そこからは、夜空だった。

「きれいでしょう?」
女の子は俺との手を離して、夜空の下、庭園の世界へ溶け込んでいく。
二十メートル四方の煉瓦造りの床に、落ちないよう設えられたブロック石の塀。
四隅の柱には同じく石造りの像が、ここを守護するかのように鎮座していた。
強くはないが濃厚な花の香りが鼻の奥をくすぐる。風が香りを、ここまで運んできたのか。
この屋敷にしては小さめの空間には、煉瓦のほとんどを覆うほどの緑が溢れていた。
煉瓦を抜いて土を入れ、そこから直接生えているバラや、鉢植えのフリージア以外にも多様の植物が無理なく共生している。
どこから発生したのか、つるの草が塀を好き放題に飾っていた。
「ここね、空中庭園っていうんだよ。空の中にあるの」
――言われなくとも。
塀の向こうをのぞむ景色は、模型かと思うほど小さかった。
地面に生えているはずの植物が、こんな空中に花を咲かすなんて。
「ね、お兄ちゃん。ここなら静かで面白いもの。遊ぼうよ」
女の子は、いや、彼女は艶やかに唇をしならせる。
風ではためく、薄ピンクのパーティドレス。
胸元のリボンが蝶のように羽ばたいたかと思うと、ひらりと消えた。
幻想じみた森の中へ。
御伽噺の中の、空中庭園の世界へ。

……夜風がいやに冷たくなった。目の裏に残る笑顔、姿、声、色彩の名残……変わらないのは濃い花の香りだけだ。
自分でも意識しないままに、気がつけば蝶の後を追っていた。


「――ふうん。目立ったら駄目なんだ」
「昔からそういわれてきたよ。まあ、目立つようなこともないけどな。勉強も芸術もからっきしだし」
「目立ちたいって思ったことは、ないの?」
「まあ……、昔からそう言われてるしな。今更何かをしたいわけでもないし、第一……いや……、適当につつましく生きていければ文句ないさ」
塀の下に広がる世界は、自分の目で見下ろしてみれば意外と近いものだった。
俺は上着を脱いで、汗で湿った体を何とかしようとシャツをばたばたやりながら塀の上に座っていた。隣には、例の女の子だ。
俺のように汗をかいたわけではないようで、変わらないドレス姿で足をぶらぶらさせている。
口許にはあるかなしかの微笑を浮かべているものの、顔つきは伏し目がちだった。
「お兄ちゃんは賢いね」
彼女は、ぽつりともらした。
「え?」
「貴族なんて、みんな目立とうとする人たちばっかり。目立てるように、他よりも少しでも目立てるように、
 人のものを使って自分をよく見せようとするなんてバカみたい」
「……」
ふふ、と笑う横顔に当惑した。
「目立つなんてこれっぽっちも良くないもの。楽しくないよ。退屈で、あんまり退屈だから…………なんて」

何だって?

俺が瞠目したのを彼女は認めたらしい。またふふ、と笑い、
「冗談だよ」
その笑顔に、今度は底冷えしそうなものを感じた。
彼女がもらしたせりふは、およそ十歳やそこらの女の子が言うことのないものだった。いや、俺だって言わない。
初めて目の前の女の子に違和感をおぼえた瞬間だった。
「……冗談だよ。そんなことできないだろうし、無駄だもの。やっぱり――」
もう一度念を押し、夜空を見上げた時、彼女の表情は一変した。
「――戸惑っている、限りはね」
下へ向いた口端に見入る。だが一瞬もすれば、彼女の中の憂いは姿を隠した。
「ねえ、君」
「ん?」
声音がいつもより柔らかくなっていた自分に驚いた。女の子は最初のように、クスクスと笑う。
仕種の一つ一つが、まるで模造や模写でもしたように、美しかった。
「君、面白い人だね。名前は何て言うの?」
「レオン」
あえて名字は言わなかった。「お前は? 名前、何て言うんだ」
そう返すと、彼女は面食らって目を瞬かせる。そっか、と呟いていたが俺には何のことかわからない。
「……そんなことも……。名前はね……名前は……」
眉根を寄せて言い淀むこの女の子は、それでも綺麗な笑顔をしていた。

すると突然、静寂が打ち切られた。空中庭園の唯一の出入り口が破裂しそうな音をたてて開かれるなり、
「アルバート様!」
老齢の女性が叫び声で歩み寄ってくる。
 アルバートとは、確か今回の宴の主役の名前だった。
ということは――まずい、ここの家の人間だ。
見つかってしまった。
「またこんなところにいらしたんですね。会場にお戻りください」 女性は、どうやら俺の右隣に座る女の子を真っ直ぐに見据えているようだった。
「え……でも……」
思わず呟きが口に出る。またほぼ同時に、
「見つかっちゃった」
その右隣の女の子は、塀を飛び降りた。華奢な肩を置いた召使いの大きな手が掴む。
「また変装なんかして……こんなものどこで買ったんですか」
「買わなくても勝手に買ってくれるんだもの。誰がくれたかは忘れたけど」
有無を言わさず召使いの女が、その子のドレスの裾を上げる。
本来だったら目を逸らすところだが、俺はその様子を半ば信じられない気持ちで観察した。
上げた裾をそのままにして、ドレスが丸ごと脱がされる。年齢相応に細いながらもしっかりとした、筋肉の見てとれる体、下着は男物。
口が開いた。あんぐりと。そして塀から落ちそうになった。
そんな俺の様子を、一度だけ女性がチラリと目していた。
ばたばたと迫る足音。増援がやって来た。
「アルバート様、ああ、ようやく見つかった」
「またそんな格好を! 会場のテーブルの下に正装が脱ぎ捨ててあると思ったら」
「うん、ご苦労様だね。大人数で」
彼女……彼、アルバートはピンクのドレスから黒のタキシードに着替えさせられていく。
彼のウェーブがかった髪にブラシをかけている男の手はどこか忌々しそうだった。
何もしていないアルバートは、ただ口許に微笑をたたえていた。
「ところで……あの少年は?」
従者の一人が俺を指す。ぎくりと体が強張った。
「ああ。彼も会場へ連れて帰ってあげてよ」
彼は何でもないという調子で答えた。彼らもそれ以上の追及はしない。
胸を撫で下ろす反面、急に、見慣れた貴族の光景が途方もなく色あせて見えた。
そして何とはなしにアルバートの横顔を見て、あることに気付き――ぞっとした。
「お爺様がまた怒っておいでですよ」
「そうだね。目に浮かぶよ」
「もう十一にもなるんですから、少しは自覚を持ってくださらないと」
「気をつけるね」

