屋上は相変わらず夜風が吹きつけている。
いつだって一定の気温を保っている、亜熱帯に近いこの地では、夜の風さえひどく心地良い。
私は見飽きた光景をそれでも眺めた。決して高くはないが、地平線をさえぎる山。あそこを越え、何日も何日も歩き続け首都さえ越えた先の国境を思う。
そこは私がかつて住んでいた村がある。正しくは、あったのだ。
そしてそこで私は戦禍に遭い、両親を失い、五感の一つも失った。戻りたいとは思わない。それでも、私は気がつけばいつも北東を見ていた。
ずいぶんと遠くまで来たものだ。幼い頃の私は自分の村が世界の全てだと思っていたというのに、今ではほぼ対極の地に居を構えて、そしてともするとここで骨を埋めるかもしれない。
いくら目を細めてもあの村は見えない。ただ脳裏に、焼けている家や木々が視える。
叔父の家に来ていた私。叔父の家にはたくさんの本があった。あの頃は本というものがどれほど貴重で稀少だったのかも知らなかった。
最初に遠くで衝撃音が聞こえ、やがて荒々しい喧騒と悲鳴が聞こえ始め、叔父に連れられて家を飛び出し、そこで大きな、とても大きな爆音が聞こえた。
気がつくと私は叔父の亡骸に押しつぶされていた。
爆撃が止んだと思い叔父の下から這い出ると、すぐそばでまた地面がはぜる。音がしない。耳鳴りが大きすぎて聞こえないのだろうと思った。そう、言い聞かせた。
父は、母は。逃げ惑う人たちの間を縫って、死者をまたいだ先には父母の手が崩れた家屋の下からのびている。地面には赤い水溜りができていた。
両親ではないかもしれない。そう思いながら、私は確認もせずに逃げ出した。あんな瓦礫をどかすことなんてできないと、冷たく言い訳をしながら。
だがあれは、間違いなく父と母だった。どこにもあの二人はいなかったのだから。
――夜風が少し冷たい。明日はよく晴れるだろう。それから、強い雨が降るはずだ。
追憶をしながらも、私は自分がとても冷めた目でそれを眺めていることを確認していた。
この記憶がたぶん、私がこれまで経験した中で最も衝撃的なものだ。
それなのに、いくら記憶を掘り起こしても、いくら叔父の亡骸や父母の手を思い出しても、激しい感情など何一つ浮き上がってはこない。
小さなもやもやとした何かが少しずつ沈んでいくだけで、それもやがて消えてなくなってしまう。
施設にいる人間は皆、戦争で大切な何かを失くしている。誰かは戦争が憎いと言い、誰かはいまだに深い悲しみにとらわれている。
私にはそういう気持ちが、ない。
どれも私の大切な人たちだったはずなのに。
聴力を失う前の記憶もあいまいになってしまっている。私はそれまで、どのように笑い、悲しみ、怒っていたのだろうか。そもそもそんな感情があったのだろうか。
私が覚えている私自身の中には、強い感情など存在しない。出し方など忘れてしまった。そもそも覚えていたのかどうかさえ、忘れてしまっている。
何しろ今の私は大声で笑うこともできないし、泣き喚くほどの意思の疎通もなければ、怒りを話す口もない。
アリアナやグエン、ドナなどがそんな私をひそかに心配していることも知っている。人と交流させるために街へ買い物を頼んだり手伝いをさせたりするのもわかっている。
ただ、私はそれにさえ、感情がわかないのだ。ただ申し訳ないな、と思うだけだ。
私がいるだけで、相手に気をつかわせる。だから私はこの時間が一番好きだ。
夜の間は私一人の時間になる。たまにアリアナも来るが、やがて寝に戻る。彼女がいると迷惑というわけではない。彼女に迷惑をかけるのだから。

そこまで考えて、私は自分がいつもと違うことに気がついた。
というよりも、今日は一日ずっと、私は何かがおかしかったように思う。
夢を引きずっているのか。だがその夢ももうほとんど忘れてしまっていた。
原因は他にもあるはずだ。感情の起伏について考えたのは、まさにあの二人が原因だっただろう。
特にそう、今私の横に座って同じく月を眺め始めたキャスなどは、

ん?

驚いたあまり、露骨に飛びのいてしまった。キャスはこちらをちらりと見たがまた視線を上へ戻す。
隣に来るなら来るで一声かければいいのに、と内心でひとりごちた。一声かけられたところで気づかないが。
どうしたのか、眠れないのかと聞きたかったが、答えは明白といえた。あの騒ぎの後では寝られるはずもない。
結局あの後、アビィが呼んだ大人たちがかけつけて決定的に話の腰が折れてしまったのだ。
当事者のドナにだけは後からマギーが弁明に行ったようだが、詳しい話は知らない。キャス本人は最後に再びドナへ謝罪し、隠れるようにしてその場を離れていた。
夕食にも顔を出さなかったし、おそらくずっと自室にこもっていたのだろう。
勢いのあまり立ち上がってしまったが、どうにも居心地が悪かったので結局私はもとの位置へ座り直した。微妙に距離を置いて。
暗がりで見えづらいが、キャスの目が若干腫れているようにも見える。泣いたのだろうか。彼が?
「俺、あんたのこと、苦手だ」
唐突にキャスが口を開いた。話題も唐突だ。何の話だと、私は彼の顔を見つめた。
「それ」
それとは何のことだろう。
「あんた、人の顔、すごく見るだろ」
――なるほど。
確かに私は、人と会話するとき相手の顔を凝視する。これまで他人に指摘されたことはないが、それは私も自覚している。
なにしろ癖というより、そうしなければ相手の言葉がわからないのだから。
だからそう言われても私には改善する術がない。彼も、あんたの耳のことは知ってるけど、と弁明した。
「だけど、なんていうか……苦手なんだよ。あんたの目も」
目、とは?
「見透かされてるような、気がする」
これも初耳だった。
いつも眠そうだとは言われるが、そんな意見はこれまで聞いたことがない。
それに私が見透かしているだなんて、お門違いもいいところだ。私の目は生憎、他人よりかなりいいというだけだ。
思わず笑ってしまうと、彼は少しむっと顔をしかめた。
私はメモに書き付ける。そんなことを言われたのは初めてだ、私に見えるのは目を腫らした伝教者だけだと。
グエンの残したあざももちろんだが、やはり彼は両目を腫らしていた。
「……んだよ」
後者の意味で図星を突かれたのか、不機嫌そうに私を睨む。が、悪意はないように見えた。
どうやら本当に私の視線が苦手なようで、彼はひどく居心地が悪そうだった。
やはり私は何かしら他人に迷惑をかけてしまうらしい。立ち上がって別の場所に座ろうかとも考えたが、露骨すぎる行動は嫌だった。
どうしようか考えていると、キャスは諦めたように首を振る。
自分が一切喋らないぶん、相手も寡黙だといっそう意思の疎通が難しい。彼が何を考えているのか図りかねていた。
「悪かったよ」
意外なことに、彼の口から出たのは謝罪だった。
「殴って悪かったって言ってんだ」
謝罪にしてはずいぶんと不遜だが、なんとなく本心からの言葉だということはうかがえる。
それに、ああそうかと今ようやく思い至った私も私だろう。
そのことはすっかり忘れていたとキャスに伝えると、
「なんだよそれ。忘れねえだろ普通」
変な奴だな、と言ってキャスも少しだけ笑った。






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