「水だよ。あっちは国土の半分以上が砂漠なんだ。だが隣のこの国には山もある、川もある、海さえある。
 それがあればもっと豊かになれるんだ。人が餓えて死ぬこともない。逆に言えば、ここを手に入れるまでは餓えて餓えて仕方がないってことだ」
私が直感したのと、グエンが答えを出したのは同じだった。
水、たったそれだけのために。
一瞬そう思ったが、
「水? そんな、そんなもののためだけに――」
「――なら聞くが、水を一切取らずに人は何日で生きていけると思う?」
逆に問われ、男は言葉に詰まり再び沈黙する。
「……三日。食べ物があっても、水がなければ人は三日で死ぬんだ。そもそも食べ物を育てるための水さえ満足にない。
 たとえばお前が貧しくて、腹が減って死にそうな時、隣の家からうまそうな匂いが漂ってきたらどうする? それを目の前で見せ付けられたら? お前はそれでも我慢するって言えるのか?」
畳み掛けるグエンに、もはや彼は反論することができないようだった。
「それだけのために、そう言えるのは恵まれているからこそだ。価格の高騰なんて、こんな値段で驚いてたらあっちに行ったら目が飛び出るぞ」
重みを伴ったグエンの言葉に、一同は何も言い出すことができず沈黙する。
いかに言われようとも、水のない生活というものを具体的に想像することができない。
その時点で私たちはどうしようもなく恵まれているのだから。
「……でも。でもさ」
呟くように沈黙を破ったのは、あの年若い青年だった。
「こんなに戦争を続けてたら、どっちの国も滅んでしまうじゃないか。どうして国王は、コースチン王は、ずっと戦争を続けるんだろう。話し合うことだってできたはずなのに」
青い言葉を連ねる彼に、今度こそグエンが嘲笑を見せた。
「話し合う? そんな段階、とっくの昔に終わってるんだよ。ちょっと考えればわかるだろう。うちの砂漠を半分あげるから、お前の森を半分よこせなんて言われて、納得する奴がいるのか?
 あの乞――国王が、お前たち国民がそれを望んだんだろう。それなのに忘れているとはね」
辛辣な言葉が容赦なく降り注ぐ。
彼は相変わらず気だるげに、皮肉めいた笑みを浮かべていたが、内心では怒りを覚えているのかもしれなかった。
今度こそ誰も喋らないのかと思われたが、
「……あたしたちは生まれてなかったんだから仕方ないじゃない。でも、でもね、国土を譲れなかったとしても、もっと別の方法があったはずよ。今からでもできるはずよ」
やはり年若い、二十代ほどであろう女性が言い募った。
グエンが「ほう」と面白げに彼女を促す。
「そう、例えば――例えば、国を合併して、同じ国にしてしまえばいい。そうしたらみんな同じ国の人になるから、戦争なんて――」
「――なくなると思うのか」
やれやれと頭を振るグエン。笑んでいたはずの顔は、彼女が喋っている間に嫌悪のそれへと変わっていった。
グエンは苛立たしげにフォークを置き、勢いよく袖をまくった。古傷にまみれた素肌が露わになり、何人かが目を背けるのがわかる。
「これがわかるか? 戦争でさんざん痛めつけられた痕だ。俺は何とも思っちゃいないが、誰もがそう思うとでも?
 ――この目を見ろ。この顔を見ろ」
グエンは身を乗り出して、人相の悪い顔を面々に見せつけた。
肌の色こそ同じだが、グエンの顔つきは私たちとはまるで違う。
一重のまぶた、やや堀の浅い顔。鼻は低く、面長だが輪郭もどこか丸い。茶色の髪も太くしなやかで、やたらと細い私たちのそれとは異なっている。
敵国から流れてきた男、グエンは、孤立したその顔立ちを強調させながら憤慨した。
「グエン、グエン・ヨウニ。名前も違う。顔だって違う。情けでこの国に入れてもらったらどうなる?
 俺たちは蔑まれるに決まってる。情けをかけたことを盾にされて、奴隷同然の扱いを受けろとでも言うのか」
今度こそ、誰も何も言えなかった。
グエンが最初に輪に入った時の彼らの目が、すでに全てを物語っていた。
施設の仲間は皆家族。そう掲げるドナとは違い、施設にいる者の大半は家族であるべきグエンに対し敵意を抱き、嫌悪の視線をよこしている。
彼はそんな周囲に同じく嫌悪の視線を投げ、怒りも白けたといったふうに無言で席を立った。


なぜ彼が、敵国の兵士だった男がこの施設にいるのかというと、実は私が拾ってきたからだった。
十年ほど前のことだ。川原で散歩していた私に、何か不可解なものが目に飛び込んできた。
砂漠色の、ぼろぼろになった軍服を纏ったグエンは、川に打ち上げられたらしくびしょ濡れだった。
重傷の男――それも敵国の兵士を目の当たりにしてさすがに私も仰天した。
しかし彼はそんな私に構わず、水なんて嫌いだ、腹が減ったなどとぶつくさ呟いていたのを今でも鮮明に覚えている。

そんな奇妙な縁があるせいか、私は最初から彼に対する嫌悪はあまりなかった。
だが拾った負い目もあるため施設の者を真っ向から非難することもできない。
実際、連れて帰った時には信じられないほど怒られたものだ。彼らの怒りは尤もだとも思う。
だが彼を施設に迎えると決めた時、そのような偏見を捨ててほしかったとも思う。
十年あまりが経った今でも、彼は孤立しているのだから。


