長細いシルエットはやがて、実体をもった姿に膨らんでいく。
 彼らの中の一人は手に朽ちかけたバケツを持ち、一人は麻袋の積まれた滑車を押していた。
 最後の一人は灰色の平らな皿のようなものを何個も積み重ね、やはり滑車に載せていた。
 彼らは入り口に入るとすぐに左折し、私たちの後ろの列から彼らの作業を始める。
 すなわち、私たちひとりひとりの顔をまんべんなくじっと見つめながら、私たちひとりひとりが生み出した物体を灰色の皿に並べていく。
 檻の前に長く長く、私の檻から向こうの檻まで伸びた二つの箱に、それぞれ乾いた餌と水を入れていく。
 この作業は荒っぽく、乾いた餌が散って水に入り濁るとか、逆に水が飛び散って餌が湿気るとか、そんなことを気にすることはないようだった。
 後方のあちこちから狂喜の雄叫びが聞こえてきた。私の隣、あの彼女は露骨に耳を塞いで眉に皺を寄せた。
「うるさいったらありゃしない! 毎日毎日バカみたいに騒ぎやがって、このバカどもめ!」
 お前らに誇りはないのかとでも言いたげに、彼女は痩せぎすの体を怒らせた。「彼ら」が檻の前を通りずきた時などは、今にも噛みつかんばかりに構えていたほどだ。
 私には理解できなかったが、彼女の怒りは本物のようだった。
 彼女の前まで餌がやって来た時は、羽ばたきの風で何もかもすべて消し去ろうとしているようにさえ見えた。
 私は餌をちまちまとつまみながら、「彼ら」を眺めた。

 私たちとは明らかに違う容貌。まず、大きさからして、私たちの10倍はあるだろう。
 ただ、私は積み重なった檻の一番上にいるので、私と「彼ら」との目線はほぼ同じだ。特にあの物体を回収する一人は「彼ら」の中で一番小さく、私の位置だと見下ろす形になった。
 からだつきもまるきり違う。私たちはみな、真っ白でやわらかい毛をもったからだ、そして細い足をしていた。
 「彼ら」は縦長の生き物で、太った者は限りなく太く、痩せた者は骨が見えるほどに細かった。
 体は薄汚れていて、皮膚に毛がないかわりにくすんだ青色をした薄い皮のようなものを身につけていた。
 顔もまったく違った。
 「彼ら」の顔は私たちの細い顎をもたず、目も鼻も口も顎も、すべて平たい板に並べられ、しかもそのパーツがどれも大きかった。
 肉色をした大きな口が開いて、何事かを喋っているさまは美しさとはかけ離れた存在に見えた。
 私たちは檻の中で、水に入ることもなければ充分な手入れもできないけれど、私たちの体はいつだってくすみのない白色をしている。
 「彼ら」の体が汚れにまみれているのは、その臭いでわかった。
 「彼ら」がお互いの顔を見ながら、あるいは空になった麻袋を取り替えながら、抑揚のない声でやり取りしているのを私はいつもぼんやりと眺めていた。
 当然ながら「彼ら」の言葉は私たちには通じなかった。その逆でも同じことが言えた。
 「彼ら」は何か喋り合っていた。時折檻の中を覗き、時折檻にいる誰かを掴みだし眺め回し、それから檻に戻された。時にはどこかへ連れて行かれることもある。
 彼女が言っていた「連れて行かれる」とはこのことなのだと、私は昔から知っていた。
 けれど、どこへ連れて行かれるのかは今も知らない。考える必要があるかもわからない。
 「彼ら」の中の一人、いつも餌を蒔いている背の高い一人が、私の顔をじっと見据えた。
 私の頭ほどもある大きな目がこちらを凝視してくるのは、決して気持ちのいいものではない。
 場所もないのに私は自然と檻の隅まで後退した。
 けれど私の怯えを知る由もないのか、ほどなくして「彼」はついと目を逸らし、そのまま横滑りに彼女へ視線を合わせた。
 対する彼女は、不敵な笑みさえ浮かべて二つの巨大な目を睨み返した。「彼」は不躾に彼女の体を眺め回したが、彼女は怯む様子もなく、
「こっちへおいでなさいよ。あたしを掴み回してごらん、さあ、そろそろ頃合だ。この薄汚い檻を開けな」
 「彼ら」には聞こえるはずもない挑発をくりだした。
 「彼」はそれでもしばらく彼女の体を舐めるように見つめていた。
 その様は、なんとも言えないおぞましさを与え、私はわけもわからず胸の鼓動を速めながら彼女のいる檻へ手を伸ばそうとした。
 私が言おうとしたのは、なんという言葉だったのだろう。何かを言おうと口を開いた瞬間に、耳障りな金属の軋みが耳へ滑り込んできた。
 そして私は結局何を言うべきだったかも忘れてしまった。
 彼女の檻が開かれ、巨大なてのひらが二つ、彼女の体を包み込んだ。
 彼女は手をばたつかせて暴れようとしたけれど、腕さえ封じられていたのでは何もできるはずがなかった。
「乱暴にしないでよね、ちょっと、痛いじゃないの」
 この状況でも、彼女のせりふは冗談めいて聞こえた。大きなてのひらが彼女を檻から出し、首や腹や手足を撫で回し、そして見ていた。
 喧噪が遠くから聞こえるようだった。音のない私の恐怖を代弁するかのように、檻の中の「私たち」がけたたましく叫んでいた。

