「あ、井東先輩帰った?」
 何分が経っただろうか、準備室から景山が出てきた。景山はまたポケットから飴を取り出して口に入れる。今度は紫色だった。
 景山は腰に手をあてて、オレを無表情に見下ろしてきた。
「帰んないのかよ」
 先輩以上に非難がましい目を向ける景山。視線を無視して腕時計を見やると、もう午後七時を回っていた。
「用事があって」
「夜に彼女置いていくよりも大切な用事、ってか」
 ま、俺には関係ないけどね。景山が首にさげていたヘッドホンを耳にあてて帰る準備をし始めた時、音楽室の向こうから慌しい足音が近付いてくるのが聞こえた。
 いやに冷めていた心臓が突然動き出したような気がした。
「よかったまだ帰ってなくて、遅くなってごめんね佑介!」
 横滑りのドアが勢いよく開かれて、ショートカットの女子が姿を現した。息を切らして手を合わせる彼女こそ、オレの用事そのものだ。
 西原ひろみ。小学校からの幼馴染だ。
「あ」
 三人の声が同時に発せられる。オレと、西原。そしてさっき帰ったはずの井東先輩の声だ。
 先輩は音楽室の外、つまり西原のすぐ隣に立っていた。彼女は景山を見て声をあげたが、次にオレを見ると気まずそうに目をそらした。
 西原は先輩と同じく、視線を景山に向けている。
「……じゃ、俺帰るわ」
 景山はそう言うと、西原の横をすりぬけてさっさと帰っていった。その後をなぜか、井東先輩が追いかける。
 なんだって先輩は寒い廊下にずっといたんだろう。それとも、忘れ物を取りに来たんだろうか。それにしては音楽室に入ってこなかった。
 悶々と考えるオレをよそに、西原は置いてあったオレのマフラーを投げつけてきた。
「よし、帰ろっか。ここにいたら先生に迷惑だもんね」
「え? でもお前、オレに相談があるって」
「帰りながらでいいじゃん」
 どことなく理不尽な気持ちを感じながらも、顧問に声をかけてから二人で音楽室をあとにする。
 何とはなしに廊下から校庭を見下ろすと、景山と井東先輩が、自転車を押して二人で歩いていた。
「あの二人って、やっぱり付き合ってるのかなあ」
 西原が呟いたせりふに思わず振り向く。西原もまた、校庭を眺めていた。
「違うの? あの二人、よく一緒にいるよ」
「そうだっけ」
 少なくともオレの方が噂になっていいものではないだろうか。
 西原は心底、意外そうに目を開いた。
「佑介は知らないの? 景山くんとけっこう、仲いいじゃない」
 井東先輩はオレと付き合ってるから、それは有り得ないよと言い出すことができなかった。
「さあ。景山からは、何も聞いてないけど」
 肩をすくめる。
「そっか……。じゃあ違うのかな」
「で、相談って何」
 オレは何となく予感しながらも聞いた。少なくとも、オレが今一番望んでいるような相談ではなさそうだ。
 西原は階段を降りながら、少し照れくさそうに笑った。
「実はね、好きな人ができたの」
 ほら来た。
「またかよ」
 大げさに溜め息をついてみせると、西原は憤慨したように眉をしかめる。
「本気だもん」
「で。誰」
「……景山くん」
 今、何て言った?