グエンは不機嫌そうにこちらへ歩いてきた。
私がここにいることに気付いていたらしい。
「まったく、腫れ物扱いは嫌になる」
そう独りごちるグエン。腫れ物扱いというか、今回は彼も存分に白熱していたように思うのだが。
あるいは腫れ物扱いに辟易して、鬱憤を晴らしたのかもしれない。
どっかと隣に腰を下ろすグエン。
先ほどの彼の言いぶりからすれば私もまた憎まれてしかるべき対象のように思うのだが、今猛烈な勢いで食事を始める彼はいつも通りであるように見えた。
「ちょっとかき回しただけで神妙な顔しやがって。俺がそんな真面目なこと考えるわけないだろ」
……ちょっとかき回したという言葉には同意しかねる。
何を言うべきかわからず、私は彼のせりふに苦笑するしかない。
山盛りのサラダを頬張りながら、グエンは怪訝そうに片眉を上げた。
私が相も変わらず必要以上に寡黙である理由を早くも見抜き、
「お前なあ、いい加減メモ帳持ってこいよ。ただでさえ何考えてるのかわからないのに、そんな顔されてもわかるわけないだろ」
半ば呆れたように叱責され、釈然としないまでも小さくならざるを得なかった。さっきもアリアナに怒られたばかりだ。ついてない。
何を考えているかわからないのはグエンも同じではないか。あれだけ激しく暴れまわった後に平然と世間話を始める神経の方がどうかしている。
「……まあ、今に始まった話じゃないな」
それに、結局は私の行動も、仕方ないと笑ってくれるのだ。

彼はとっつきにくい印象を与えるが、実際は滅多に怒らない穏やかな男だ。幼い子どもたちも彼を好いている者は多い。
何事にも動じず飄々としている彼と、何も語らず内気な私のどこが合うのかはわからないが、私はグエンと一緒にいることがほとんどだった。
グエン、アリアナ、姉のアビィと、ドナ。それから幼い子どもたち。
私の世界はひどく狭かった。だが、それで満足していた。
施設の者たち全員と仲良くなろうだなどと思いはしない。街の者たちと交流を持っていなくとも構わない。
自分の手が足りなくなるような交友は最初から望んでいないのだ。
そんな高望み、私などがしていいはずもない。

すっかりいつもの調子を取り戻したグエンの他愛ない話に付き合った後、私は食堂を後にした。
通りすぎる子どもたちに笑いかけ、大人たちを横目に流し、階段をいくつも上っていく。
賑やかだった廊下も進むごとに人通りが減っていった。灯りもほとんどないような暗く狭い階段を更に上る。
そうして現れた突き当たり、錆び付いてぼろぼろになった古い扉を開けると、隙間から乾いた涼しい風が流れ私の頬を撫でた。
がらんとした屋上。月が優しく、無機質な床を照らしている。
手馴れたもので、私は扉のすぐ脇に下がっているランプを取り、マッチを取り出して火を灯した。
暖かな暖色の光を放つそれを確認した後、広い屋上の床を進む。
ふもとの街を一望する一端に腰掛けて、私はぼんやりと眼下に広がる景色を見下ろした。

日が沈み、点在する街灯に照らされて浮き上がる町並み。
それはまるでゆっくりと呼吸しまどろむ一つの巨大な生き物にも見えた。
時折現れる人影、揺らめく光もやがては静まりかえるのだろう。
ある意味幻想的な風景を何とはなしに眺め、そして視線をすべらせる。
生き物としては巨大だが、街はあまりにも小さい。いびつな街の線を超え、まばらに生える家々を超えて街を取り囲む不毛の地を見渡した。
瓦礫が点在する荒野。思い出したように緑が茂る斜面。ふもとにぽつんと置かれた、隣町への関所。
建物は光が灯り、あるいは沈黙していた。あとはただ真っ暗な影が広がっていた。
どうやら、今までと同じように不審な影は見当たらないようだった。

私はコミュニティがここへ定住しはじめてからというもの、一日も欠かさずこうやって夜の街を見下ろしていた。
火事はないか、諍いはないか、望まれざる来訪者の姿はないか。異変を監視し、街の平安を確認する。
人並み以上に役に立たない私。そんな私に唯一与えられているのがこの仕事だ。
仕事といっても給金が発生するでもなく、またしなかったからといって咎められることもないだろう。
山と荒野に挟まれた最果ての地にそうそう異常事態が発生するわけもない。事実、今までに起きた異変といえばボヤ騒ぎ程度しかなかった。
交代などもなく、はっきり言ってしまえば退屈な仕事。それでも私はこの時間が好きだった。
する必要がないとしても、何かしら役割を持っているということに安心もできる。
耳も聞こえない、料理ができるわけでもない、走っていても子どもに抜かれてしまうほどとろくさい。
あまりに人として劣っている私にしかできないものがある。
失った聴力の代わりに得た視力、たった一つにしてささやかな私の特技を生かすことができる。そう思えるのだ。
じっと遠くを見つめれば、地平線を遮る関門を抜けた先の山からぼんやりと薄明かりが見える。
山向こうにある、ここデントバリーと唯一つながりを持った街、ガウェナの明かりだった。
地方都市と呼ばれるそこはその名にふさわしく、今日も夜更かしをしているらしい。
それ以外は山も土も沈黙を守り、静かに眠りについていた。
腕時計を月明かりに照らす。まだまだ夜は長い。朝を迎えるまで眠気もない。
後ろに手をついて空を見上げながら、私はせめて飲む物でも持ってくればよかったと思った。





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