「やさしい羽ばたき」




 鉄の錆の突き刺すような臭いが、私をいつも眠りから呼び覚ます。重い頭を持ち上げ数回目を瞬かせた。
 排泄物が水に混じった独特の臭い。漂う体臭。乾いた穀物が風化した臭い。
 馴染みすぎて当たり前だった。それでも私は毎朝起きると必ず、深く息を吸い込んで染み付いた臭いの数々を感じている。
 あるいは、深く息を吐くための習慣なのかもしれない。
「あら。起きたの」
 隣の檻に収められた彼女が、まだ頭のまどろんでいる私に声をかけてきた。けたたましい声が四方から断続的に聞こえる中でも、彼女の声はいつでもはっきりと聞こえてくる。
 だって檻と檻の間に、隙間などないのだから。
 乾いた排泄物のこびりついた床は同じく鉄製の格子でできていた。彼女はその上に躊躇なく座っていた。もちろん私も、さっきまでは自分の出したものの上で寝ていた。
「毎日毎日、よくそんなに眠れるものね。このお祭り騒ぎは耳に入らないわけ?」
 彼女は軽く体を揺らし、それから首でぐるりと周囲を指し示した。いい加減に見飽きた風景でも、私はそれにならって目を向ける。
 檻、檻、檻。檻が縦横無尽に走っている。体を動かせないほど狭い檻には、隙間なく『私たち』が敷き詰められている。
 狂ったように暴れる、力なく座り込む、理性のない叫びをもらす、意味のない言葉を囁き続ける――彼女たち。
 彼女たちは、日の入らない広く閉塞的な部屋で殊更狂おしげに見えた。
 檻や床や部屋の隅に網を張った蜘蛛も彼女たち、いや私たちに怯え、同じ場所で何度も何度も濃い巣を作り生きているようだった。
 私の隣の彼女が、私の顔を見るなり呆れて目を見張った。
「あらあら、そんな調子だと今に連れて行かれるわよ」
 私は今、どんな調子なのだろう。彼女の言葉の意味は理解できなかったが、私は知っていた。
 連れて行かれる、その言葉がなんであるのかと、連れて行かれるのがどんな者であるか――。
 ふいに、下半身に違和感を覚えた。
 腹の中が石を詰められているように重い。私が気付くのを待ち構えていたその重石は、ゆっくりと腹の下部へ沈んでいった。
 外へ出ようとしていた。
 私は浅く息を吐き続けた。苦痛。けれどこの苦痛は初めてではない。
 私という自我が目覚めてから幾度となく繰り返されてきたものだった。初めはもっと痛かったかもしれない。
 今はもう、鈍い緩やかな痛みがあるだけだ。なくなってしまえば楽になれることも知っていた。
 降りてくる。内臓を通って排泄される。この物体が何なのか、私は昔から答えを知っているような気がしていた。
 それが排泄された瞬間、私は思わず声をあげた。
 かこん、と音がして、産み出された物体は檻の下にあるレールに沿って転がり落ちていった。
 私がよく知っているはずの物体は、私に姿を見せることもなくいつも檻から出て行ってしまう。
 産み出した私を置いて、行ってしまう。
 今度は深く息を吐いた。大きなものを排泄した器官が、ひりひりと痺れている。
 しばらく顔を体にうずめ、違和感が小さくなるのを待った。
 そうして私が顔をあげると、彼女は少しうらやましそうな、それでいて蔑むような表情でこちらを見つめていた。
「よくもまあ毎日毎日、そんなことを繰り返せるものねえ」
 彼女は窮屈そうに体を揺らした。
 繰り返せるわけではなかった。繰り返させられるのだから。別に私は、私たちは、したくてしているわけではない。
 彼女だって、毎日毎日こんなことを繰り返しているはずだ。
 本当なら。
「あたしは痛いことが嫌いなの。だからやめちゃったわ」
 彼女はそう言ったが、私は彼女の言うことがまったく理解できなかった。そんなことができるはずはなかった。
 なぜなら、お腹が空くのと同様に、食べれば排泄するのと同様に、夜になり暗くなれば眠くなるのと同様に、毎朝のこの排泄に近い作業は私の意志など関係なしに訪れるものだからだ。
 彼女は自らそれをやめたと言った。
 けれど、それは不可能だ。
 私の考えを見透かしたのか、彼女は喉の奥でくつくつ笑いを洩らした。
「あんたも所詮は、ここにいるバカたちと一緒なのね。この檻にいる奴らみぃんな同じことをするばっかり。鳴くか、食べるか、眠るか、生むか」
 喧騒の合間、からん、からんと音が混じった。檻の中の誰かが私と同じように、毎日の作業を終えたのだろう。
 彼女だって起きた直後にこの作業を終えているはずだ。
「いいえ」
 各々の檻の前に置かれた水入れに入っている、白濁した水を軽く掬い上げながら彼女は私の思いを消し払った。
「望めば誰だって何だってできるのよ。あたしが望むのは、何もしないこと。それがたとえ生理現象でも」
 私は知っていた。彼女は私がここで最初に目覚めた時から隣の檻にいたが、少なくとも昔は、ここにいる皆と同じように彼女も毎朝あれを産み落としていたはずだった。
 彼女はみずからそれをやめてしまったのだろうか。やめられたのだろうか。
 あの作業をやめてしまう。それはつまり――。
「若いあんたに、あたしが理解できるなんて思っちゃいないわ」
 不可解な顔がつい出てしまったのだろう、彼女はまたも私の考えを見透かして鼻を鳴らした。
 彼女の目は蔑んでいるようでもあったが、憂えた色の方が強く浮かんでいて、私は彼女の嘲りに怒ることもできなかった。

 突然、ガラガラと何か重いものを引きずったような音が部屋中に轟いた。
 檻の中にいる全員が色めき立って騒いだが、これも別にハプニングなわけではない。 私は、ここにやって来てからそれなりに長くいる。
 私と同じ時期にやって来た女の子が病気になり連れて行かれるのも何度か見てきた。私よりあとに、私よりいくらか幼い顔の女の子たちがこの檻の仲間入りをしたのも数回見てきた。
 そう、私は隣の彼女ほど古株ではないけれど、来て間もないわけでもない。
 それなりに長い月日をここで過ごした。だから確信をもって言える。
 ここでは、起きることに予定外など、ない。
「あら、今日もお出ましなのね」
 床に白い影がさし、宙を舞うおびただしい埃がキラキラとちらついた。右手から強い光がさしこんできたためだ。
 私は毎日のことでも、思わず身をすくめてしまう。他の檻では、右隣の者に遮られてそこまでまぶしくはないのかもしれない。
 私の檻は、右手だけ視界がよく開けていた。その視界に、光の源から長細いシルエットがいくつかと、見たこともない鮮やかな色をした景色が広がっている。
 私はその景色に魅入っている暇もなく、光の中の影に意識を集中しなければならなかった。いや、私だけでなく檻の中にいる全員が、その影に全神経を注いでいるようだった。

 「彼ら」が来た。



BACK / NEXT





NOVEL-TOP HOME