屋上の案山子、息絶えたドナ。いずれも私の平穏を根幹から覆す衝撃であったのは間違いない。
それでも、私はなんとか平常心でいられた。案山子は誰であったのかもわからなかったのだし、仲間を失うことには慣れていたからだ。
玄関のある壁を伝って角を曲がる。それだけで、音の正体はすぐに姿を現した。
立ちすくむ私の背後でいくつかの足音が聞こえる。そして息を呑む音も。
「ようやく揃ったよ。負け犬さん」
対峙するのは、二人の男。
髪に、背中に飛び散ったガラスの破片を払うこともせず、こちらに背を向けて立ち上がるのはルイスだった。暗緑色の服が色濃くなるほどしとどに血に濡れている。
呼びかけられた男が、唸りをあげて後ずさる。それはおよそ人間のものとも思えない原始的な音だった。
盾代わりに構えているのは、彼らの間に散らばる兵士たちの屍、その一つだ。首を一閃されたその傷には見覚えがある。
ついさっき……見た切り口だ。
(あれは、誰だ?)
その手に持つナイフで兵士たちを殺しただろう男は、突如現れた私たちなど視界にも入っていないようだった。鋭い目で睨みつけているのはルイスその人だ。
歯をむき出して、かざした骸の影から威嚇する姿だけを見れば、正気を保っているとはとても思えない様子だ。
私はあの男に見覚えがある。だが、記憶の中にいる彼が、あの男であるはずがなかった。
「グエンさん……」
背後で小さく呟くのはマギーだ。あまりにもか細く、自分の言葉にさえ疑念を含ませる彼女の声は、しかしあの男にも届いたらしい。
視線が用心深くルイスから外される。私たち乱入者の一団を認めた彼はそこで、切れ長の目を見開いた。
理性をなくした獰猛な眼差しが消え、代わりに覗くのは怯えに似た目つき。吐息とともに口から漏れ出す呻きは、泣き声にさえ似ていた。
そこでようやく、あまりにも遅く、私はその男が旧友であったと確信した。

「ああ、レオン。君が銃を抜く必要はないよ」
こちらを見ていないにもかかわらず、ルイスが声をあげてサンディオを制した。彼は確かに私のそばへ並び、用心深く腰元の武器へ手を伸ばしているところだった。
ルイスの発言に、サンディオはびくりと体を揺らして動きを止め、グエンは再度ルイスを見遣る。
対して私は、なぜ上司であるはずのサンディオにルイスは馴れ馴れしいまでの口調で接しているのかがひどく気になった。
「銃を使うことはないし――それにね。そろそろ、彼に銃は効かなくなる」
不可解な言葉にサンディオは、なぜだとは問わなかった。本来ならば規律に反した口調に反発する様子も見られない。
構えを解き、警戒しつつも腕を組む。この場で自分は傍観者になりきるのだと、彼は態度で表明してみせた。

血の池を作り、力なく横たわる数人の兵士たち。
首を切られて絶命した兵士を盾に、鮮血を滴らせたナイフを構えたグエンは、サンディオや……後々、恐らく彼の背後から来るであろう応援を怖れる様子もなく、ただひたむきにルイスを見つめている。
「そうでしょう? ねえ、グエン。憎しみのあまり、自分の国まで裏切った負け犬さん」
一目見ても何度見ても、グエンが彼ら兵士を手にかけたのは明らかだった。
「……」
「全部、何もかも、君のせいだよ。かわいそうな人。でも、施設の人たちはもっとかわいそうだね。君を信じてたのに」
もしかすると、いや、もしかしなくとも、住民を閉じ込めて施設に火を放ったのもグエンによるものなのだろう。
実際、こちらの存在に気付く前の彼の姿は、かつて私が友だと思っていたグエン・ヨウニとはかけ離れいていた。
形こそグエンだが、あの唸り声や息遣い、すべてがグエンではなかった。ともすると人間のものとさえ思えなかった。
あの姿だけを見ていれば、あるいは私も疑いようもなく、この惨劇が彼の仕業であると断言ができただろう。
だが違う。底冷えする悲しみ以外だけでなく、確かな違和感もまた私の胸にしつこくまとわり付いてくる。
「異常者。悪魔。化け物。君こそがそう言われるべきだよ。君は正しく邪悪な存在だ。君のせいで皆、皆死んだ――」
なぜ、ルイスはあそこまで血に濡れているのか。救助しようとしてついたにしては、あまりに夥しい量の血を被っているではないか。
この猟奇事件を全てこなしたとするならば、その常軌を逸した異常者が、なぜああも……優男のルイスに怯えているのか。
何もかもがそぐわない。その中心にいるのは、
「――君だよ」
思案を続けている私の耳に、ぞっとするほど高揚した声が入る。同時にひどく粘ついた視線が突き刺さった。
声と視線は、流れ続ける兵士の血に腕を汚し、小動物のように怯えるグエンを見ていた私だけに向けられていた。
グエンが、隣のサンディオが、背後のキャスとマギーが。全員が私に注目する。
背中がぞわりと総毛立った。
「君だよ。レンツ」
再度、猫なで声が私を呼ぶ。
それまでの一方的な会話を打ち切る呼びかけは、まるで、私の考えをすべて読んでいるかのようだった。
(違う、彼にそんなことができるわけがない)
(彼は私ではないのだから)
……遠くの方で、喧騒が、視える。軍の応援が林を突っ切り、施設に向かっているようだった。
ルイスの方へ目を向けることを忌避し、左手の林へ目を滑らせる私。正しくは林ではなく、その向こう側なのだが――
――もっと不可解なことに、ルイスもまた私と同じものを見ているかのように目を細めていた。
「教えてあげる。すべての顛末を。大丈夫だよ、応援が来るまではグエンも、あの男も、君に手出しはしないだろうから」
そぐわない会話。綻びと言うにはあまりに多すぎる、不可解な単語。
グエンからの殺意を全身に受けている男が、無防備にも振り返って私に微笑みかけてくる。
髪を下ろし、額から顎までべったりと血で覆われた彼の笑みはやはり絵画のように完璧なものだった。