 たとえ性格が違っても、容姿が変わっていても、檻の中にいればすべてが私であり、全員でもある。
 これは彼女ではなく私だ。遠いか近いかはわからなくとも、必ず訪れる、いつかの私が今ここに見えているだけだ。
 「私たち」の恐怖の叫びは、けれど、「彼ら」に届くことはない。それが恐怖であるかさえもわかるはずはないのだから。
 彼女を掴んでいた一人が、あの小さな、いつも私たちの生み出したものを運んでいる一人を呼んだ。
 今度は他の三人より皺くちゃの「彼」が彼女を掴み、また彼女の体を撫で回し観察し始めた。
「     」
「   」
「        」
 何を、一体何を喋っているのだろう。私は体を檻に食い込ませた。
 もっと近くで聞けば、わかるかもしれないとでも思ったのだろうか。
 わからない。
 ただ、檻が肉に食い込む痛みを感じても私は更に更に身を乗り出した。
 彼女を返して。
 連れて行かないで。
 私は確かにそう叫びながら、心のどこかではそう叫ぶ自分が不思議でたまらなかった。
 これまで私は、たくさんの「私」が連れて行かれるのを見てきた。
 ただ、見てきた。
 次はどんな子が空いた檻に入れられるのだろうとか、あの子はどうなってしまうのだろうとか、そんなことすらも考えはしなかった。
 ならどうして、今の私は彼女を奪われたくないと一心に願うのだろう。彼女が私の唯一の隣人だったから?
 私は叫びながら、痛んだことのない心臓が痛み、いつも静かだった脈が弾けそうなほど激しく体を巡っていることに気付いた。
 ――私は病気なのか。
 そう思った私の中には、彼女を連れていく恐怖とは別の気持ちがあった。
 それはおそらく喜びに近い。私を、私を彼女と一緒に連れて行きなさい。彼女を連れていくのなら、……。
 私を連れて行けと叫んだ私の顔を、「彼ら」以外の全員が振り返って見つめた。
 彼女までもが一瞬暴れるのをやめ、目を見開かせた。彼女のその様子を見た私の中に別段、驚きはなかった。
 私は何を言っているのだろう。私はなぜこんなことを言っているのだろう。
 彼女はただの隣人。
 それ以外に、他の子たちと何の違いがあるだろう。
 私が叫ぶことで、彼女が助かるのか? 助かるわけがない。それで助かるのなら、これまで連れて行かれた子の半分以上は今もここにいるはずだ。
 なぜだろう、なぜだろう。
 私は叫びながら必死に探していた。



BACK / NEXT





NOVEL-TOP HOME