それは困ったような、照れたようなぎこちない微笑にすぎなかったが、彼の笑顔を見たのは初めてだ。
そもそもお互いがお互いを避けてきたのだから、ここまでまじまじとキャスの顔を見るのも初めてではある。
もともと幼い顔立ちが、笑うことでよりいっそう無垢に見えた。本当に少年のようだ。施設の子供よりも子供じみている気さえする。
悪い意味ではない。その純粋さは私には羨ましいほどだ。だが上手く伝えられる自信もない。
キャスに伝えるときっと烈火のごとく怒るだろう、私は自分の心の中にしまっておくことにした。
そんな私の内心など知る由もなく、キャスはすぐに笑みを消して眼下の街を見つめた。視線はその先にあるのかもしれない。
彼は物思いにふけっているようにも見えた。
何か聞いた方がいいのだろうか。なぜドナに対しあそこまで怒ったのか、そこまで怒りやすい性格には原因でもあるのか、確かに疑問は少なくない。
だが彼は見るからに、自分のその性格を気に病んでいるように思える。
たった今言葉を交わしたばかりの私がそんなことを聞いてもいいのだろうか。それとも今、私の言葉を待っているのだろうか?
他人との距離感というものが、どうにも掴めないでいる。積極的にコミュニケーションをとらなかった結果だ。
三十路を過ぎたというのに、私は子供よりも不器用な男のままでいる。
その点で言うならば彼もまた同じなのかもしれない。
どちらに踏み出そうか迷っている間にも時間は過ぎ、タイミングを逃してしまった私は結局沈黙を貫いた。

語る言葉を早くも失う。私はそのまま夜の風景を眺めた。
宿場町のまばらな灯りと、山のふもとに位置する関所の小さな灯り。あとは星と月がひそやかな光を地に落としている。
不審な光はないかと私はいつものように視線を巡らせた。
その様子を見ていたのか、キャスがまた話しかけてきた。
「監視してんだろ? あんた」
私は頷いた。
「目がいいって話だけど、どんくらいいいんだ?」
彼は私にとって返答に困る質問ばかり投げかけてくる。そう言われても、私には私の見える世界が全てなのだ。
確かにこれまでにも視力のことで他人に驚かれることが多々あった。だがそれもどれくらいの基準なのかよくわからない。
ひとまずはその他人の評価を借りることにした。
「驚かれるっつってもわかんねえよ」
キャスは私の返答が気に入らなかったらしい。
しばらく何か考えたのち、急に街の灯りを指差した。

「あの光は何だ?」
――あれは宿場町の灯りだ。あそこには酒飲みが多いから、今の時分でもよく灯りが点いている。街路の灯りも消えないし、今日は三軒ほど酒盛りをしているようだ。
「じゃあ、あっちには何がある」
――あそこは荒野だから何もない。
「そこの……そこの山にある光は?」
――関所の灯りだ。キャスたちもこの街に来た時通っただろうに。そもそもこれは視力ではなく単なる土地勘に近いのではないか。
私がそう指摘すると、キャスは確かに、と唸った。
「他に何が見える?」
――何が見えると言われても困るが、強いて言うなら……ああ、今関所に一人入ってきた。軍人だな。門番に何か話しかけているから、たぶん交代か何かだろう。

