子供たちの歓声が遠くに聞こえる。
窓を隔てたその声を私は聞いているのかいないのか、無心に本を読んでいる。
題名は……、そう、分厚くて小難しい本だった。読んで理解しているわけではない。私はそれを、ただ読んでいる。
私のいる部屋は、扉を除いた壁一面に本が並んでいる所だ。図書室でも図書館でもない。父の書斎。
釣り下がった粗末なシャンデリアが、くすんだ光をこちらによこす。私はその光でというより、窓からのまぶしい日光で字を追っている。
深い緑色をした絨毯が床を埋め尽くしている。私はその絨毯に座り込んで、本を読んでいる。
シャツもズボンも、靴下さえも、まるで溶け込んだかのように絨毯と同じ色だ。実際、溶け込みたかった。いや、溶け込みたいのだ、私は。
「   !」
急に体が後ろへ引っ張られる。頭の後ろから力を感じる。ああ、本を、放してしまった。
母。お母さんが、私を書斎から連れ出してしまう。いつもそうだ。前を向いてしゃべってはくれない。
しゃべる気配は伝わるのに、叫んでいるのは伝わるのに、お母さんは後ろを向いたまま私を罵る。
ここから出たくない。私は暴れる。手を伸ばす。その先は、あの本だ。
あれがないと、私は私ではないのに。どれだけ説明しても、お母さんはわかってはくれない。
放り出される。書斎を出て、廊下を渡り、たどり着いた居間の中央にぽっかりと空いた、深く暗い穴へと。
私を捨てるのか。そうだ、お母さんには、私など必要はない。なぜなら私は、
(お母さんがしゃべる言葉を、落ちる瞬間だけ、「見る」ことができたんだ)
「もういらない」
いらないのだから。

穴はどこまでも続いている。
穴の壁は、土でもなく岩でもない。煉瓦でもない。ただ、暗い壁だ。
私は延々と落ちながら、胎児のように体を丸めている。顔を隠すように伸ばした髪が、まとめて後頭部のほうへさらわれていく。
もじゃもじゃとあらぬ方向へ伸びる、嫌いな自分の髪の毛を、私は両手でつかんで顔へ寄せる。
細い絹糸のような感触も嫌いな要素の一つだ。それでも今は、安心できる。
――爆撃の音。閃光が視界を奪う。そして聴力も。
耳から鼻から血が流れる。痛くはない。痛くは、ない。そこにいる、叔父さんの残骸よりは。
いや、今はいない。それは私の記憶だ。今はここ、真っ白い穴の中。
けれど私は、自分の最後の声を使ってつぶやく。「どうして、僕を、助けたの」どうして。どうして、最初のうちに放っておいてくれなかったのか――

光にすべてを塗りつぶされた穴、その奥底から、色の奔流がやってくる。いや、私がやって来て、いる。落ちている。落ちている。
色は私のそばを通りすぎる瞬間に形をなした。だがそれは一瞬だ。一瞬で崩れた色は、また別の色にとってかわり、一瞬で物が、人が、形作られる。
そして、その瞬間ごとに、頭に声と音が響いてくる。
「一緒に本読もう」透き通った少年の声。
「死んだ。みんな死んだ」失意に枯れた男の声。鳥……鳥が、はばたく音。
「一人だけで生き残るなんて」非難がましい女の声。
「すべてあなたの思うまま」高くも低くもない穏やかな声。
「ずっと終わらない、永遠に」低く歌う男の声。建物が崩れ落ちる音。
「お前を呪う私の一生をかけて」私のよく知る女の声。
「どうして殺した」知っているのに知らない声。強く窓を打つ雨の音。
「あなたさえいなければ」生まれた時から変わる声。
「もう二度と会わない」連れ添い続けた友の声。
「」声「」声、音、「」声。
耳をふさいでも、それは聞こえる。落ちる最中はずっと髪を掴んでいたのに、いつの間にか私は少年の姿から成長して、三十二歳の男になっている。掴めるほどの長い髪はない。
私は手で顔を覆う。もうたくさんだ。これ以上、これ以上……これ以上、なんだ?
強く、強く思っていたはずだ。これ以上、何かを……なんだっただろう。わからないのに、私の心はその強い願いであふれている。
もうやめてくれ、たくさんだ、終わりにしてくれ。私は声もなく呟く。そう、私には声などないのだから、それで当然だ。
なのに、私はもっと大きく口を開く。

「もう、これ以上、生きたくないんだ!」

声帯を震わせて出した、あるはずのないその声は、なんだかひどく、自分にそぐわない気がした。
大声を出した後、私は更に丸くなる。顔がひざにすっぽりと覆われる。
色の奔流はまぶたの裏にかすかな光として届くだけで、頭の中の声はどうしようもなく、早回しの声が無数に通過しては消えていくのを耐える。
耐えるしかない。私はそうやって生きてきたのだから、耐えるしかないのだから。十年、二十年、一回も、二回も、三回も。何回も、いつまでも、

すすり泣く声が聞こえる。
不思議なことに、それは現実の泣き声だ。早回しでもないし、いつまでたっても消えはしない。
高めの声。子供だろうか。
私は顔を上げる。いつの間にか穴の底まできていて、私はひざを立てて座っている。
何もない真っ暗な空間に、軍服を着た髪の長い少女が立っていて、彼女は泣いている。
(あの子は、いつか、……どこで見ただろう)
少女は、先ほどの私と同じように手で顔を覆い泣いている。
「なんで?」
高く柔らかみのある声。なつかしい。私はそう思った。
「なんで、もう終わりにするって、言うの?」
私は声を出そうとする。だが、あの一回きり、声帯は沈黙を守っている。
声をかけなければ。私は強くそう思う。それでも声は出ない。
声が、声さえ出たなら。この子を救ってあげることができるのに。
すると、少女はぱあっと顔を上げる。涙の跡すら残っていない、無邪気すぎる笑顔が見える。
「声が欲しいの? ほんとうに?」
ざああっ、と、風が吹いた。どこからの風だろう。
まばたきすると、少女は消えうせていた。代わりに、さっき少女の立っていた場所には、男が立っている。
私のよく知る、いや、現実の私は見たこともないはずなのに、なぜか誰よりもよく知っている男だ。私はそう確信する。
丸い眼鏡をかけた、年若い神父。穏やかな目が眼鏡の奥からこちらを見ている。少し微笑んでいる気がする。
その笑顔は、私はあまり好きではなかったのだ。甘えてしまう気がして、その事実、私は彼に甘え、そして、……そして?
彼は何も言わず私を見つめている。何かしゃべってほしいときには、いつもこの男は何も言わないのだ。
リズ。
ようやく閃いたその名前を口にする前、私はわずかにまばたきをする。そして彼も消えうせる。
次には、また男が立っていた。
私と同じ年の男。私は彼をよく知っている。今の私は確かに彼を知っている。だが彼は私のことなど知らない。
彼は、遠い遠い存在である彼は、私が今まで聞かされてきた声の中で一番、疲れきった声で、
「たすけて」
と――






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