「というか、中で揉めてるみたいですね」
「でもドナの声しか聞こえないよ」
彼らの耳には、内側の喧騒も聞こえているようだ。
大体想像はついた。
失礼します、とマギーは控えめに勝手口のノブを掴む。
「うわっくっせえ!」
わずかに開いた隙間から、ほのかに黒ずんだ空気が漏れ出てきた。そして異臭も。
およそ聖職者と思えない悪態をつきながらマギーが袖で鼻を覆う。私もそれに倣った。アビィに至ってはくさいくさいと連呼しながら何度も咳き込んでいた。
そんなに臭うならここから離れればいいと思うのだが。
慣性に任せて開ききった扉の中は、思ったよりも酷くはない。ただ空気は灰色によどんでいた。
その渦中には、ドナとキャス。
「――まったく、今まで料理もしてこなかったのかい! ちゃんと見ておきなって言っただろ!」
「いや、まだ大丈夫かなって思って……」
「大丈夫だったらなんで今こんなことになってるんだい? あたしもちゃんと見とくべきだったけどさ、それにしたって、窯の窓は何のためにあると思ってんだ!」
ドナが叱り飛ばしていたのは、ピアス頭の伝教者。キャスだ。キャスはうなだれ、地面を見ながらもぐもぐと何かしら言い訳を口にしていた。
その言い訳が彼女の説教に油を注ぐことになるというのに。

厨房には、かなり古いが大型の窯がある。もう火は止めてあるだろうが、そこがいまだにもくもくと煙を吐き出していた。
彼はトラブルメーカーの星でも背負っているのだろうか。まあ、料理ができる男だとも思えない。
窯を駄目にするほどではなくとも、私の技術も似たり寄ったりではある。
ドナは一応こちらの存在に気づいたようだが、
「悪いが後にしとくれよ!」
などと言うなりキャスへの説教を再開してしまった。

その隙に厨房を窺うと、たかが料理を失敗したくらいで怒りを顕にしているドナの心情が少しだけ察することができた。
というのも、窯を見る前にも彼はいくつかの失敗を重ねている痕跡があったからだ。
まな板にはふぞろいに切られた野菜が泥まみれで置いてあるし、床には料理する予定だったらしきものが落ちている。
散らばっているのではなく、おそらく丸ごと落としたのだろう。
食器カゴには欠けた食器が並んでいるし、水まわりはトラブルでもあったのかというくらいに水浸しだ。
一度や二度の失敗なら誰にでもあることだし、温厚なドナも決してその程度で怒ったりはしない。
だがこうして見る限り、キャスは明らかにすべてを失敗しているようだった。
致命的なまでにそそっかしいのかもしれない。あるいは、ふざけているだとか、そういう悪意があるのかもしれない。
特に厨房はドナの城ともいえる。それにやはり、キャスのあの外見と物腰だ。
私には悪意があると見えないが、城を壊された彼女が同じことを思うかはわからない。

「話相手になっとくれって言ったのはあたしだよ。でも手伝いたいって言ったのはあんたじゃないか? 気持ちだけでありがたいもんだけど、窯を見るのだってあんたが言い出したことだろ」
キャスは非常にばつが悪そうに口を閉ざしている。もはや私の目には、彼が十歳そこらの少年にしか見えない。
私はなぜ今自分がここにいるのかよくわからなくなった。この場では完全に邪魔者でしかない。
アビィも同様で、意味のない唸りを出しながら人を呼ぶべきかおとなしくしておくべきか迷っているようだった。
だが立ち去るほど深刻な場面でもない。どうしようか。
マギーは幼馴染が幼子のごとく叱られている光景に笑いを堪えているようだった。肩が露骨に震えている。ずいぶんと薄情なものだ。
私をここまで連れてきた彼が帰らないというならば、ひとまずはこの場にとどまることにした。