書き付けたメモを読み終える前に、キャスは目を、正しくは右目を丸くさせた。
こちらと関所のある方とを交互に見比べて、
「からかってんじゃねえよ」
憮然とした顔でそう結ぶ。
からかっているのならここで吹き出すべきだろうが、私はそんな気など毛頭ない。
「……いやいやいや、だってお前、こっからあそこまでどんだけ離れてると思ってんだよ。しかも今、夜だぞ」
たぶんここから純粋な直線距離を測ったら二十キロメートルはあるだろうが、その程度の距離で晴天ならばだいたいのものは見渡せる。
というより、今まで見える範囲内で見えなかったものがない。だいたいは途中で遮蔽物があって見えなくなってしまうのだ。
それに夜だとは言っても、ここにランプだってあるし今日は月も真上に出ているし、光量については何の支障もないはずだ。
かいつまんでそのことを説明する。キャスは信じられないようだった。
「ありえねえだろ。マジならそれ、驚くって話の規模じゃねえ。……異常だよ」
心なしか私を見る目が若干非難じみている、いや、当惑……恐れさえこもっているようにも見えた。
 異常だと? 急に聞きなれない単語を面と向かって言われて困惑するのは私の方だ。
キャスはお構いなしに話を続けた。
「今までそれなりに目がいい奴とも会ってきたけど、十数メートル先の小さな文字が見えるとか、それぐらいだった。二十メートル以上なんて、おかしいだろ」
からかうでもなく、彼の目は真剣そして冷静そのものだった。だからだろうか、困惑が小さな不安に変わり始めている。
嘘のつけない性分であるはずのキャス。私をからかっているのではないのか。
本気なのか。
更に、
「それに、耳が聞こえなくなったのって十歳かそこらって話だろ。普通そっからそこまで目が良くなるなんて、ありえねえ」
急に饒舌になったキャス。早口の言葉は読み取りづらい。私は言葉を追いかけるので精一杯だった。
順々に理解していき、確かに私と同じくらい目のいい者に出会ったことはないと思い至る。
グエンの視力もかなりいいはずだが、私には遠く及ばない。夜目が利いたとしてもせいぜい、単に、周囲が見えるだけだという。
異常。その言葉がふいに重く胸を圧迫してきた。私は異常なのか?
いや。そうだ、違う。
これまで十年以上も暮らしてきた施設の人たちは、決して私を異常などとは言わなかった。
単に驚いて、時にはすごいね、と賞賛の声すらくれた。
もし私の視力が異常ならば、あの時点ですでに異端の目を向けられていたのではないか。
今だってこうして集団の中で生活することなどなかったはずではないのか。
私は汗でぬめるペンを握り締めて、反論した。
メモを渡して、キャスの顔を観察する。私は異常などではない、これがその何よりの証拠だ。
読み終えたならきっと彼はそうだよなと笑ってくれるはずだ。
だが、そんな私の淡い期待はすぐに砕かれることとなる。
文章を読み終えるまでもなく、キャスの顔がみるみる曇っていったのだ。視線が紙から離れた後も、まるで罪悪感の塊のような……いや、憐憫の情さえ持ってこちらを見やる。
そしてさっきまでの威勢はどこへやら、また口を重く閉ざしてしまった。
何か言いたげな、憐れみの目。

その表情はなんだ?
なぜそんな顔をする?
なぜ、

(いいかい、よく覚えておくことだ)
やめろ。
(目を離した隙に鍋が吹きこぼれてしまうように)
……やめろ。
(見えないところで他人が何をしているかなんてわからない)
これはなんだ? 私は何を 視ている ?

(君自身が何回殺されているか、わかりやしないんだよ)

――やめろ!

はっとして顔を上げると、キャスがひどく戸惑っているのが見えた。
慌てて平静を取り繕う。
大丈夫。私は、正常だ。おかしいところなどない。ただ人より、かなり目がいいだけだ。
白昼夢のようなものだって、変な夢を見たせいだ。そう、あの昼寝がいけなかった。しばらく昼寝はやめよう。
声をかけるのをためらっているようだったので、私は自分からペンを紙に走らせた。
何がどうあろうとも、私は今の私以外にはなれない。だから何も思わない、と、心にもないことを書いてみせる。
顔を曇らせた理由は聞かない。黙ってしまった理由も聞かない。それはきっと、聞いてはいけないことだ。
私にはアリアナが、アビィが、グエンが、そしてドナがいる。こんな私を気にかけてくれる人がいる。それで十分だ。
(もうわかっているんだろう)
――わからない。聞かなければ本当のことなど永遠にわかりはしない。
私は今の私以外にはなれない。それは本心だった。だから、聞いたところでどうしようもないのだ。
たとえ私の異常を反論する証拠が宙ぶらりんになったとしても、証拠がないだけで黒と決まるわけではないはずだ。
キャスに向かって緩く笑んだ。上手く笑えたかはわからないが、キャスは私の動揺を見抜いた。
「……変なこと言ったな。悪い」
彼はまたしてもあっさりと謝罪してみせた。
激しい気性とは裏腹に、自分の非は潔く認める性分であるらしい。
どうしてそうやってすぐに謝ってしまえるのか。私はいつもいつもタイミングを逃してはうやむやにしてしまうというのに。
 そういえばあの人もそうだった。言い訳もせず、自分の主張を押し込めて行動で示そうとする。相手を傷つけたとわかればすぐに詫びる。
(あの人とは誰だ?)
 似ているのだ。彼に。キャスもまた、自分の中にあるものを押し込んでいるのだろうか。その根源はなんだろうか。
(知る必要はない知る必要はない知る必要は)
――私は首を振った。一つはキャスへの返答のため、もう一つは奇妙な白昼夢を消し去るため。
だが白昼夢は消えなかった。キャスの姿さえ、誰かの姿に重なって見える。それが誰なのか私にはわからない。
わからないはずだ。
頭がごちゃごちゃに混乱していた。異常、白昼夢、他人の目、そして、キャスに対する羨望。
全てが入り混じっては乱雑に脳裏へ放り出される。今までにない、そう、――異常。

もうそろそろ寝た方がいい、私はそう伝えた。
まともにキャスの顔を見ることさえできなかった。






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