彼の目は少しも笑っていなかった。
薄灰色をしているはずの瞳も、まるで漆黒のもののように一切の光の反射を許していない。
ひどく冷たい色だった。
目は口ほどにものを言い、「みんな消してしまおうか」と見るものすべてに問うていた。
あの時、あの時は子供らしく無邪気に笑っていたのに。


――空中庭園で俺は、それこそ無我夢中で目の前に翻る女の子の姿を追った。
彼女は本当に蝶のように軽やかな動きで、こちらを振り返り微笑んで誘惑してくる。
たかが小さな女の子なのに、蝶のような動きに翻弄されて、どうしても彼女を捕まえることができなかった。
あと少しというところでひらりと交わす。ひらひらとしているのに、捕まらない。
庭園の中を走り回る光景は、ひょっとしたら他愛ない遊戯に見えているのかもしれない。
だが俺は既に本気だった。そして本気で焦れていた。
ちくしょう、絶対に、捕まえてやる。
沸いた頭の中身は、それで一杯だった。
女の子の影が、またひらりとバラの木に隠れる。追うフリをして俺は、そのバラの木の傍でじっと息をひそめた。
荒い息が聞こえる。俺の音だ。
それまで追いかけっこをしていた時と比べ物にならないほど長い沈黙が続いていた。
自分が獣にでもなったような錯覚をおぼえる。むしろ楽しかった。

ついに、バラの木から気配が戻ってきた。
冷たくなりはじめた体が一気に熱を取り戻す。心臓が早鐘のように鳴り響いた。聞こえやしないかと心配したほどだ。
無垢な蝶の体が無防備に現れたその瞬間を、獣が見逃すこともない。
さすがに笑顔が消えてぎょっとする彼女の体に、思い切り飛び掛った瞬間――、
女の子は、俺の腕の中で心底楽しそうに笑い出した。
妙に大人びた言葉を発する余裕もなく、ケタケタと身をよじって無邪気に笑っている。
その姿を見て、俺は目が覚めた。
妖艶な少女が初めて見せる、年相応の無邪気さに毒気を抜かれた。俺は一体何をしていたのやら。
それからはしばらく彼女の脇や首をくすぐったり、今度は俺が鬼になったりして疲れるまで二人で遊んだ。


あの姿は幻影だったのかと思うくらいに、今の表情は子供と思えないほど冷たい。
そんな彼と目が合った。その目に問われる。答えを、考える。
「第一」
もうほとんど着替え終えたアルバートが少し大きな声を出した。
「第一、貴族なんて括りで目立ったところで自慢にもならない」
そしてつい、と目を逸らし、二度とこちらを見ることなく戸惑い顔の従者に付き添われて出て行った。


人生はほどほどに生きろと、父に口を酸っぱくして教えられ続けてきた。昔から俺は冴えない四男坊だったし、今もそのままだ。
あの誕生パーティからおよそ一年後、中等学校を卒業するまでの間、俺はよく図書室に通うようになった。
目的は過去の新聞を漁ること。内容は、セルバシュタイン家の一人息子のことについてだ。
確かに今まで知らなかったことが不思議なくらい、アルバートという名前は頻繁に紙面に載っていた。
三歳から五年間、祖父である当主から受けた軍事教育。九歳にして挙げた陸軍での異例の戦績。
自国兵を五百名救出し、敵国兵を殲滅……
「勝利の天使舞い降りる」だなどという踊りをつけた記事まであったほどだ。
毎朝届けられる新聞にも目を通すようになり、ダン兄さんの目も少し優しくなった。
つい一ヶ月前はアルバートが新聞のインタビューに答えていたが、とても十一歳とは思えないほど
――まあ、十六歳とは思えないほど垢抜けた子だこと――
流暢に明晰に記者の質問に答えていた。
十一歳。十一歳にしては、天才だからって、あんまりにも異質すぎやしないだろうか。
無邪気に笑うことだってできる子供のはずなのに。

中等学校を卒業してからは、父に商業系の専門教育をすすめられた。
三男のダン兄さんと同じ学校で、兄さんはトップ圏の成績だという。

「お前、そんな所へ入って続くと思うのか? 分不相応なことはやめておきなさい。お前は私に似ているんだから」
父の反対や、
「結局力に頼るような所へ行くんだな。思い知って来ればいい」 ダン兄さんの追放宣言、
「お前が行きたいなら行けよ。本気なんだろ?」
ハビィ兄さんの激励などを受けながらも、俺は陸軍学校へ入ることにした。






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