知らない間に頬を伝っていた涙をぬぐう。
今、胸の中にあふれているものがどういった感情なのかわからない。
暗闇で三十路すぎの男が泣いているなんて恥もいいところだが、そう考えたところで涙が乾くわけでもない。
悲しいのだろうか。辛いのだろうか。
忘れようとしていた傷が開き、それが痛くて泣いているのかもしれない。
恐怖の目を向けられながら、それを自覚しながら平然と立っていられるほど私は強くはなかった。
それでも、先ほどの会話を終えて呆然と部屋に帰っていく私に声をかけてくれたグエンのことを思い出す。
彼はいつだって普通に私と接してくれた。
私の噂を聞いていたはずなのに、それが概ね事実だということも知っているのに、声をかけてくれた。
ばかばかしいかもしれない。彼にとっては私など些末な存在かもしれない。
さっきだって「トイレか?」と聞かれただけだ。何も知らない呑気な問いかけ。
だが、それだけの言葉が、たまらなく大切で嬉しい。くだらなくばかばかしい言葉を交わせることが、私にとってどれほど貴重だろうか。
グエンだけではない。私にはドナやアビィや、そしてアリアナもいる。
施設の全員と仲良くなろうだなんて最初から思ってはいない。そう、限られていても親しい者が私には、いる。
ただ、涙は止まらなかった。後から後からあふれてはシャツを濡らす。
それはきっと、一つの懸念によるものかもしれない。頭の片隅で次第にふくらんでいく、

(三人の悪魔を知っている)
(一人は生まれて母を殺し)
(一人は神へと復讐を誓い)
(一人は悪魔に魂を売った)

(さて、その悪魔とはおれのことか? それともおまえたちのことかな?)

もう一つ別の意識。
少しそちらへ傾けると、あっさりと私の脳内を占領し始めるほどに強烈なものへ変わりつつあった。
グエン。年も近く、初めてで唯一の男友達。
彼の姿を思い浮かべる。そして、私は恐怖していた。
かけがえのない友人を失ってしまうような気がするのだ。この、私の知らない記憶が引き金となって。
なぜだかわからない。ただ、グエンにこの記憶の話はしてはならない気がした。
グエンに話してはいけないとなると、私はやはり一人でこれを抱えていくしかない。
私には彼以上に信頼できる者がいないのだから。アリアナたちに話しても心配されてしまうだけだ。
そう、私はまた、一人きりになってしまう。

(だがその方がいいと自分でもわかってるのだろう?)

――なぜなら。私の意識が、もう一つのそれと混ざり合う。
奇妙に心地よく、そしておぞましい。
――なぜなら、本当に私はばけものかもしれないから。

違う。違う。私の頭に入り込んでくるな。
私はグエンに親近感を持っていた。お互いに異端の目を向けられていたためだ。
だが、それはあくまで異端の「目」であって、異常な視力を持っていても、敵国の人間であったとしても、それは単なる人間にすぎない。
私の別の意識が囁く。
(親友のグエンですら、お前の正体を知ったなら忌み嫌うだろう。人間は人間以外を憎悪するのだから)
――違う。私はごく普通の人間でしかない。何の力もない、普通より非力な人間だ。
かぶりを振ってみても、私の心にこびりついた不安がとれることはない。
ただ、変な意識が紛れ込んでいるだけで、私が人間でないだなどと言えるわけもない。それでも私は不安だった。
私の中の別の意識は、それが持つ記憶は明らかに、普通の人間のものではない。
異形、悪魔、死体、魔術、奇跡、私を(私たちを)悪魔と呼び蔑む群衆。
それらはひどく断片的で、一つ一つが何を表しているのかはわからない。それでも、意識はこの記憶が真実だと主張している。
更に、この意識の主は、どうやら明らかに私自身であるらしかった。
もっと言えば、どう考えても今の私の年齢の数倍は重ねなければ得られないほど膨大な記憶でもあった。
だが私はどうしたって私だ。くだらない人生を三十二年間送ってきただけだ。

わからない。何もかもがわからなくなっていた。
ただ、グエンを、私の親しい人たちを失いたくない。
突き詰めれば、私はこの別の意識のことを話して友達を失ってしまうことを何よりも恐れている。
今は大丈夫でも、次が大丈夫かはわからないのだから。
洩らした嗚咽は私にさえ聞かれることなく、部屋の中で静かに消えた。






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