「ベック! 戻れ!」
瞬間、坊主の兵士は刺青の兵士の名を叫んだ。
童顔の許まであと数歩というところまで来ていた刺青、ベックは、坊主の焦りを微塵も感じ取ることなく鷹揚に振り返った。
「ああ? 何わけわからんこと……」
ベックの言葉は途切れた。
糸の切れた人形のように、ベックはぐにゃりと地面へくずおれた。
気絶、絶命、そのどちらでもなく、彼が立てなくなった理由は、

「  っああああああああああ」両足のひざから下が「あああああああああああ あ」完全に消滅したためで「 あ あ、ああああ」あった。

肺の空気を全て搾り出すように、ベックの悲鳴が断続的にこだまする。
むしり取られでもしたかのようにいびつな断面から、しとどに血が溢れ、暗闇がそれを黒に変えた。彼がもがくたびに勢いづいた飛沫が離れた土をも濡らす。
その光景は、地面から溢れてきた影がベックを飲み込んでいくようにも見えた。
あの童顔の兵士のように。
ふいに、坊主の兵士の横で金属音がした。寡黙な兵士が剣を抜いた音。彼も遅すぎる反応と言えたが、その音を聞いて坊主の兵士もようやく腰の柄に手を掛けた。
手を掛けはしたが、坊主はそこから一歩も動かず、震える視界でただ周囲を警戒した。
ベックの足が消えた瞬間、それ以外は、自分には何も見えなかった――。
その事実、そして足許に不自然な影を落として佇む童顔の兵士の存在が、彼の心に色濃い恐怖を落とす。
混乱を招く隙さえ与えない、絶対的な力が、まだここにあるのだ。

意識の片隅でベックの声が聞こえる。叫び尽くした、今にも消え入りそうな声で助けてくれと呼びかけている。
きっと目を向ければ、白い顔の同僚がこちらを見返していることだろう。
目を向けてはいけない。ベックはどうしたってもう、助からないのが明白だ。
だが、今ここにこうして足に根を生やしている自分も、このままでは同じ運命を辿るだろう。

それならばいっそ前へ進み瀕死のベックを助けるか?
それとも後退し、いつ来るとも知れない応援を要請するべきか?

どちらに転んだところで坊主の兵士に勝ち目などない。何しろ、今ここにいるものが何であるかさえもわからないのだ。
前か、後ろか。痺れきった頭で必死に考え、そして一歩を踏み出そうとした瞬間だった。
「動くと、」
耳たぶに息を感じるほど近く、彼に囁きかけてきた男の声。
次いで坊主の横で、寡黙な兵士がくぐもった咳をする。
「……殺されるよ」
寡黙な兵士が倒れ臥した音と同時に、坊主の兵士は自分が肩を組まれているのだと知った。

さっきまで自分には誰も触れていなかったはずなのに。
さっきまで、あいつは……寡黙なデリーはそこに立っていた、はずなのに。

「あ、う……」
意味のない呻きが洩れる。
坊主の兵士がギリギリ保っていた理性の糸は、音を立てて切れようとしていた。
――これは誰だ? あれは誰だ? あれは、あれは俺がずっとからかっていたハンス。なんだ、暗闇で見えないって思ってたけどよく見えるじゃないか。顔がなくなっているんなら、あいつはほんとにハンスなんだろうか。あれは、あれは俺と同期のベック。ひゅうひゅう言いながら祈り続ける俺の友達。そこにいるのは、結局ほとんど話さなかった古株のデリー。きっと喉をやられたんだ。よかったなあ、よかったなあ。苦しまずに死ねたじゃないか。
――じゃあ。じゃあ、いったい横のこいつは、何者なんだ?

糸が、切れてしまうその瞬間、彼は腕を振り上げ叫ぼうとした。
だがそれさえも、糸を切ることさえも適わなかった。
「もう一度言おうか?」
声が聞こえた瞬間、坊主の兵士はまるで氷漬けにされたかのような凍てついた悪寒を味わった。
それは悪寒だけにとどまらず、体までをも蝕む。一指さえ動かすことができない、ただ、肩を組まされているだけだというのに。
敵意が、あるいは殺意が、彼の全身を射抜いていた。
 その男は、変わらず彼に囁きかけてくる。
「動くと殺されるよ」
殺しているのは本人だろうに、ずいぶんと他人事な物言いだ。だが坊主の兵士には憤りさえわかなかった。
男の声。男の体。その全てを意識していても、坊主の兵士にはこの男が人間であるとは思えなかった。
人の皮をかぶった別の何か。こんなものが人間だなどとは、断じて、有り得ない。
横で親しげに体を寄せてくる存在そのものに対する違和感と恐怖とで満たされている。
彼の肩を掴む男の指が、わずかにぬめっているのを感じる。それを意識しただけで、彼はとてつもない嫌悪感と吐き気に襲われた。
「利口な子は殺されない。だから君は殺されない。僕の言葉が、わかるかな?」
高くもない、低くもない、無感動でありながら歌うような調子の声が届く。
坊主の兵士は単に身が竦んで動けないだけだった。今でさえ、その男の発したせりふをきちんと理解することができずにいた。
だが彼がどのような感情によって縛られているのかなど、男にはさして重要な問題ではないようだ。
坊主が微動だにしないことを確認して、満足げな笑いをもらした。喉で押し殺したような控えめな笑い声が、坊主の兵士に言い知れない悪寒をもたらす。
「利口な子、いい子には、きっとごほうびがもらえるよ」
――だからごほうびをもらいにいくんだ。
また笑い声。喉の奥に隠した、それでも隠れきれない強い喜びの声が、耳に直接流れ込んでくる。