 オレは頭の横を何度か叩いた。聞き間違えたらしい。
「ごめん、よく聞こえなかった」
「何度も言わせないでよ。景山くんだってば」
「景山? 景山って、さっきの景山?」
 あの女ったらしの景山聡でなければいいと、心の底から願った。
「景山なんて一人しかいないじゃない」
「マジで?」
「そうだってば!」
 めまいを感じた。
 これまで何度か、西原から恋愛の相談を受けたことがある。その中でも今回の相手は悪すぎだ。
「で」 内心で焦る気持ちをできる限り抑える。「なんで景山?」
「あのね……」
 夢見心地の表情でうっとりと語り出す西原。
 正直、あまりに長いのでオレ自身もほとんど聞き流していた。ただ言葉の端々を拾っては、「英語の時間は同じクラスなんだけどね、友達と話してる時の笑顔が可愛いなって思って」だの「吹奏楽で、トランペットのソロがあったじゃない? 文化祭の。その時……」だのといった景山の素敵なところを吟味する。
 なるほど。要するに、
「直接は話したことがないわけだ」
 西原は勢いよく首を振った。
「話せるわけないじゃん! 隣にいるだけで顔真っ赤になっちゃうぐらいなのに」
「隣?」
 話もできないのにどうして景山の隣にいられるのか。
 西原は少し憤慨して口を尖らせた。
「話聞いてなかったの? 英語の時間は景山くんの隣なの」
「ああ、そうだった」
 オレは慌てて取り繕った。
「でも、とりあえず話をする程度はしておかないと。望みも何も可能性もないじゃないか」
 とりあえず話をする程度で、景山が女遊びの激しい奴だってことに気付いてほしかった。
 景山は第一印象は落ち着いた大人しい人間みたいに写るせいか、こいつの隠れた性癖を知る人間は意外なほど少ない。男はともかく、女はなおさらだ。
 オレの言葉に、西原は腕を組んで考え込む。
「そうなんだよね。っていうか、今の歳にもなってさ、話し掛けることもできないなんて恥ずかしいじゃん」
 確かに、高校では西原みたいなケースは珍しいかもしれない。今のご時世、メールで連絡を取り合っていたらいつのまにか付き合っていたような恋愛がザラだ。
 オレと井東先輩については例外だ。媒体はメールでこそあれ、オレの方からきちんと告白を、した。
 オレには他に好きな奴がいるというのに。
「西原は対面の方が気になるわけ? いいんじゃないの、別に。恥ずかしかろうと、なったもんは仕方ないだろ」
「そういうわけじゃないけど……。いろいろ考えるじゃん。やっぱり」
 いつのまにか出た往来の、交差点で止まる。
 傍から見ればオレと西原はそういう関係以外の何者にも見えないだろう。
 胸の奥、どこかがふさがるような気持ちがした。
「女子の世界はよく知らないから何とも言えないよ、オレには。そもそもオレに相談していいのかよ」
 西原はきょとんとした顔でオレを見上げた。
「どういうこと?」
「恋愛の相談とか、同じ女子にした方がもうちょっとましなアドバイスくれるだろ。オレがまともな意見を言えたことなんてない気がするんだけど」
「そんなことないよ。それにあたし、佑介に相談するのが一番落ち着くんだよね。気使わなくていいし」
 笑顔で言う西原に、控えめな笑顔で返すのが精一杯だった。
 横断歩道を渡りながら、さりげなく車が来ても西原にぶつかったりしないよう気を使ってしまうオレがいい加減女々しく思えてくる。
「そういえばさ」
 しばらく無言で歩いていたが、西原の唐突な切り出しに横を向く。
「佑介って付き合ってる人、いるの? それとも、いたの?」
「オレ?」
 どきりとした。今日は何だか妙に、どきりとさせられることが多い。
「オレは、別に、付き合ってるとか……」
 言葉を濁すが、西原は食い下がる。
「だって聞いたことないよ。好きな人とか」
 言えるはずがない。
「そういうのに興味がないから」
「でも、告白されたことならあるでしょ? 佑介、顔は悪くないもん」
 誉められたはずなのに、なぜだか空しくなった。
「ないわけじゃないけど」
「それ、全部断ってきたわけじゃないよね」
 小学校から高校にいたるまで、数回か、女子からの告白を受けたことは確かにあった。
 基本的には好きな人がいるからと断ってきたが、経験しておくのも悪くはないかという下心で、そのうちの何人かと付き合ったことがある。
 けれどそれは結局下心やごまかしにすぎなくて、どれも数ヶ月もしないうちに終わってしまった。
 ちなみに井東先輩とは今、一ヶ月目だ。それが事実だ。
「別に」
 歯切れの悪い答えしか返さない俺に、西原は少し苛立ちのこもったまなざしを向けた。
「別に、って。こんなの二択じゃない。そんなにあたしに知られたくないわけ?」
 そうだ、と言える勇気は、当然のごとくオレには、ない。
「こういう話、普通に言えないだろ。オレは女子じゃないし」
 そう答えると、西原には満足のいく回答だったらしく表情が悪戯っぽい笑みに変わる。
 オレは心の中で安堵の息を吐いた。
「あ、照れてんだ? ってことはあるんだね。へえ、佑介もそういう経験あるなんて」
「何だよ、その言い方」
「別にぃ」
 西原は手に持っていた鞄を大きく振り歩く。
「でも、あたしにも相談してくれてもいいのに」
 予想外に真面目な物言いに、また心臓が不意に脈打つ。
 今度は少し気まずさを持った沈黙を引きずりながら、大通りから外れた暗い道を二人で歩いた。



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