閑職を一日休めとの命がくだり、早めの就寝を余儀なくされた。
今まで昼夜逆転の生活をしていたため、眠れるかどうかが心配だったが、私はベッドに潜りこむと同時に眠ってしまったようだ。
疲れていたのかもしれない。だが何に疲れていたのであったか、そもそも昨日一日何があったのだったか。
目覚めた私の頭はかつてないほどすっきりしていて、わざわざ過ぎたことを思い出すのもわずらわしかった。

朝の光を受けながら軽く伸びをする。気温は既に昇り始めていたが、それでも朝の空気というものは清々しい。
窓を開けて外気を取り込みながら、どうして今までの私は朝というものを忌み嫌っていたのか、と疑問に思った。
サイドボードの上のメモを胸ポケットにしまいつつ、ふと窓の外を見下ろす。
まだ乾ききっていない洗濯物がはたはたと風に揺らめいていた。仄かな石鹸の香りが鼻をくすぐる。
知らず顔を綻ばせていると、空腹感に気がついた。正しい時間帯に起きたせいだろうか。
腕時計を見る。針は八時半過ぎを指していた。食堂が開くのは午前六時と九時の二回だから、今から向かえばちょうどいい頃合になるだろう。
ひとまず洗面所に向かう。すれ違った男に挨拶をした。とはいっても私は喋れないので、軽く会釈をしただけだ。
男、そうだ、確かエヴァンという名の年若い彼は、なぜか驚いた様子で立ち止まっていた。
それどころか、その後もすれ違う人たち誰もが、私が目を向けるだけで動きを止め、目を開き、呆然とする。
子供たちは返事をしてくれたが、彼らもややあってから不思議そうに首を傾げる始末だ。
まあいい。道中では親しい人に出会わなかったが、グエンたちならいつも通りに接してくれるだろう。
気を取り直して用を足し、また不思議な現象に首をかしげつつも食堂の扉を開く。
いつもの奥まった隅の席に、グエン、アリアナ、アビィ、そしてキャスとマギーが固まっていた。
アリアナはすでに朝食を終えたらしく頬杖をついて雑談に興じている。
施設の朝は早い。食堂は早くもにぎわっている。私はむしろ、寝坊したとも言えた。

皆の姿を確認していると、こちら向きに座るマギーと目が合った。遠いのでここから詳しくは見えないが、慌てた様子で何かを皆に喋っている。
唯一口に何も入れていないアリアナが我先にと立ち上がって、
「おとなしくしてろって言ったじゃない!」
小走りで向かってくるなり私を叱りつけた。
私としては、彼女の体格からしてそんなに慌てると危ないと叱ってやりたいくらいだ。
そんな彼女が厳しい顔をしたのも一瞬で、すぐに私の頬を大きな両手で包み、顔を覗き込んできた。
「大丈夫? 熱はない? 痛いところは、……」
過保護すぎる彼女の様子に首を傾げる。
そこまで心配されるような覚えはないが、彼女があまりに心配そうに眉を下げているので、そのいじらしさについ笑みがもれた。
するとアリアナは突然言葉を切って絶句する。絵に描いたように目が点になっていた。
更に一拍を置いて、彼女の顔はみるみる真っ赤に染まった。
くちをぱくぱくと動かしている。言葉にはなっておらず、だいぶ動揺しているように見えた。
そのめまぐるしい表情の変化は面白かったが、朝食をとるために食堂に来たのだから早く席に着きたい。
九時前でも料理はあらかた並べられている。彼女が何に驚いているのかは見当もつかないし、なくなる前にとってしまいたいというのが本音だ。
不可思議な妹分の頭……は届かないので、肘のあたりを軽く叩いてやる。
我に返ったアリアナは、それでもまだ顔を赤くして、呆けた様子で戻っていった。
さて、と盆を取りテーブルへ向かう。その間、周囲からの視線を感じた。
軽く見渡すと、先ほどすれちがったエヴァンなどと目が合った。
彼らは朝と同様、すぐに目を逸らしたが、息もつかずに興奮した面持ちで隣や向かいと囁きあっていた。