男がそこで始めて、坊主の兵士を解放した。
そこで逃げるのが賢明だっただろうか。 いや。
彼はやはり、呆然と立ち尽くしていた。震えもなく、呼吸さえ止めて、目の前の男をひたすらに眺めるしかなかった。
自分よりはるかに背が高く、黒髪を肩ほどまで伸ばしたその男の正体は、自分たちと同じ兵士だった。
それどころではない。
顔が見えなくとも、背を向けていても、坊主の兵士にはその兵士がどのような兵士であるかさえも、わかってしまったのだ。

その男はまるで公園を散歩するかのように軽やかな足取りで、まっすぐゆったりと歩を進める。その先にはガウェナ側の門、いや、それより前には、
「……土は肉となり……たましいの……与えられ……」
息も絶え絶えに、それでも祈りの言葉を紡ぎ続ける、ベックがいた。
男はベックのそばにひざまずく。坊主たちの着る正規のそれとは違い、上下ひとつなぎになった軍服がぴんと張った。
坊主の兵士からは、ベックの表情は見えない。だが、かすれきったベックの声は、彼の感情を推し量るに難くなかった。
「……ああ、天使様……、天使様が……来てくれた……」
ずっと憧れていたその人に会えたのだ。もし健康ならば、泣いてさえいたかもしれない。
今もひょっとすると、泣いているのかもしれなかった。
だが、ベックは間違っていた。その憧れの人は、ほかならぬベック自身を、
「……神様……キリルさ……が……」
もはや今際の言葉となりかけたベックのせりふを聞き終える前に、男は、そっとベックの上半身を抱き上げた。
ベックはよりいっそうの歓喜に包まれたことだろう。だが、やはり、坊主の兵士にはそれが地獄の光景にしか見えなかった。
「違うよ」
男が囁く。
「実は僕、悪魔なんだ」
骨のよじれる音がして、それきり、ベックの声は止んだ。
男が立ち上がった時も、彼は土袋のようにドサリと落ちただけだった。
影に、呑み込まれてしまったのだろう。そう思った。

男がこちらを振り返った時、坊主の兵士はもはや恐怖を感じてはいなかった。
麻痺してしまっただけなのかもしれない。自分でも驚くほどすんなりと、目の前の悪魔に声をかけていた。
「どうして、あなたが」
舌がからからに乾いていたことに、その時初めて気がついた。だがそんなことはどうでもよかった。
信じられなかったのだ。まさか、
「あの――英雄が。同胞を殺すなんて」
英雄と呼ばれた男は、ただ微笑んだだけだった。
目を細め、閉じた口角を吊り上げた完璧な微笑み。彫刻のような、微笑みだ。群集を安心させ、国を勝利へと導く天使の笑顔。
だが、細められた目を見た瞬間、坊主の兵士は目の前にいる英雄の本質を悟った。
英雄など、幻想に過ぎなかったのだ。
それとも、本当に――悪魔に憑かれてしまったのだろうか?

英雄、アルバート・セルバシュタインはねばついた影を纏い、悠然と坊主の兵士のそばを通り過ぎて行く。
目的地は既に聞いていた。デントバリーへ向かうのだ。
あの寂れた田舎町に、一体何があるのだろう。何が起きるのか、想像もつかなかった。
あの男が本当に悪魔というのなら、国民を守る兵士として、かつての英雄を止めなければならない。
わかっていても、坊主の兵士は振り返ることすらできなかった。
重く圧し掛かる気配が消えて、濃い死臭を意識できるようになった頃、ようやく縛られた意識が解けてくる。
朝日も昇りかけていた。光が影を追い払う。だが追い払われなかった影は、血だまりとして残った。
あれは影ではなかった。あれは土袋ではなかった。これらはすべて、人間だったのだ――。
「――神よ」
坊主の男は、力なく膝をついて、心から祈った。






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