02:闖入者





日が昇ってくると同時に、私たちの一日は始まる。
空きっ腹をかかえて台所へ向かうと、既にドナが大鍋を火にかけていた。流し台のそばには二食分の朝食が湯気をたてている。
「お疲れ様」
彼女は施設に暮らす皆の食事を作っている。それが彼女の仕事だ。
スープの匂いに惹かれつつ、私は二人分の木椅子を引いて腰掛けた。ドナも大きな生色をした麻のエプロンをつけたまま、椅子に座りこむ。
古い椅子は彼女の重みに少したわんだ。
私はまず気になっていたスープを一口味わった。……熱い。熱いが、夜風に晒されて冷え切った体は喜んでいるようだ。とうもろこしの甘味がじわりと内側に溶けていく。
「毎晩毎晩、ほんとによくやるよ、あんたは。今日も平和だったかい?」
皿に山盛りした拳大のパンをちぎって食べるドナ。私は塩が振りかかっただけのサラダを頬張り頷いた。
毎晩毎晩私がよくやるとするなら、同等にドナもよくやるものだと思う。
私がこの食事を終えるころには、全員が起きだして食堂へ向かっているだろう。
そんなわずかな時間、待てないわけもないのにドナはわざわざ毎朝、私の下りてくる時間に合わせて二人分の朝食を用意してくれていた。
食堂のやかましさを私は知る由もないが、こうした静かな食事の方が好きではあった。彼女もそれを知っているのだろう。
私は特に何もなかった、とドナに伝える。彼女の手には新しいパンが握られていた。
「そうかい、それは何より。できればこのまま何も起きずに骨を埋めたいんだがねえ」
私もパンを一つとる。私はこのパンはあまり好きではなかった。小麦の素朴な甘味、といえば聞こえはいいが、要するに何も味付けがない。
パンにスープをひたして彼女の言葉を待った。
「ほら、あんたも聞いてるだろう。ぼちぼち再戦するかもしれない」
黄色いスープの滴るパンを、こぼさないよう口へ運ぶ。私はこの、浸したパンのぐじゅりとした食感もあまり好きではない。
次は目玉焼きでも乗せてみようか。
「まあ、もう六年も経ってるんだしそういう話が出てもおかしかないけど、結局は噂さ。でもねレンツ」
ドナは身を乗り出した。
「隣町に出たらしいんだよ……山賊が」
山賊。
……山賊?
椅子から身を戻したドナは目玉焼きの黄身を割った。彼女は完熟が好きだ。
「あたしも詳しくは知らないんだけどさ。隣町まで行った子がそう言ってたのさ。なんでも、宿屋があらかた襲われたらしいよ」
目玉焼きと一緒に食べてもなお余ったパンをフォークでつつきまわす私を横目に、彼女は更に次のパンを食べ始める。
どうせならこれも食べてくれればいいのだが。
「しかもそいつら、罰当たりなことに僧服を着てるって噂だ。もしどこだかの僧侶様を殺したってんなら、王も黙っちゃいない」
僧侶ときたか。この話、いよいよ信憑性がなくなってきたと私はひそかに思った。
山賊の存在について、私は子供のころから聞かされてきた。子供をさらうだの、食糧を奪われるだの、逆らえば皆殺しにあうだの、
そしてそんな外法者が自分たちのすぐそばまで迫ってきているらしい、だのと。
ばかばかしい。私はこれまで一度として山賊という希少種に遭遇したことはない。
たいてい、平和な日々におののいた住民の噂に噂が重なって出来上がった産物にすぎないのだ。
それが今度は僧服を着ているなどと、いくらなんでも事実の範囲から出すぎている。

国王を唯一神の使者とする、国内で唯一許された宗教であるキリル信教。
私を含めた、そして先住民と呼ばれる太古からこの地に住むらしい部族を除いたすべての国民が、キリル信教の敬虔な信者だ。
決められた日に教会へ赴き祈りをささげるのが敬虔な信者の定めとなっているが、首都キーテジや軍都セルバスなど主要都市から離れた辺境の町村にある教会は等しく過疎の一途をたどっている。
私たちももちろん教会へは行かない。中には教会へ行く者もいるのかもしれないが、私は知らない。
敬虔な信者たる私たちは、この土地が私たちのものではないことを知っている。では誰のものか?
神の使者である王族のものだ。
私たちは、王族への感謝を込めた土地代を払うことで敬虔な信者だと認められるわけだ。

そして教会の権力は強い。なにしろ王が神なのだから。
政治での発言力は対立する国軍と並び、時には国軍をも操ることができる、らしい。
そんな教会の僧侶が殺された、更にその服を愚かにも着て街中を闊歩しているとなれば、いかにここが辺境とは言っても教会が黙っているはずがない。

私の黙した意見に気付いたドナは、なぜか堪え切れないといったように笑い出した。
「相変わらず真面目だねえ、レンツ」
彼女の言葉が疑問だった。なぜ今そんなことを言われるのか。
最後のパンをちぎって口に放り込んでからドナは言った。
「何年も前からある古いヨタ話をまさか本気になんてしてないだろうね?」
何がどうなったらそうなるのか知らないが、ドナは私が真剣に考え込んでいるように見えたらしい。
とんでもない。私は勢いよく首を振った。
残ったスープを残らずパンで掬って食べ、食器を流しへ持っていく。彼女ももう終わりかけだった。
「どうもあんた、表情がわかりにくくていけない。紙がないと表情が命なんだからさ、もうちょっと笑ってみてごらん」
そんなことを言われても。
なんとなく笑ってみたが、たぶん困り笑いにしかならなかっただろう。ドナも少し困った笑顔を見せた。
別に私は笑わないわけでもないし、自分のハンデは承知している。これでも表情を最大限出しているつもりだ。
ここへ招かれた時からの付き合いのドナとは仲が良いと自分では思っているが、ドナには私の気持ちはあまり伝わっていないのかもしれない。
……そういった負の気持ちばかり顔に現れるのだろうか。彼女は気のいい笑顔に戻って私の背中を強くたたいた。
「ほら、あんた夜通し起きてたんだろ。疲れが顔に出てるんだよ。さっさと自分の部屋に戻って寝な」
皿は私が洗っておくからと言うドナに押されて私はすごすごと台所を後にする。増えてきた人の気配に気付かないふりをして、私は部屋へ戻ることにした。

