どうしようもなく不快な悪夢から目が覚めた瞬間ぼくは猛烈な勢いで嘔吐した。吐瀉物がベッドの上に散らかる。が、何も食べていなかったので黄色い胃液が広がっただけで済んだ。
それから洗面所へ向かい、水を大量に飲んであらためて嘔吐する。一リットルか二リットルほどの水を無駄にしてからようやく気分も晴れてきた。
どこからが現実だっただろうか。ぼくは携帯の画面を確認した。
相変わらず変にまぶしい液晶画面から通話履歴を確認し、付き合っていた女の名前を確認する。時刻は一昨日の午前二時。
ということは、それからの記憶はおそらく夢の出来事だろう。最近は顕著に日常生活に支障が出てきた、ぼくは鏡に映る痩せこけた自分の頬を現実感なく撫でた。
小さな頃、夢の内容をあたかも現実のように感じたという経験はおそらく誰しもある。ぼくもそうだった。
ぼくがその大多数と違うのは、それが小さな頃と呼べなくなった時期でも日常的に起こっていたということだ。
最初は本当に些細なものだった。帰り道には小さなトカゲがいたとか、現実のレベルと見合ったささやかな間違い探し程度だ。
それが年月を経て年齢を重ねていくにつれ、内容は次第に非現実的なものへと変化し、干渉の度合いも深くひどくなっていった。
自分が起きているのか、寝ているのかはもうすでにわからなくなっている。現実へ戻ったのか? と思った時に一応確認はしているが、それも夢の一部だったらどうしようもない。
今のところは多分、起きている時間と寝ている時間はほぼ半々。一日起きていれば一日寝ている。いや、今日は寝ていた時間の方が増えていた。
夢と現実の時間軸も時間経過も現実とは異なるせいか、ぼくは気がついたら予想外なほどに年をとるようになっていた。
起きているのだとわかっている時にありったけの食べものを食べ、万が一にそなえている。それでもどんどん痩せていっている。
大学にも行っていたが、いつどこで現実でなくなるかわかったものではない。ぼくは必要最低限以外、それも確実に起きていられるとわかっている時以外の外出を極力避けるようになった。
当然、大学も結果的に退学だ。本来なら卒業できている年になったころぼくはその事実を知った。現実で自分の存在価値を否定された気がしてひどく憂鬱になったが、ぼく自体の存在価値を否定される結果になるよりはましだと自分を無理やり納得させた。
病院になど行けないし、行くつもりもない。突然に発症したようなレベルのものではない。
せいぜい、脳障害というところだろう。だいぶ進行しているのでどうせ治すことだって不可能だ。
ぼくは野良犬やカラスのように食べ物を食い散らかしながら、自分の髪の毛をはさみで適当に切る。散髪というにはあまりにも不格好だ。
それでもどうせ、次に外出する時は伸びきっているので関係はない。
けじめ。けじめって、何だ。
ぼくにはけじめのつけ方などわからない。現実と夢のけじめをきちんとつけようにも、境目すらわからないのだ。これはぼくのせいではないはずだ。ぼくのせいなのだとしたらぼくはどうしたらいい?
否応なしに涙があふれ出し、缶詰のさばの味噌煮が塩辛く変化した。
ぼくだってこんな生き方を望んではいない。望んでいるはずがない。けじめをつけられるものならつけたい。
泣きながら味噌煮缶を完食し、山積みにされた缶詰から無造作に一つとる。次はコーン缶だ。ついてない。
缶のフタを開けながら、ぼくは空き缶の山と缶詰の山を交互に見比べた。どちらも同じくらいの量で、どちらも大量に積まれている。
そこでぼくはふと思った。
ぼくは仕事もしていないし、仕送り金を確認さえしていないのに、どうやって、これだけの、食料を、買っていたのだろう?
文章末尾の疑問符が脳内で描かれた瞬間には、僕は食べることも泣くこともすべて止めた。
背筋が硬直してじりじりと焼けつき、冷たく熱い汗がどっと噴き出てくる。
現実ではありえないこと。それはすべて、夢だ。
ぼくは携帯の画面を見る。通話履歴をたどる。ぼくが現実だと信じてきたものをたどる。
播磨美菜、不本意に付き合ってきた女の名前が並んでいた。時刻は、今日の、現在時刻より三十分前まで、五分おき。
現実ではありえないこと。それはすべて、夢だ。
つまりこれは夢だ。
「そんな、まさか、いやそんなはずは……」
骨振動で伝わるぼくの声はまさしく絶望しきっていた。
現実だと思っていたものが夢だった。現実マイナス現実、それは、ゼロではないだろうか?
膠着したぼくの鼓膜から音が入り、痺れた脳に電気信号が送られる。それは長いこと聞かなかったチャイムの音だ。
来客は部屋の鍵を難なく開けて真っ暗な室内へ上がりこんできた。くぐもった足音と、ビニール袋の音、それから金属の音。
姿を現したのは、ぼくの彼女だった女で一週間ほど前に別れを告げた播磨美菜だった。
「ハル君? ほらこれ、今週の食料。今日は起きてるんだね」
淡い緑のスーツを着た彼女はほほえみをたたえていた。右手には重そうな、大量の缶詰。
――ミナ、君とはもう別れたはずだったんじゃ?
――ぼくのことをどこまで知っているんだ?
答えのまったくわからない問いをいくつも浮かべて、そのすべてを抹消したぼくは、ミナと同じように微笑んだ。
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