「だからぁ、何度お願いされてもダメなものはダメなんです! ほんとに申し訳ないんですけど」
それはエプロンを着た、角の宿屋を営む店主だった。宿屋は商店街を過ぎた片隅に位置している。どうやら空想にふけりすぎて、向かうべき店を通り過ぎてしまっていたようだ。
店主は何事か、両手を前で合わせて懇願しているらしかった。
店主と相対するのは、キリル教会のローブをまとった二人だった。こちらへは背を向けており、フードもかぶっているため性別まではわからない。
ちなみに、二人とも私より背が高いようだ。
「いやいやいや、そりゃもう、伝教者様の宿をご提供したいのは山々なんですけれども、その……いえっいえいえそんな、いやその……」
割と大声でのやり取りなのだろう、周囲にちらほらと野次馬が見えた。だが大多数の人は伝教者のローブを見てそそくさと通り過ぎてもいた。
この街はあまり信心深くはないらしい。
二人組の伝教者のうち、一人がじわじわと店主に詰め寄っていた。一歩控えたもう一人はその肩を抱きつつ店主を説得しようとしているようだ。
店主の顔がやけに青い。笑顔が凍りついている。首を激しく振っている。――あっ。
野次馬たちの顔が一様に驚愕をつくりあげ、呆然と目の前の光景を疑った。
伝教者が、店主を思い切り殴り飛ばしたのだ。
凶行に及んだのは詰め寄っていた方の伝教者だった。後ろに振りかぶることなく、ノーモーションでのパンチが店主の左頬に吸い込まれた。
殴った勢いで伝教者のフードが外れた。刈り込みに近いプラチナブロンドの短髪、そして耳に開いたピアスがまず私の視界に入る。
切れ長の一重に薄い青色をした目はどうみても凶暴そのもので、やはり薄い眉は獣さながらにしかめられていた。鼻まで皺が入っている。
その男、伝教者? は、後ろのもう一人に羽交い絞めにされながらなおも店主に追撃をくらわそうとしていた。
当の店主は口と鼻から血を出して石畳に倒れている。かなり痛そうだ。彼の目も野次馬と同じく驚愕に見開かれ、開いた口は恐怖に震えていた。
「――っこのっ、ぶっ殺す!」
噛みつく短髪の伝教者。およそ聖職に就いたものとは思えないせりふを吐き出しながら。
あまりに暴れまわるものだから、後ろの一人がかぶっていたフードも外れた。耳が隠れる程度に短い茶髪。拒食症かと思えるほど首が細い。
茶髪の方は真後ろを向いており、何を喋っているかはわからないがおそらくは短髪をたしなめているのだろう。店主にペコペコと頭を下げている。
店主は彼の妻に引かれ憮然とした顔つきで店内へ逃げていった。「あんまりだ」と何度もつぶやいていた。

一応の終わりを見せたが、立ち退かない野次馬は口々に「あれってほんとに……」といった疑念をしゃべくっていた。
その言葉が聞こえたそばから短髪の鋭い視線が野次馬へ飛び、蜘蛛の子を散らすように群衆は引いていった。
短髪が忌々しそうに茶髪の腕を振りほどく。と、その向こうから私の見知った顔が二つ見えた。
すなわち、アリアナとグエンだ。
騒ぎを聞きつけてきたのか、その騒ぎの中に私を見つけたからかはわからないが、小走りでこちらへ向かっているのが見えた。
どうしたのと駆けながら尋ねるアリアナ。即座に叫ぶ口は私にないというのに。
しかしどのように答えるべきか考え、あの二人に目を向けようとした瞬間、
「何見てんだよこら」
少し赤みのさした拳が私の眼前に迫っていた。



食堂の椅子の上で意識を取り戻した時、私はどうして意識を取り戻したのかを考えた。いったいどこで意識を失ったのか。
やがて左頬に重い痛みが訪れる。一体なんだ。触ろうとすると、頬の上に冷やした濡れタオルが置いてあった。
そうだ、思い出した。私は殴られたのだ。あの男に。
一発で気を失うとは思わなかった。あの店主は倒れただけだったのに。そもそも言いがかりもいいところだ。見る前に殴るとは。

すぐそばにいたらしいドナが、目覚めた私の顔を覗き込んできた。
「大丈夫かい?」
私は頬を抑えながら頷いた。
「歯も骨も折れてないようだけど、まあ災難だったねえ。しばらく痛むと思うよ。はい」
鏡を渡されたので、タオルを外し怪我の具合を確かめる。左頬は赤黒く変色し、少し腫れていた。
痛む唇を引っ張って口の中も確認する。一か所だけ裂けているのがわかった。もう血は止まっているようだ。
もともと貧相な顔つきだが、これで悲惨な顔になってしまった。こちらを見返す私の顔はひどく陰鬱そうだった。
重症というほどでもないものの、軽い怪我でもない。だが殴られたものは仕方がない。

