地面に転ばされれば、砂を噛んだ皮膚から血が出る。
どんなに軽くでも蹴られれば、そこはじんじんと痛む。
持ち物を取り上げられれば、これまでになかった凶暴な気持ちさえ心を蝕んでいく。
だから暴力は嫌いだった。暴力につながる身体能力などいらなかった。
同い年の子供たちが好むことといえば、もっぱら外で駆け回る肉体的な遊びばかり。そんなものがどうして楽しいだろう。
駆け回れば転ぶし、ささいな掛け違いでケンカにもなる。服が当たっただの当たらないだの、そんな争いに巻き込まれるのもごめんだった。
学校でも家でも私はずっと本を、それも話しかけられたくがないために自分でも理解できないような小難しいものばかり読んでいた。
こんな生意気な子供がいじめられないわけもない。今の私がわかっていてもあの頃の
(私は学校に行っていた覚えさえないのに?)
私にはそれを理解することなどできなかったのだ。

彼らが私をからかうのはこの耳のせいだとしても、耳が聞こえなくて良かったと、暴行を受けた時にはいつも思っていた。
情報を選ぶことができる。知りたくない情報は目をそらすだけで遮断され、絶対に伝わることがない。
私は彼らの顔を見なかった。顔を見れば口も見える。何を言われているかなんて知りたくもなかった。
一度だけ、見てしまったことがある。知りたくなかった情報を知ってしまったことがある。
いくら転ばされても蹴られても物を取り上げられても、そのたった一言の痛みに遠く及ばない。
暴力につながるのなら、聴力さえも疎ましい。
私は蹴られながらぼんやりと、なぜ自分が生きているのだろう、と考えていた。





03:崩壊の足音





グエン。
私の唯一の親友ともいえる男。
わが国の仇敵。
それでも私は彼を慕っていた。

わかっていた。十年以上「屋根裏」、この施設で暮らしているはずなのに、一部を除いて誰も私に話しかけてきてはくれないことくらい、わかっていた。
無理やり切り上げてきた先ほどの会話を思い返す。考えたくないことに限って気がつけばそのことばかりが頭を占領していく。
これまで抑圧してきただけだ。私の視力が不自然で異常なのだということに気づかないほうがおかしい。
だがキャスに指摘されるまで、私はすっかりそのことを忘れていた。忘れさせていたのだ。
そのことを思い出せば、この家族同然の共同体の中に、私を好ましい目で見る人が片手で数えられる程度しか存在しないことも思い出してしまう。
極力避けていた人ごみの中で、私に向けられていた視線や言葉にも気づいてしまう。
五十人近くと一緒に暮らしているにもかかわらず、私はその中のほんの一握りとしか話さないこと、
名前を知っているものすら半分に及ばないこと。どうしてこれを疑問に思わないだろうか。
(地上を嫌うもぐらのように)人を忌み嫌い、昼夜逆転の生活をし、それを苦とも思わないなどと、誰が言えるだろうか。
はっきりとわかっている。だから避けてきた。
私は嫌われているのではない。気味悪がられ、恐れられている。

異常な視力を持ち始めたのがいつだったのかは本当に覚えていない。
拾われてから半年ほど、その時初めて、自分の目が常軌を逸していることを悟り始めた。
特に大事件があったというわけではない。ただ、悪いことが何であるかを知らず、見たものを他人へ話してしまっただけだ。
些細な、時には大きな悪事はすぐに広まる。被害者の耳にも加害者の耳にも届く。情報をもたらしたものが私だということも当然わかる。
それからどういった会話がなされたのかはわからない。私に見えないよう、周到に囁かれていたのかもしれない。
「君はとても目がいいんだね、すごいね。でも、大人には見られたくないこともあるんだよ」
そう私に言い含めた大人の目が怖かった。今にして思えば、私に敵意を抱いた目だったのか。
気がつけば私と目を合わせる者がいなくなった。こちらから話しかけてもぎこちない返事しか返ってこないので、いつしか話しかけることもやめた。
当時はドナだけが私といつもどおりに接してくれたが、彼らのささやかな拒絶は私に恐れを抱かせた。
彼女にだけは嫌われたくない。話しかければ嫌われるかもしれない。何かを見れば嫌われるかもしれない。
そうして出来上がったのが今の私、その根本だ。

グエンを見つけたときの私はすっかり一人でいることに慣れ、過去を忘却することに成功しつつあった。
だがまたしても私はよくないものを見てしまう。グエンの発見。これは今まででも最悪の目撃だった。
すぐに敵国の兵士だとわかった。彼らは砂漠の住民だ。砂の色をした軍服は森の中ではよく目立った。
そのまま通り過ぎようかとも思ったが、どうしても気になった。川まで降りてみて、少し後悔したのをよく覚えている。
獣のような、荒々しい敵意。(あの動物は、なんという名前だっただろうか)
いや、殺意と言ってもよかった。彼のテリトリーに入ってきた私を射抜いたものだ。
あの時だけは、彼は確かに敵国の兵士そのものだった。
私に敵意も力もないのを見てとるとその殺気も一瞬で抜けた。気が抜けるほどあっさりと、「水なんて嫌いだ」などとわけのわからないうわごとを呟いてみせたのだ。
よく見ると彼は傷を負っていた。平気そうな顔をしているが、放っておくと死ぬような傷に見えた。
迷った末に私は彼に手を差し伸べた。
彼――グエンもまた、一人だったからかもしれない。

私は聞こえないし、見ることもやめた。
だからグエンが施設に入ったいきさつも知らない。ただ、ドナは少し機嫌がよさそうで、他の大人たちはみんな不機嫌そうにこちらを見ているような気がした。
あんたに会いたがってたよ、とドナに言われグエンに割り当てられた部屋を見舞う。ベッドしかない殺風景な部屋に包帯姿の彼が座っていた。
無駄のない体つき。鋭い目つき。昨日今日ついたのではない傷跡。
施設の者はみんな彼を敬遠していたが、目の前に座る男はとても優しい目をしていたように思った。少なくとも、ここの人間より。
グエンは私に「ありがとう」と言った。見つけてくれて、助けてくれてありがとうと。
初めて言われた言葉だった。






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