「――い、おい。大丈夫か」
私に声をかけてくるグエンの姿が二重に見える。
朝から感じていた頭痛は、食事を終えた頃から徐々にひどくなっていた。
今もこめかみを揉んでなんとか落ち着かないかと苦心しているが、痛みはひどくなる一方だ。

私たちはまだ食堂にいた。食器はとうに片付いている。代わりに机には、色の薄いコーヒーが二杯、消えてしまいそうな湯気をのぼらせている。
それまで、いつものようにグエンからの一方的な世間話を聞いていた。先の頭痛によってその流れが切れてしまったのだ。
私はこみかみから手を離し、なんでもないと笑ってみせた。痛みに引きつっていないか心配をしながら。
腑に落ちない顔はしていたが、お前が言うならそうだろうとグエンはひとまず納得してみせた。
「昨日が腹で、今日は頭だな」
昨日は別に腹が痛かったわけではないのだが、私はあえて触れずにおいた。
その一瞬、視界がちらつく。実際、秒を追うごとに頭痛はひどくなっている。
「――、あんまり――いな――あの二人は――?」
(まあ、あんまり悪いようなら休めよ。……それにしても遅いな。あの二人はどこほっつき歩いてんだ?)
グエンが何を言っているのかよくわからなかった。口の動きが緩慢に見える。とても速く見える。
あの二人がアリアナたちを指しているのか、キャスたちを指しているのかわからない。
私は肩を竦めてみた。それで正解だったようで、グエンは私の不調に気付かず済んでいる。
「――まえって――いっていうか。――? こ――中が言――」
(お前って――)
気付かないふり気付かないふりわたしは気付かない気付いていない聞こえない聞こえていない。
(――ここの連中が言うことは正しいよ)
だめだ。やっぱりわからない。
それでも私は山勘で頷いた。グエンは、グエンは

(お前ってほんと使えない奴だよ。化物。耳も聞こえない頭も使えないなんて生きてる価値がないっていうか。自分でもそう思うだろ?)
(ここの連中が言うことは正しいよ)

「――あ、アリアナ――ビィ」
グエンは私に反応することなく、首を伸ばして向こうへ呼びかけた。
二人が帰ってきたらしい。私はのろのろと体を動かした。
姿を確認する前に、何かがぶつかってきた衝撃が伝わる。視界もふさがれた。
アビィが飛びついてきたのだ。急にのけぞった振動で頭が強く締め上げられ、たまらず彼女を引き剥がした。
「――いま!」
今のはわかる。私は笑ってアビィの頭を撫でてやった。アビィの外見からしてその光景はもはや父親と娘だ。
私の首に手を回して嬉しそうに笑うアビィは、はたと動きを止め訝しげに顔を覗き込んでくる。
「どっか――の?」
「頭――さ」
「――。また――た――な」
たぶん、私の体調を心配してくれているのだろう。会話はもはやほとんどわからなくなっていた。
会話がわからなくとも動きで推測し、こちらへ向き直るアビィを見て、次は私の番だと推察する。
大丈夫だから、とジェスチャーする私にふと影がさした。紙袋を抱えたアリアナがすぐそばでこちらを見下ろしていた。
「――レンツ?」
紙袋をそばの机に置くなり、彼女は両手で私の顔を包み込む。
少し汗ばんだ手のひらが温かかった。
「熱は――だけど」
アリアナが喋る。
「――アナ――性なん――」
アビィが喋る。
「姉さ――でも――?」
(でも、本当に大丈夫?)
まずい。どこにアリアナがいるのかもよくわからなくなってきた。
当然会話などわかろうはずもない。今回は何を聞かれたのかも不明だ。
私はまたしても山勘で、軽く笑ってみた。
どうやら、外れたらしい。
あれよあれよといううちに立たされ、床がどこかもわからない中歩かされ、私は気がつけば馴染みある自分のベッドに入っていた。
アリアナらしきシルエットが鼻先に指を当てて、何かを言っている。
「――――――――」
そこから動くな、今日はずっとそこにいろ、というところだろうか。
頷くと、シルエットの頭部もこっくりと上下するのがわかった。 「――――――――」
扉へ向かい、振り返って、また何かを言う。
彼女にも仕事がある。また様子を見に来るから、おとなしくしておけ。
そう勝手に解釈して、私は軽く手を振った。
「――!」
勢いよく扉が閉まった。怒らせてしまったのだろうか。