気を取り直して私は皿一杯の朝食を盛り、その最中にもひしひしと感じる視線を、背に全身に受けつつグエンたちの待つ一角へ座った。
彼らも私のことをひどく物珍しげに眺めていた。
なんだか、居心地が悪い。
空気を変えようと笑いかけてみても、火に油を注いでしまっているようだ。何がいけないのだろうか。
「お前、そんなに食べられるのか?」
開口一番にグエンが尋ねてきた。
彼の目は私の前に置かれた朝食に向けられている。何にも興味を示さなさそうなこの男が珍しく瞠目していた。
こちらから言わせれば、彼の食事量の方が信じがたい。皿に山盛り、それも二皿。それからスープやパンなどのつけあわせ。
その量がどこへ消化されるのか問い詰めたいくらいだ。比較的高価な食材の入ったメニューには手をつけないところも彼らしいが、食費の何割が彼の胃袋に消えるのだろうか。
それに比べれば、今私が盛ったものもさほど多いわけではない。山盛りでもなく、単なる一人前だ。
私は確かに小食なほうだが、そこまで言われるほど非常識な行動でもないだろう。
直接には答えず肩をすくめ、固すぎる干し肉を限界まで煮込んだシチューを食べる。
やはり味気はないが、貧しい環境の中でドナが精一杯手間をかけて仕込んだのがうかがえる優しい食感。
久しぶりの空腹感に飢えていた私の胃袋に、じんわりと温かいものが染みていく。
――だから、なぜそんな顔をするのだろうか。
全員が全員、私の一挙一動に注視し、そして大げさなほどに反応していた。
食事に集中したいので会話はいちいち拾ってはいないが、痛いほどの注目を浴びて食べづらい。
非常識の塊であるはずのキャスとマギーですら、食べることさえ忘れている。
……食べづらい。
「レンツ、やっぱり体調悪いんじゃないの?」
あのアビィまでもが心配していた。
食が細いならともかく、むしろ増えているくらいだというのに、この腫れ物扱いはなんなのだろうか。
私などにそんな目を向けるのであれば、三食すべてパン一個ですませてしまうマギーこそ大変ではないか。
男だとか女だとかいう以前の問題だろう。あれだといつか餓死してしまう。
ともかく、なぜ皆して私を不調だと決め付けるのか、わからなかった。むしろすこぶる快調だというのに。
「ねっ、変だって言ったでしょ?」
アリアナがまだ顔を茹だらせてアビィに迫った。
まだ言うか。さすがにうんざりしてきた。
食事をとるのがそんなにおかしいことなのかと、文字を走らせる。
別にそれで、勘違いだったと笑って終わるなどと期待していたわけではない。
だが、まさか神妙な顔つきでひそひそと話されることになろうとは思わなかった。
「……気付いてないんだ、やっぱり」とアビィが面々に向かって言う。
だから、何の話なのか。
私をさしおいて会話している光景に耐え切れず、私はペンを持った。
「それが変なんだってば」
すかさずアビィが私に牽制を入れる。
これが、変なことか?
わけもわからず私を取り囲む一同を見渡す。誰か、異議を唱える者はいないのか。
グエン、アリアナ、マギーは頷いていた。キャスも頷きこそしないが渋い顔をしている。
「お前は進んで会話に参加するような奴じゃない」とグエン。
「その……表情も、いつもよりあるよね」と控えめなアリアナ。
「来てすぐの俺が言うのもどうかと思いますけど、なんつうか、今まではもっと控えめっていうか」とマギー。
「……普通すぎる」
ぽつりと言ったのはキャスだった。その言葉に全員が大きく頷く。手でも叩きそうな勢いだ。
「それだ!」
唖然とする私を差し置いて、アビィが興奮気味に飛び跳ねた。椅子が壊れてしまいそうな勢いで。
「だって、あのレンツが、いろんな大人に挨拶してたっていうんだよ? 大人たちに!」
それの何が悪いのだろうか。
彼らだって施設の一員のはずだ。私の仲間だ。
挨拶をしない方が無礼というものではないか。
たまらず書き出すと、やはり大げさなほどに驚かれる。
「ないよ、有り得ない」
さっきから喧しいアビィがやはり、大口で私の考えを否定した。
彼女は施設の一定以上の年齢の者に対してあまりいい印象を持っていないのだろう。
それはわかるが、この場に対象者が何人もいるというのに、大っぴらにこういうことを話していいのだろうか。
私と同じことを思ったのか、言葉を次ごうとしたアビィをグエンが牽制する。
後ろを振り返る勇気はないが、おそらくいくつかの視線が重なることだろう。






BACK / NEXT






NOVEL-TOP HOME