一応、今夜からは気をつけて見張りをすることにしよう。
そう思ってかなり遅めの就寝を始めた私。
まさかその夕方、早速噂の正体にぶつかることになるとは思わなかった。


「ごめんね、仕事が終わった後なのに」
……頭が痛い。寝起きの頭痛は相変わらずだ。
「仕事っつうか、ほとんど趣味みたいなもんだ。これから先が俺の仕事だよ」
アリアナとグエンの会話をぼんやりと眺めながら、並んで歩く二人の少し後ろで私はこめかみを揉んでいた。
陽が南西に傾いた頃が私の起床時間だが、その起きるか起きないかの時間帯でアリアナにお呼びがかかった。
私たち三人はドナに頼まれた買い物をするために、今街へ下りている。
施設は丘の上にあるので街へ行くには十分ほど歩かねばならなかった。帰りはもっとかかるだろう。
「こう見えて私、家事で腕力きたえてるんだから! グエンには負けないよ」
談笑は続いている。まったく、仲がいいことだ。お互いに喋り合っている二人を少し妬ましく睨むものの、どちらも私には気付かなかった。
こっちは歩くたびに頭が痛むというのに。頭が痛いからと断ったというのに。
だいたい私はグエンのような軍人上がりでもないし、アリアナのように身長に恵まれているわけでもない。
この三人の中で誰が一番貧弱かは全員がよく知っているはずだ。

頭痛は脳の奥底、私の計り知れない場所で起きているようだ。いつもより鈍く、重かった。


ドナに渡されたメモと商店とを見比べながら歩く。アリアナにとっても街は久しぶりなのだろう、規模は小さくとも活気ある商店街に目を輝かせているのが見て取れた。
「前よりも人が増えてない? すごい活気」
「あそこの店、前は骨とう品店じゃなかった? 雑貨屋さんになってる!」
商店街の端から端まで見て回るのでは、というほどのはしゃぎように、彼女も十六歳の女の子だということを改めて感じた。
姉と妹を間違えるほどに大人びたふるまいを見せたかと思えば、こうやって街にあこがれて品物に興味を示しては次から次へと興味を移していく。
機嫌の良い悪いさえも緩やかな私にとって、女の子というのはなかなか、難しい。
私がどのように返せばいいのか思案するあいだに、グエンが遠慮なくアリアナを時にはたしなめ時にはほめていた。
そのおかげで会話の主軸はもっぱらこの二人だけとなっていた、
「あっグエン見て見て! 朝揚げたばっかりなんだって」
「あん? そりゃあだめだ。朝ってことはもう十時間は経ってるじゃねえか」
こういった具合に。
アリアナはグエンの手を引いて向こうの鮮魚店へと消えた。メモに書かれたものを持ってくる望みはあるだろうか。
少なくとも魚は書いていない。
私は小さく息をついて、ひとまず一人で買い物をすることに決めた。
小麦粉……は量が多いので後回しにする。青果店に並べられたバナナのうち、どちらが良いものなのか決めかねているついでに私はふと思った。

アリアナがもしも、グエンに恋していたのだとしたら。

……さっきも手を引いて連れて行ったわけだし、可能性はゼロではないのかもしれない。
そう考えたら、アリアナはよくグエンと話しているような気がする。私とグエンが話している時も、会話に参加してくることが時々、ある。
結局どちらのバナナがいいかは私にはわからなかった。適当に選んだ方を買い、荷物が一つ増える。
次は塩を買おう。その間に二人は戻ってくるだろうから、小麦粉はグエンに持たせればいい。
私は道を歩きながら、更に考えた。
グエンはどうなのだろうか。あの男の人相が悪いのは評判だし、そのうえ後ろでひとくくりにした髪も無法者、それこそ山賊のようだ。
だが人間は顔で性格が決まるわけではない。グエンは私の友達だ。あの人相に似合わず優しく人のいい性格をしていることを、私は知っている。
私は粉屋を通り過ぎて、宿屋街へとさしかかろうとしていることに全く気付かないまま歩みを進めた。
一人の時はこういった勝手な想像を繰り広げるのが好きだった。もしもを考えるのは、楽しい。
それに私が考える想像は、まったく奇想天外で有り得ないことではなく、いつも「もしかしたらそうかも」という現実味を帯びたものだ。
もしも人が私の頭を覗いたなら、なんて悪趣味なんだと罵るかもしれない。だが、私の頭が覗かれることはない。
更に言えば、私には伝達する手段さえ限られているのだから。あらかじめ用意した言い訳を繰り返し、再び想像してみる。
……アリアナも、成人していないとは言えもう立派な女性だろう。いつまでも子供なわけではない。
それに十六歳ともなれば、さすがにそろそろ恋をしてもおかしくない年齢だ。
対するグエンの方は私ほど年をとっていないものの……

「――んですよ!」

困り果てた表情の男が突然視界に現れた。





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