――私はどれくらい気絶していた?
私は気持ちを切り替え、机に用意されていた紙にそう書いた。ドナはやや心配そうにこちらをうかがっていたが、やがて壁掛け時計を見ながら答えた。
「ここに運び込まれて、せいぜい十分くらいだったと思うよ」
街から私を運んでくる時間も考えて、十五分から二十分は気を失っていたということか。
――それで、あの後いったいどうなったのか。またペンをとった。
「うーん。あたしはその場にいたわけじゃないし、それは本人に聞いてごらんよ」
ドナが顔を上げた。私も彼女の視線を追って後ろを振り返る。
食堂の扉にアリアナが立っていた。
「レンツ! よかった」
駆け寄ってきたアリアナにそのまま力強く抱きしめられた。アリアナの胴にすっぽりと埋まってしまうのは果たして私の今の体勢によるものなのか。
「大丈夫? 痛くない? 腫れがまたひどくなってる」
身を離した後も、涙ぐんで私の顔を覗き込んでくる。そんなに心配されるとは。
痛いものは痛いのだが、痛くないよと精いっぱいアピールしてみた。効果は薄かったようだが、アリアナは少し笑ってくれた。
「でも、これじゃすぐには治らないね。殴るなんて信じられない。何も悪いことしてないのに」
彼女があんまり心配するので、私はまたタオルで頬を隠した。心配しながらも怒っているようだ。
私は気にしてない、心配するなとメモにつづった。悪いことをしていなくとも、恨みをこうむることはあるのだから。
私ならなおさら、とも心の中で付け足した。もちろん口には出さないが。
「レンツがね、気を失っちゃったでしょ? いきなり殴られてるし、ほんとにびっくりしたんだけど、グエンがね……」
そこまで言いかけてアリアナが口をつぐみ、扉の方を見た。そこには当のグエンがいた。
……それと、なぜかあの伝教者二人が。

二人ともローブを外していて、茶髪と短髪以外の特徴もよく見えるようになっていた。
茶髪の方はやはり極端に痩せていた。顔はさほどでもないが頬は少しこけているし、ローブにもかなりの余りがあるようだった。
男なのか女なのかよくわからない、中性的な顔立ち。アーモンド形の目に茶色の瞳が時折ちらついた。
なぜならその目は大半細められ、私に向かって申し訳なさそうに何度も頭を下げているためだ。
男でも女でも、これまで見た人たちの中で一番痩せていた。それが一番の印象だ。
「ほんとに、ほんっっっとにすみませんでした! 無関係の人まで巻き込むなっていつも言ってるんです、普段は良い奴なんです、いや、良くはないけど、大人しくもないけど、悪い奴じゃないんです!」
俺、ということは男なのだろう。彼は弁解にならない弁解をまくしたてつつも、私へ向かって平身低頭、謝り倒していた。
こんなに謝られたのも人生初めてだ。
それより私は、当の短髪……よく見れば少年のような幼さの残る、少し下膨れのピアス男の容貌の方が気になった。
彼の左眼窩が、赤黒く腫れあがっていたのだ。
さっき、つまり私が殴られる前、私は彼の左側に立っていた。その時、彼の左半身は正常だったのだが、今目の前にいる男の左まぶたは白目も見えないのではというほど腫れている。
あれは私の頬より痛そうだ。
短髪の聖職者に見えない聖職者は、眉根をきつく寄せて下を向いていた。その光景もまるで怒られた少年のように幼く見える。
彼はふてくされているのか、口を開こうとしない。グエンもまた、いささか機嫌が悪いらしく目線を泳がせていた。
「あの人」
アリアナが話し始める。
「グエンなの。その……あの後、私はあなたのとこまで行ったんだけど、グエンはまっすぐ、あの人のところまで行ったの。それで」
彼女の目がちらりと、あの伝教者の左目を見やった。あの様子からすると、かなり力の入った一撃をくらったことは明白だろう。
まさかグエンがそんなことをするとは思わなかった私は、思わず彼の方へ視線を戻した。私に気付いた彼はすぐ目をそらしたが、またこちらを見て、苦笑した。
「それから、ケンカになりそうだったところを、あっちの……マギーさんっていうんだって。あの人が仲裁してくれたのよ。それからお願いがあるとかで、ここまで来たんだけど」
痩せた男、マギーはアリアナの声を聞いたのか、こちらへ歩み寄ってきたかと思うとこちらの手を握ってきた。
なんだ。
「レンツさん、でしたっけ」
やたら力の入った眼差しを向けられる。私のことについてはある程度アリアナなどから聞いているらしく、はっきりと口を開いて喋っていた。
「はじめまして。俺……私はマギー・ヘイズと申します。改めてこの度の不始末を謝罪申し上げたい」
なんだ、なんなんだ。やたら仰々しいせりふにめまいを覚える。
「この姿からもお察しでしょうが、私と彼、キャス……キャスはキリル信教における伝教者をつとめております。
いや、そう、私たちの伝教服以外の容貌や行動に際した疑問は重々承知していますが、あとあなたに対する非礼も、重っ々! 承知していますが――」
マギーは大きく深呼吸した。長い吐息のあと、彼はくずおれるように膝をつき、
「どうか俺たち二人をここに泊めてください!」
言うやいなや私に向かって深々と土下座してのけた。

ええと。 もしも私に言葉が発せたならば、きっとそう言っていただろう。
ええと……。今の状況は、なんだ?
頭を床にこすりつける勢いで土下座をしたきり、マギーはぴくりとも動かない。周囲はどうだ。周囲は、私を見ていた。
アリアナも、グエンも、ドナも、そして伝教者キャスに至ってはなんともいえない視線をこちらに向けていた。
いや、待て。どうしたっておかしいではないか。
彼らが泊まるとかどうとか、私の一存で決めることではないだろう。そうだろう。私はいつの間にかリーダーにでもなったのか。いや、それはない。
これまで、新しく施設で暮らす者が入ってきたときは、全員でそのことについて話し合ってきたはずだ。まあ反対意見が出たことなど、グエン以外にはなかったが。
なぜ私に? というか、この雰囲気はなんだ? 罰ゲームか? 私が何をした?
頭がくらくらとしはじめた。現在はもう、私の許容できる状況を超えたのだ。
救いを求めるように、まさしく救いの伝教者へと、私にひざますく伝教者へと目を向けると、まさしく彼は面を上げるところだった。
何か、何か言ってくれ。私は願った。そして私の願いはかなえられた。
「お願いします!」
それきりまた彼の額は床と仲良くくっつきあってしまったのだ。
私は泣きそうだった。





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