?」
 ああそうか、そこはそう言うべきだったのか。だけどオレと先輩の家は逆方向だ。
「すみません」
「謝るとこじゃないから」
 先輩は苦笑いした。
「いいよ。校門から出たらすぐ逆方向になるからね。でも佑介くんね、私の彼氏なんだから一応でも甲斐性を見せなさい」
「一応って」
「だって佑介くん甲斐性ないんだもん。あ、持っていくよ」
 ケースの蓋を閉め終えたのを見て、井東先輩はケースを持ち上げた。オレが断ろうとする前に先輩は音楽準備室へ入っていってしまった。
 思わず長いため息をついた。手持ち無沙汰になったのでとりあえず鞄の中を意味もなく整理する。
 今、広い音楽室に残っているのはオレ、そして同じ二年生の景山の二人だけだった。景山は少し長い前髪を邪魔そうに掻き上げながら堂々と携帯電話を弄くっている。
「お前、先生に見つかるぞ」
 景山の近くまで行って声をかけると、景山は小さな声をあげて驚いた。
「何だよ。急に話しかけてくるなよ」
 非難がましくオレを睨みつけて、今度は机の陰に隠れるようにして携帯を打ち始めた。
 オレは景山の前の席に座って携帯を覗き込む。
「誰にメール打ってんの?」
「彼女」
 景山はそっけなかった。
「えっと……この前言ってた、大学生の?」
 オレは必死で最新の記憶を漁る。景山は付き合う相手を見境なくころころと取り替える奴だった。
 オレの質問に景山は顔をあげた。
「そっちじゃなくて、一個上のサッカー部のマネージャーの先輩」
 そっちじゃなくてとはどういうことだろうか。
「一週間前じゃんか、大学生の人と付き合いだしたのって。もう別れたとか」
「違うよ。どちらともお付き合いしているわけ」
「って、二股?」
 井東先輩は先生に何か手伝わされているのだろう、準備室からの楽器を動かす音に思わず振り返った。
「まあね。送信っと」
 景山は悪びれた様子もなくまた携帯に目を戻した。数十秒もたたないうちに景山の携帯が震える。
 景山が舌打ちしたのをオレは聞き逃さなかった。
「どんだけ返事に情熱出してんだよ」
 彼女に対する言葉とは思えない悪態をついて、景山は携帯を開いた。そしてまた忌々しそうに大きな舌打ちをした。
「どうしたの」
 そう尋ねると景山はオレに携帯の画面を見せた。そのサッカー部マネージャーの彼女からのメールは、来週の日曜日に買い物へ行かないかと尋ねるだけの普通の内容だった。
「これが何だって?」
「日曜。お前さ、カラオケ行くって予定、忘れてるのかよ」
 景山に迫られて思い出した。来週の日曜日は景山と、同じ吹奏楽部の友達一人と一緒にカラオケへ行く約束をしていたことを。
 だけど彼女が遊びたいって言っているなら、そっちを優先すべきじゃないだろうか。
「いや、いいよ。いつでも遊べるし、彼女と買い物行って来いよ」
 オレが遠慮すると景山は嫌そうな顔をした。
「たかがコイツのために俺の予定を変えたくない。買い物とか面倒臭いし」
 景山は返事も打たずに携帯をたたんだ。
 音楽準備室からは物音がしなくなったが、かわりに井東先輩が先生と話している声が聞こえてきた。
 オレが準備室の方を振り返っているのを見て、景山が口を開いた。
「佑介も俺のこと言えないんじゃねえの」
「え?」
「井東先輩。お前と先輩、付き合ってるって感じじゃないし」
 急に話をふられてどきりとする。
 景山はポケットから飴を出して包装を破り、青い飴玉を口へ放り込んだ。
「いる?」
 また景山のポケットから出された飴をとりあえず受け取って、自分のポケットへ入れなおした。
「雰囲気が何か、離婚直前の夫婦みたいなんだよ。とりあえず受け答えしてる、みたいな」
 何も言い出せずに言葉に詰まる。景山はオレの顔をしばらく見て、
「佑介、井東先輩じゃなくて、好きな人いるだろ」
 思わず目を見開いて、後悔した。景山がおかしそうに笑ったからだ。
 バレバレの反応してんじゃねえよと指をさす景山に何か言い返そうとした時、準備室の扉が開いた。井東先輩の再登場にすっかり士気を殺がれてしまって、中途半端なイライラを残したまま席に座りなおす。
「お疲れさんです」
 景山は一転して気だるげな顔になって先輩に声をかけた。オレも労いと感謝の声をかける。先輩はにっこりと笑みを浮かべ、
「ありがと。景山くん、先生が呼んでるよ」
「あ、はい」
 井東先輩と入れ替わるようにして今度は景山が準備室へ入っていった。
「オレは呼ばれてたりしませんよね」
 一応尋ねると、先輩は首を振った。隅の机に置かれていたキャメルのコートを羽織り、緑のマフラーを首に巻きながら先輩が聞く。
「佑介くんはこれから帰るの?」
「いや、もう少しここにいますけど」
「景山くんと帰るんだ」
「景山の家は先輩と同じ方角じゃないですか」
 先輩は首を傾げた。パーマのかかった長い髪が揺れる。
「誰か待ってるの?」
 言葉に詰まった。
「いや……そういうわけじゃないです」
 先輩がますます怪訝そうな顔になった。
 気まずい沈黙が流れ、その後に先輩はさっきのオレみたいに長い溜め息をついた。
「じゃあ、私帰るから。また明日ね」
 ――一緒に帰ろうとか言えないの?
 そう訴えかける先輩の目を見ることができずに、窓の外を見ているふりをしながら、
「お疲れ様でした」



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