「馬鹿じゃないの」
その時耳に届いたのは、彼女の声にほかならなかった。
私を見つめることに飽きた周囲の叫び声が渦のようにうねりながら私の鼓膜を押し寄せていたけれど、彼女の声は確かに、他の何よりもはっきりと聞こえた。
彼女はあの自信に満ちた笑みを浮かべていた。
「今になって気付くのね。あたしがどれだけ教えても気付きやしなかったのに」
どういう意味かわからない。わからないから、教えてほしかった。
隣にいて、教えてと私は叫んだけれど、彼女は微笑んだまま扉の向こうへ消えていった。
残りの「彼ら」も扉の向こうへ去っていく。私は体を檻により強く押しつけた。そうすればここから出られるかも、しれない。
(出られるわけがないでしょう?)
彼女はたぶんそう言ってまた私を馬鹿だと罵るのだろうか、――数分も経たないうちに、耳障りな音を立てて扉はここから光を追い出した。
彼女が入っていた檻には、すぐに新しい子がやってきた。
その子は私よりずっと幼く、まだ細い肢体をいつも震わせて所在なさげに辺りを見回していた。
自分がどこから生まれたかを考える暇もないまま、誰もがこの檻に入れられてきたのだから、不安は誰しも抱くものだろう。
私はその子と言葉を交わさない。あの日から、私になかったはずの心から、確かに何かが抜け落ちてしまった。
だから私はただ、その若い隣人を横目で見ていた。
――何を不安がることがあるの?
私は心の中で、その子に尋ねる。
ここがどこかわからないの、と、想像の中でその子は答える。
そうすると私は、ここは私とあなたが、たくさんの「私」や「あなた」がいるところ。それだけ。そう話す。
どうしてここにいるの?
それを知ることに、一体何の意味があるのかしら。
これからどうなるの?
生き物はいずれ死ぬものよ。
「どうしてそんなに寂しそうなの?」
え、と声が洩れた。想像の中で、その子は私の想像外の質問をしたからだ。
少し考えて、私は想像を振り払って隣の檻を見た。泣きすぎた赤い目が、こちらをじっと見ていた。
当惑した私の表情を察してか、若い隣人が言葉を続ける。
「あのね、あたしも寂しいの。なんでかはよくわからないけど、とっても寂しい。ここのみんなは、みんな、寂しそう。だけど、お姉ちゃんが一番寂しそうに見えるよ」
寂しい。
私はその言葉を反芻した。深く深く、反芻した。
寂しいとは、なんだろう。
私の心、マイナスになった心を思い描いてみた。そこには、何もない。最初からすでになかったのだから。
寂しいかはわからない。寂しいということがわからないから。
私がそう言うと、その子は首を傾げた。
「どうして?」
何がどうして、なんだろう。
「だって、寂しそうだよ。あたしも寂しいけど、お姉ちゃんはどうしてそんなに寂しいの?」
繋がらない会話に軽い目眩をおぼえながらも、私の脳裏には考えるより先にある光景がよぎった。
――連れ出された時のそれではなく、ただぼんやりと生きていた私に話しかける、彼女の姿。
何も知らない私をからかい、不十分な知識を教えて理解できない私をあざ笑う、それでも楽しげにこちらを見ていた、彼女の眼差しを。
なぜここで彼女を思い出すのだろう。
彼女はただの隣人に過ぎなかった。
檻の端で暮らす私にとってたった一人の、唯一の隣人に、過ぎなかった。
(けれど、彼女はもういない)
新たな隣人は、惑う私の様子を不思議そうに見ていたが、私はそんなものを目に入れる暇がなかった。
そう、彼女はいない。
きっと……遠いところへ、私がどれほど願ってもたどり着けないところへ連れて行かれた。
(私はそんなにも願っているのかしら)
そこがどこなのか私は知らないけれど、薄ら寒い痺れがこみ上げてくる。
私は知らないけれど、知っている、そこを。そこが、それが何なのかを。
いつの間にか閉じていたまぶたを開くと、檻が見えた。自分の汚物がこびりついて、黒ずんだ綿毛が絡みついた檻。
汚れた檻にしがみついて、私は嗚咽をもらした。
唐突に心の中がいっぱいになったような、それとも中のものがこぼれていっているような、奇妙な感覚に襲われたからだった。
目から痛みのこもった涙があふれる。
私は今まで、涙とはさらさらと目から溢れるものだと思っていた。
毎朝排出するあれよりも痛い涙がこぼれては、檻の糞をふやかしていく。
寂しい。
寂しい。
彼女を失ってしまった。
私の、唯一の隣人、これまで生きてきた中でたった一人だった隣人をなくしてしまった。
「よしよし、いいこ」
新たな隣人は、これまで聞いたこともない慈しみの声をかけながら、嗚咽をもらして泣く私の背中を撫でた。
檻から手を伸ばすこともできたのに、と私は思った。
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