グエンが制したことにより、アビィ、もとより他の面々の興奮も収まったようだ。
代わりに、人死にでも出たかのような深刻な面持ちで皆、私を眺めてくる。
シチューが冷めかけていた。脂が冷えるとおいしくなくなるのに。
スプーンを持つような雰囲気でないことはさすがに理解している。
「おかしいな」
グエンが言った。
「それは皆わかってるよ」
アビィ、アリアナが同時に返事をした。仲のいい姉妹だ。
おかしいのは皆の方だ。私はそう思ったが、堪えた。
「いや、違う。そうじゃない」とグエンが首を振る。そして唐突に、
「前の自分がどうだったか、思い出せるか?」
ここに来て初めて、意味のある問いが向けられた。
私は考える。
前の自分。
――前の自分、とはなんだ?
私は私だ。今の私がこうであるなら、昔も今もないだろう。
「……わからないのか」
私の答えは不十分だったらしく、なら、と次の質問を投げかけてくる。
「この街の名前は?」
先ほどの問いとはかけ離れた問いに一瞬、呆気にとられる。
デントバリー、と書き終わらないうちに、
「自分の名前は?」
「いつこの施設に来た?」
「施設の名前は?」
「俺を拾ったのはどこだ?」
「アビィとアリアナの出会いは?」
「この二人の名前はわかるか?」
矢継ぎ早に、歴史を辿るような質問が浴びせられる。
当たり前すぎる問いに私はくだらなさを覚えつつも律儀に答えた。
周りの四人も、グエンの意図がわかりかねているようだった。
アリアナが「何やってるの」と尋ねても、片手を挙げて制止される。
だが、私は、
「――昨日、何があった?」
そこでペンを持つ手が止まった。
整然と時系列を辿っていた頭の中が、道を外れたようにとりとめのないものになっていく。

私は、朝起きて、
いや……朝だっただろうか。
昼夜逆転の生活。そう、朝は寝る時間だったのだから、昨日もきっと、昼に起きた。
昼に起きて、ご飯を食べた?
それから?

何も書き出せないでいる私。俯いて紙面を睨んでも、文字が浮かんでくるわけではない。
五人分の視線が向かっているのはわかっていた。
「昨日」
指先で促され、私はのろのろとグエンに目を向ける。
「何か変わったことはあったか?」
変わったこと。
「大きなことだ」、と言われて、私はふと思い出した。
門番が殺されたのだったか。
少し自信を取り戻して、答える。
グエンは眉を寄せたままだった。
「お前に起きたことで、何かなかったか?」
思い出せない。
何かがあったのかどうかさえ、わからない。
グエンは私を担いでいるのではないだろうか、とさえ思える。
しかし、四人の顔が、そうではないことを私に示していた。
「……いや。後にしておく。それが聞きたかったんじゃないんだ」
グエンがかぶりを振って、質問を取り下げた。
私、あるいは他の面々は疑問が残っていたが、グエンはまた異なる問いを用意していた。
「さっき言ってたな。同じ施設の者同士、仲良くしたいって」
アビィの騒ぎで注目を集めたのに警戒してか、こちらに顔を近づけてくる。
私は頷いた。
「それは、今までずっと思っていたことか?」
少し悩んだ。
そこまで深く、考えたことがない。
昔の私が異なる考えだったとしたなら、覚えているはずではないか。
覚えていないということは、つまり、考えが変わっていないということだと、思う。
私はやはり、頷いた。
アリアナが今までとは違った目で私を見た。
奇異なものを目の当たりにした……いや、異質なものを見る目。
「それなら」、とグエンはため息まじりに続ける。
「昔、何かがあっただろう。施設の古株と、お前との間で。思い出せないか?」
私と、彼らの間で?
疑問符を浮かべた瞬間、

――耳だけじゃなくて目も潰れてしまえば良かったのに。

激しい、痛みが、襲った。
頭が割れるように、いや、頭?
頭の、内側だ。
内側の、もっと奥、

『忘れるんだ』

痛い。
……いたい。
忘れる。何を? 何もかも。不必要だと、不幸せになるようなものは全て、全て。それ以外は?
はがれる。はがされる。ぼろぼろと。
痛い。痛い。痛い。痛い。

――叫びだしそうなほど。

がたがた、と机の揺れる振動が、そこかしこで起こった。
私は目を開いた。いつ目を閉じたのだったか。
そして、いつ席を立ったのだろう。
喉が痺れるように傷んでいる。……痛い。
痛いのは、喉だったのだろうか?
でも、なぜ喉が痛いのだろう。
声を出すことなんて有り得ないのに。

私を、皆が、彼ら以外のすべての人が見ていた。
呆気にとられたように、言葉を忘れて、食い入るように。
どうしてそんな目で見るのだろう。
私には何も見えないのに。見えるわけがない。そんなのは、異常だ。
――何が? 何が異常?
だって私は、こんなにも普通じゃないか。
そう、普通。何の変哲もない、むしろ人より多少劣った男。
だからこそ私は言葉以外の方法で他人とコミュニケーションをとらなければならない。
何もおかしいことなどないはずだ。
今の状況は、いや今朝から既にわからないが、私が原因だというのなら、安心させなければならないだろう。
心配してくれるのはありがたい。それでも、本当に私には思い当たる節など見当たらないのだから。
しばらく考え込んでいても、場の凍った空気は動かない。皆、私が次に何をするのかと恐々とした目でこちらを見ている。
私は、誰にともなく、少し笑ってみた。
別になんともないのだと。
心配される謂れはないのだと。






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