――何だって?
スープを注ごうとしていたグエンも手を止め、こちらへ回り込んできた。
「噂じゃあ賊に入られたとか、化物に食われたとか、……敵のスパイが入り込んだ、とか」
最後の言葉に思わずグエンの顔を見た。
全くの無表情からは、彼が何を考えているのかをうかがい知ることはできない。

「まあそんな感じで、実際何がどうなってるかなんてわかっちゃいないんだけどさ」
グエンの心情を察してかドナがあえて明るく笑い飛ばした。そして、でもね、と続ける。
「兵士が殺されたのは本当さ。なんでも、ひどく惨たらしい殺され方だっていうんだよ。
 犯人が賊にしろ化物にしろ、こっちからガウェナ向きへはありえないだろ? だから犯人はここいらに潜んでいるだろうって」
「えらく断定するんだな。ガウェナから来て、また元の道を戻ったかもしれないじゃないか」
スパイの話を飛ばして説明をするドナに対し、グエンはごく当たり障りのない疑問をぶつけた。
「あたしも見たわけじゃないしわからないよ。だから話によるとね、それならこっち側の門は閉まったままだろ?
 だけど、どっちの門も開いてたんだってさ」
どちらの門が開いていようが閉まっていようが、皆殺しならば鍵を盗んで偽装することなど簡単だ。
そうは思ったが、何かしら他の根拠があるのかもしれない。噂でしかないのだ。
私たち三人はしばらく沈黙した。
「……まあ、用心に越したことはないってことさ」
それを破るのは、とりなすようなドナの笑い声だった。
グエンもそれに頷いてひとまずは顔を緩ませる。
対する私はというと、腹の底にもやもやとした違和感が残ったが、余計なことは何も考えないことにした。

「……あ、そういえばアビィたちは?」 日常の会話に戻ろうと、グエンが何気ないことを訊ねた。
確かに食堂には彼女たち姉妹の姿はなかった。起きる時間が違うのかとも思ったのだが、そうではないらしい。
「あの子たちなら、マギーたちにくっついて行ったよ」
「あいつらに?」
「朝一番に教会から使いが来てね。急に召集がかかったそうだよ。アビィとアリアナは買い物と野次馬のついでに出てっただけだから、すぐ戻ると思う」
その会話に、否応なく昨夜の記憶が掘り返される。マギーと、そしてキャス。

(――そうだ、夢を見た)誰かが待っている、と言った。私を。 誰だ?
(知らないとでも言うつもりか?)

そしてまた埋めなおす。
覚えていたって(彼が)良いことなど(忘れろと)ありは(言っ……)、しない。

キャスに会う勇気はまだなかった。
突然の召集など良いことであるはずもないが、今の私にとっては正直ありがたい報せだ。
彼は何一つ悪いことをしていない。それでも、今、キャスに会って埋めたものが掘り返されないという確証はなかった。

ともあれ、話は一区切りがついた。
「あんたはできるだけおとなしくしておくんだよ」と捨て台詞を残して去るドナを見送り、ひとまずは残りの食べ物をすべて取っていくことにした。
人気が徐々に減りつつある食堂でも、とりわけ人気のない席に向かい合って座る。
そのわずかな間に、心なしか周囲の視線を感じたのはおそらく気のせいではないだろう。
ちらりと様子をうかがうと、グエンの目つきも険しくなっているように感じられた。

噂の中にあったスパイ説。施設の者は皆、彼がかつて敵国の兵であったと知っているのだから、この視線も無理からぬことかもしれない。
もちろん喜ばしいことではない。私はやはりメモを持ってきておくべきだったかと思ったが、
そもそもかける言葉が思いつかないのだから、やはり無用の長物である気もした。
さっきまであった食欲はすっかりなくなってしまったが、惰性でひとまずパンをスープに浸す。
「……」
と、グエンの口が動いたのが視界の端に見えた。
「俺だったらどうする?」
そう言っていた。

グエンが?
さっきまでそのことを考えていたにもかかわらず、私は一瞬彼が何を言っているのかわからなかった。
私自身がグエンのことを疑うべきかどうかなど、露ほども考えていない。考えるはずがない。だいたい――
唖然としているのがわかったのだろう、グエンはいつもよりいっそう気怠げに息を吐く。
それがきっかけだった。

「そんなわけないって顔だな。ついでに当ててやるよ、――だいたい、この街に潜伏しているという話だって眉唾ものじゃないか、ってとこか。
 殺されたことだけしかわかってないなら、それこそ俺だって、お前だって、全員に疑いがあるんだ。その中で一番もっともらしいのは、誰だ?」
ひとつめ、と指を折る。
「惨殺なんてできるわけがない。これもどうかな。俺を見くびってもらっちゃ困る。
 ブランクを差し引いても、前線で戦いまくってた俺とあのおちこぼれ四人衆とじゃ、力の差は見えてる。
 四人を一気に相手する必要もない。夜隠れて一人ずつでもいいし、酔いつぶれたところを襲ってもいい。隙だらけだ」
ふたつめ。冷酷なことを指摘しながら、彼は自嘲するかのように笑っていた。
「理由がない。もしそう思うのなら、お前はお人よしどころかただのバカだ」
突然まくしたてられ、そしていきなりのバカ呼ばわり。
怒るところなのかもしれない。だが私はなんとなく抗議できなかった。
「――ドナやアリアナ、アビィもその一員ってとこか」
笑いどころのない皮肉を言い、そしてまた嘲るように笑いをもらす。
別人となったかのような、冷たい物言い。それでも私は彼の話が続くのを待った。
「俺が昔、あの国で何をしたか、どういうところにいたのか。なぜ逃げたのか。
 もし俺が話していたとしても、それは全部嘘かもしれない。本当はまだ骨の髄まで軍人のままかもしれない。
 お前らを憎んでいて、復讐しようとしているのかもしれない」
グエンの顔から笑みが消える。
「お前は本当に俺を信じるのか? 何の根拠もなく人を信じる奴はバカだ。
 実際、お前や他数名以外の奴らを見ろ。
 俺が犯人ではないのか、何か関係があるんじゃないか、いや犯人に違いないって目をしてる。でもそれが普通だろ」
そこで彼は口を閉ざし、冷たくこちらを見据えた。最初に会ったときのような鋭い眼差しに、場違いだとわかっていても懐かしくさえ思う。
出会った当初のことを思い返せば、彼はもともとはこういう素っ気無い性格をしていた。ずいぶん丸くなったものだ。
見合っていたのは実際には二、三秒だっただろう。
私があまりに間抜けな連想ばかりしているせいで気が抜けたのか、一つ息を吐くと、彼は元の気怠げな表情に戻った。
「あれだ。無闇に人を信じるな。ほんとに俺だったらどうするんだ」
だが、グエンではないのだろう。その返答を込めて軽く首をかしげる。
たったそれだけの動作でも、彼は私の意図を汲み取ってくれる。いつだってそうだ。
それだけでもこの男が信じるに値するという証拠になる。自然と笑みがもれた。
「やるならもっと前にやってるよ。でも証拠がない。……面倒なことになってきたよ、全く」
なんでもない風に受け答えしているが、端から見たらテレパシーでもしているのかというほど奇妙な光景だろう。そのことに気付いているのだろうか。
グエンの最後の言葉に含まれている意味をよく理解しないまま、私はここ最近で一番安らかな気持ちに、一人、ひたっていた。
浸っていたままのパンはもはや原型をとどめていなかったが。






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