彼は彼なりに恩を返そうと努力したのだろう、ということは私にも窺えた。ドナもそのことをわかってはいるのだろう。
その心意気は買える。野菜を洗うことも知らなかったほど料理から遠かったのが悔やまれるが。
ドナはひとつため息をつき、
「――まあ、あんたが何かしたいって気持ちは認めるし、その気持ちはありがたいんだよ」
もはや慰める口調でキャスを諭した。
「ただね、何も不得意なものでしなくたっていいじゃないか? それとも料理したことがあるっていうのかい?」
「ない」
即答だ。マギーが肩を大きく揺らした。吹き出している、間違いなく吹き出している。
さすがに不謹慎と思ったか、ドナは彼を睨み付けた。が、あまり効果はない。再びため息をついて気を取り直す。
「じゃあ、掃除とか洗濯とかあるじゃないか。できないようなもんじゃないだろう」
ぐ、とキャスがまた口をつぐむ。人が多少集まっているせいか、顔が赤くなっている。なんだか気の毒になってきた。
それからぼそぼそと、口の動きを読む私にしかわからないのではというほど小さく、無理、と呟いた。
「無理ってなんだい、無理って」
ドナはもはや、怒りを通り越して呆れていた。家事に無理も何もあるものか、その目が明らかに語っている。
キャスもその目に悟らないほど馬鹿ではないようで、顔の赤みが耳まで達してしまっていた。
「掃除洗濯、料理もそうだけど、そんなに技術のいることなのかい? なんだい無理って、何が無理なんだか言ってごらんよ」
「……」
「そもそも無理かどうかなんて周りが決めることだろ、そりゃあやらないうちは無理に決まってるじゃないか」
「……」
「だいたい、さっき即答したのもそうだ。気持ちは買うとは言ったけどね、そりゃああんまりってもんだろ。あんた、やる気あるのかい?」
「……」
煮え切らない態度に苛つき始めたドナは、相手を責める口調に変わっていっている。人情を慮る彼女にしては珍しいことだ。らしくない。
キャスはうつむいて一切返事をしなかった。それが更にドナの苛立ちを煽る。反論も無言も変わりがないということか。
「やる気があるのかないのか聞いてるんだよ、ないんなら何もしなくっていい」
「来るぞ来るぞ……」
マギーがこちらを振り返り、誰に言うでもなく呟いた。
「そもそも、こっちは別にあんたから見返りがあるなんて期待しちゃ……」
来るとは、一体――

「っっるっせえなこの野郎」

――ん? 今、なんて言った?

「できねえっつってんだろうが!」
周囲に怒声が響き渡った。
「あ? できなくて悪いか? 悪いのかコラ! 掃除洗濯だ? ったるすぎてやってらんねえんだよ!」
唐突すぎるキャスの爆発的な怒りを目の当たりにし、マギーを除く全員がぽかんと口を開けた。
そのマギーは笑っているのか呆れているのかよくわからない顔をしていた。その反応を見るに、これがキャスの日常なのだろうと思われる。
 ドナも一瞬、あっけにとられて突っ立っていたが、彼女とてさほど気の長い人ではない。売り言葉に買い言葉、
「な――なんて口きくんだい、あんたは!」
すかさず我を取り戻して反撃を試みるが、
「うるっせえあああもううるせえ!」
どうやら火に油を注いだようだ。キャスがヒステリックに頭をかきむしった。
「集中力だ? 忍耐だ? んなもんあったらこんなことしてねえよ!」
こんなこととは何のことだ。問うても無駄だろうが。
当事者であるドナさえ置いてきぼりを食らっているのだ。私や、存在さえ忘れていたがアビィなどは完全に蚊帳の外にいた。
キャスの唯一の理解者であろうマギーに至ってはさっきの微妙な表情はどこへやら、今度は腹を抱えて大爆笑している始末だ。
こちらは笑うどころの話ではない。何をどうすればいいのやらさっぱりわからない。
 いや、そうだ、このままでいくならドナの身が危ないのではないか。
すっかり忘れていたというのも間抜けな話だが、私はこのキレる若者に何のいわれもなく殴られた張本人だったのだ。
ドナもああ見えて女性だ。女性を殴りはしないと信じたい。それでも実際のところ、信じるだけの証拠もない。
今も何かしらわめいている。それがいつ行動になされるか、わかりようもない。

駄目だ。それはまずい――しかし私には口がない。そして足も、地面に根を生やしてしまっている。
身がすくんでいた。すっかり忘れたはずの頬の痛みが不自然によみがえってくる。
私は怯えていた。
自分でも気づかない間に、すっかり体が痺れてしまっていた。元々争いごとは嫌いだ。喧嘩もしたことがない。
というより、他人と深く交流したことさえ、ないのだ。
私は強い感情が怖い。恐怖を抱いている。彼は怒っている。強い怒りを顕にしている。
私と彼は、本当に同じ人間なのだろうか? ……
ああ、まただ。
結局私は、こうやって事態の深刻さから逃れるように一人の思考に逃げ込んで、現実では何事もなかったような顔をして突っ立っている。
事態を予測しているのなら、そしてそれがよくない予測であるなら、回避するよう努めればいいだけの話だというのに。いつもそうだ。見ているだけ

(だってそれだけがわたしのいていいりゆうなのだから)

 ? 何だ?
「――から笑いやがっ――じゃねえよ!」
――ああ、キャスだ。殴りかかっている。ドナへ? それともまた、私?
混乱している。よく見るんだ、よく見なくとも、答えはどちらでもないことが明白だ。






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