一人、部屋に取り残された。
頭痛はひどくなりすぎて、今は痛いのかどうかもよくわからない。痛みはないとさえ思える。
それよりも視界の悪さのほうが問題だった。壁と窓はわかるが、窓枠がさっぱり見えない。
試しにこめかみを揉んでみた。これで改善されるなら苦労はしない。
次に、自分の手のひらを眺めてみた。近くから、遠く離して。
指がまるごと削げ落ちたようにしか見えなかった。
何も聞こえない。
何も見えない。
恐怖しているはずなのに、心は薄気味悪いほど落ち着いてもいる。
自分がここにいるのかどうかすらわからなくなっている。それでも、薄気味悪いほど、心地よくさえ、ある。
……。
どうせ何も見えないのならと、私は目を閉じてみることにした。
すると、不思議なことに、さっきよりはるかに鮮明な寝室が浮かび上がってきた。
薄緑の壁紙。ほとんど空っぽの小さな洋服だんす。雨漏りで染みのできた天井。
記憶の光景なのだろうか。ならばその先も見通してみよう……。
……部屋のすぐ外側。アリアナが、洗濯物を干している。時々、心配そうに私の部屋がある方を見上げている。
中庭では、アビィが子供たちと一緒に玉けりをして遊んでいる。巻き上がる土煙に文句を言う女の子たち。
勝手口で、ドナとグエンが何か話をしている。メモを渡す。お使いに向かうのだろう。
施設へ向かう道。街の終わり、丘のふもとの手前に、重い顔をしたキャスとマギーが歩いている。

商店街。魚に群がる蝿たち。作業に従事する施設の者。噂をする。グエンを想像している。
噂。噂。噂。噂が飛び交う。噂が濃くなる。噂ではなく、事実を口にする兵士たち。
人が死んだ。死んでいた。門と門の間で、一つ、二つ、三つの血だまり。
血だまりに群がる蝿たち。人が死んでいる。門を超えた、搬送車の荷台の上で。
物々しい顔をした兵士たち。守られる兵士の死体。
顔がない。足がない。血がない。折れた首。
知っている。こんな死体を、私はたぶん、見たことがある。
「……」
――声がした。
声が、聞こえたのだ。
聞こえるはずがない。それでも、確かに耳に届いた。
どこから聞こえたのか。
「……」
ここではない。関所。街道。商店街。施設。
グエンとキャスたちが話をしている。
「……」
違う。もっと、もっと反対側。
私の部屋を突き抜けて、そう、封鎖された裏道の……。
私は目を閉じたまま立ち上がった。
いや、開いているのかもしれない。わからない。見えているのだから、開いているのだろう。
どこまででも見えるのに、私の体はひどく鈍い。歩かなければ辿り着けない。
(メモを忘れないように)
「……」
扉を開ける。きぃ、と音がしたような気がした。
気のせいだ。
廊下に出る。
(心配を、かけては、いけないから、誰にも、見られない、ように、行くんだ)
……厨房から直接裏道に抜けよう。ドナはアリアナと、洗濯場で話をしている。
階段をひっそりと降りる。誰もいない。厨房まで、誰も。
「……」
待って。今、行くから。
厨房の勝手口を開ける。徐々に上がっていく外気。すでに頬が熱い。
森は、自然は、どうやってこの熱を乗り切っているのだろう。すぐそばは乾いた砂なのに。
壊れた柵の向こうに木々が茂っている。
かすれた写真のような、褪せた葉が、熱に焼かれながら日光を取り入れる。
私は柵を乗り越える。
見えない。そこから先が、なぜか、見えない。
「……」
声が少しだけ近づいた。
最初は広い道が、やがて獣道へ変わる。
大丈夫、何も出ることはない。
狐も熊も兎も猫も、みんなみんな死んでしまったのだから。
(キツネ? クマ? ウサギ? ネコ?)
それよりもあそこへ行こう。
「……」
きっとあそこにいる。
(あそこってどこだ)
あの声があるところが、あそこになるのさ。
(違う、私はこっちじゃない、そっちが私だ)
こっちもそっちもあるものか。
(お前は誰だ? 私を返せ、そっちは私のものだ)
こっちもそっちもわたしのものだ。おまえはしっぽをなくしたわたし。
(それ以上言うな、考えるな、やめろ、知りたくない知りたくない)
おまえはわたしで、わたしは
(――思い出したくない!)
おまえ。

誰もいない。
誰もいないじゃないか。
あそこではないのか。
(……)
ここは、あそこではなかったのか。
そうか。
もしかして、おまえの声が聞こえたのかもしれない。
(……)
ずっと、ずっと聞こえていたよ。
いまいましいその声。
それでも、おまえは望むのだろう。
思い出したいと思ったのだろう。
(……)
もう無理だ。戻れはしない。
だって、あいつと出会ってしまった。
だから言ったのに。
(……)
だからあれほど、思い出すなと言ったのに。
(……)
もういい。
おまえはもう、終わりをうしないかけている。
おまえはわたし、
わたしはおまえ。
ほら、もう、聞こえるだろう。


(……死ねない)
(……死にたい)






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