今にも音を立てて切れそうな空気などものともせず、公園で雑談でもするかのような気軽さで、ルイスは楽しそうに喋り始める。
「彼はね、敵国の軍人だったんだ。それも諜報部のね。十年前、彼は若すぎる部隊長として国境を越え、この国に侵入してきた」
当のグエンは、制止するでもなくルイスに襲い掛かるでもなく、微動だにせず彼を見つめている。その表情にはどこか苦渋が浮かんでいるようにも見えた。
そして私は、聞くしかなかった。
「面白いよね。何年経っても、数世紀経っても、人は同じ肌の色で群がりたがる。諜報部って言うから僕は期待していたんだよ、どんな手で彼らは侵入してくるのか――
 ――世の中にはいろんな人がいるでしょう? ただそこにいるだけで目立つ人もいれば、どんなに派手でも目立たない人だっている。
 だけれど僕は、正直がっかりしたよ。彼らの国の中では、確かに彼らの部隊は僕たちに似た顔立ちだった。でもとてもとても、溶け込めるほどじゃないんだもの」
隣のサンディオが眉をひそめ、ルイスの発言に疑念を抱く。散見される不可解な言葉はますます増えていた。
不可解、と称するのは間違いなのかもしれない。なぜなら私は、一方で……「その通りだ」と、ルイスの意見に同意していたのだ。
いずれにしろ私の顔に張り付くのは、吐き気に似た嫌悪の表情。
聞きたくない、見たくもない、ここから逃げ出したい。彼の声も、不可解なせりふも、それに同意する不可解な私もすべてすべて、何もかも。
ルイスがうっそりと笑う。視線が、呪いのように私を射竦める。
「いやだな。別に僕だって、あの時に狙ってやったわけじゃないんだよ。七年前に彼を見るまで、哀れな敵国兵士の生き残りなんて覚えてもいなかったしね。
 仕事だから仕方ないんだ、戦争だから、仕方なかった。ねえグエン?」
誰も何も発言していないにもかかわらず、ルイスはさも会話しているかのように言葉を継ぐ。語る内容はどんどん要領を得なくなっていた。
ふいに向き直るルイスを認めるなり、グエンは息を呑んで後ずさる。先ごろルイスの形容していた「負け犬」という単語にふさわしい、怯えた目で。
「君は、僕に感謝したっていいくらいなんだよ。確かに僕は、結果的に君の仲間をみんな殺してしまったけれど――君は生かしてあげたでしょう?」
しかし問いかけられた瞬間、死にかけたグエンの目にわずかな火が点る。それは激昂し、ルイスに飛び掛るには足りない小さな種火でしかなかったが。
十年前となれば、私ですら二十歳を少し過ぎた頃だ。二十歳になっているかどうかも怪しいルイスは、ともすれば十にさえ届いていないはずだ。
(――要らないんなら、もらってあげる――)
脳裏に蘇るのは、長い黒髪をたなびかせる可憐な少女。七年前、戦場の跡地に突如現れた、あまりに不似合いな少女の姿だ。
あの少女が来てからではなかっただろうか。激戦を繰り広げていた戦場が……急に静かになったのは。
「僕は少しだけ、後悔していたんだよ。あの時、僕は誰も殺してなかった。だけど、君だけはきちんと殺すべきだった、ってね。
 半分だけ生き延びた君は仲間を捨てて川に飛び込んだ。後は、レンツも知っているでしょう?」
ルイスの言葉に呼応して次に閃くのは、瀕死の状態で川辺に打ち上げられたグエンの姿だ。
そう、私が彼を見つけた時――彼は瀕死だった。獣にしては綺麗すぎる、人にしては残酷すぎる傷跡は、今なお彼の体を縦横無尽に走っていた。
七年前、十年前。飛び火する記憶。なぜルイスはそれらを知っているのだろう。
いや。
私はもう、答えを見つけている。







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