彼女が何を考えていたのか、私は彼女を失い彼女の大切さを知ってからもわからなかった。
彼女はきっと、自分から連れ出されに行ったのだと思う。それがなぜなのか。
私をバカと行った彼女、檻のみんなをそれ以上に蔑んでいた彼女、確かに彼女は私やみんなとは何かが違っていた気がする。
それはなんだったのか。
私は寝ることも食べることも忘れ考えにふけった。やがて毎朝出るはずの、「彼ら」が大切そうにするあれがほとんど出なくなった。けれど私にはそんなことどうでもよかった。
若い隣人は最初こそ涙を流し、他人を慈しむ心を持っていた。
三日経てば泣くのをやめ、一週間もすればしだいに個性を失っていく。
今、横を確認すれば、ゆらゆら体を揺らして中空を眺める姿があるはずだ。他の檻のみんなも、だいたい無意味な動作をして暇を潰している。
たぶん、次第に会話も満足にできなくなるのだろう。
(私と彼女は会話をしていたように思う)
(最初の頃はよく覚えていないけれど)
(私と彼女……だけ、は……していた)
どれほど考えても頭の中の疑問は整理されそうになかった。むしろ、どんどん散らかって整理する場所すらなくなっている気さえした。
私は彼女のように賢くはない。そう言えば、彼女はきっと「バカはバカなのよ」と笑うだろう。
行き詰まりで没頭する私にちょうど声がかかったのは、いい気分転換だったのかもしれない。どちらに転んでも決して快い気分にはならないけれど。
「ねえ」
気だるそうな、呆けた顔をして隣人が言う。
「ごはんまだかなあ」
きっとこの子はもう、他人の寂しさに気遣いを見せることはないのだろう。
私が彼女以外のどんな存在も、いや……彼女でさえ気にかけてこなかったように。
毎日をただ生きる。唯一気にかけるとしたら、朝に「彼ら」の与えてくれる食事と水のことだけで、それさえもたいした興味ではなく、また「彼ら」が何者だろうと、たとえ私たちをここに押し込めた張本人であっても、心の中に浮かぶ感情はない。
それは私でもあった。
今の隣人は、まさしく私になろうとしていた。
「ちょっとね、お腹すいたんだ」
陶酔しているかに見える幼い隣人、けれど、瞳はうつろにどこかをさまよっている。
私は問いには答えなかった。答えても無駄なことを知っていた。
もしこの子がかつての私と同じなら、何を答えようと理解できない。何を答えようと、興味を示すはずはない。
――彼女は、そんな私に気付いていてなお、話しかけてきてくれていたのだろうか。
ご飯、ね。
私がぽつりともらすと、隣人は胡乱げに首を傾げた。
あなたは何のためにご飯を食べるのかしら。
(私は何のためにご飯を食べていたのかしら)
「何のために……?」飲み込めない調子で聞き返す。
鳴いて、食べて、眠って、産んで。ただそればかりじゃないの。
(それしかすることがなかった、と思っていた、いや)
「……」
隣人は私の話を理解できなかったようだった。薄汚れた体を軽く掻いて、そうしてすぐに忘れてしまう。
やがて思いついたように隣人が口を開いた。
「お姉ちゃんは、どうして食べないの?」
情景が重なる。これはまるで、あの日の光景のような――
私は答えようとした。
何と答えようとしたのかはわからないけれど、とにかく何か、思いつく言葉を発そうとした。
そこで重々しい扉の音が耳に入る。一気に色を強める、周囲の狂乱。隣人は……表情なく扉を見つめていた。
「彼ら」が来た。
そして私は直感した。
ざらざらと、檻の隅から隅まで餌を運ぶ一人。その巨大な瞳が檻の一つ一つを覗き込む。
けたたましい叫びをあげる瞬間だけは、みんな恐怖を覚えているのだろうか。
やがて私のことろへ来た。瞳がこちらをうかがい、顔を歪め、そして大声で何事かを叫ぶ。
そうするとあとの二人もやって来て、一様に私をじろじろ眺めた。
痩せ細った私の体、生むことのなくなったあれ、次に何が起きるのか。
あなたたちも知っているでしょう。
私は周囲へ言うともなく呟いた。この乱痴気の最中では聞こえるわけもないけれど、それは私自身、聞いてほしかったわけではなかったのかもしれない。
「彼ら」の太く毛のない腕が私の首を掴む。指先はひどく固くて、しっとりしていて、いやな臭いがした。
そのまま引きずり出され、体を余すところなく撫でまわされる。下腹部をまさぐられるとなんだか吐き気がしたが、私は抵抗しなかった。
――そういえば、あの子はこれが初めてだっただろうか。
またしても、今度は逆のかたちで、既に隣人でなくなった子へ目を向けると、不可解な状況に竦んでいるようだった。
無理もない。
檻の中へ均一に入れられた私たちには、同様の結末がいつか必ず訪れる。今の私は、幼いその子にさえわかりやすい、一つの例といえた。
怯え、すくみあがるその姿が、たとえ自分へつながることへの恐怖から来るものだとしても、私はなんだか嬉しかった。
もうすぐ私は遠くへ行ってしまうのに嬉しくなってしまった。
私も、その子に自分を重ねているのだろうか。
私は、彼女へ向けて、言った。
「こんなこと、辛くもなんともないのよ」
なぜそう言えたのかさえもわからない。どんな意味が込められているのか、私さえ知らない。けれど私は心からその言葉を贈った。
彼女が、彼女が緩やかに腕を伸ばす。檻の隙間から、私へ届くように手を伸ばす。
それは決して届くことはない。
開いた扉から、まぶしい光が溢れていた。
ああなんて、鮮やかなんだろう。目がとても痛い。
痛くて痛くてたまらないけれど、天井にどこまでも広がる青い空間や、茶色がかった緑の床、すべてがたまらなく……、生き生きとしている、と、思った。
生き生き、という言葉はなんだっただろう。
わからなくとも、私は心の底でその言葉を噛みしめていた。
なんて素晴らしいのだろう。
なんて鮮やかなのだろう。
私は、私たちは、なんて、なんて、なんて。
そして私は、青空の抜けきった夏の日、殺された。
知人のリクエストで書いた、養鶏場の鶏擬人化小説です。最後はやっつけな気がしなくもないです。
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