その直後だった。
「……っ」
私の斜め向かいにいたアリアナの目から、涙が溢れたのは。
音が聞こえなくとも、ざわついた空気をひしひしと感じる。皆が、私に、アリアナに注目していた。
そして彼女は私を見ていた。そして、泣いていた。
私のせいで、泣いてしまった?
アリアナの泣き顔に気付いたアビィが、すぐさま厳しい表情でこちらを睨んできた。
いかに普段が子供っぽく、妹に背を抜かされていても、彼女はやはりアリアナの姉なのだ。
しかし、なぜ私がそんなにも責められなければならないのだろう。
私はただ、普通にしているだけなのに。

いたたまれず、私はアリアナに手を伸ばそうとした。
その行動を制止しにかかったのは、グエンの手。思わず視線をそちらへ移す。
グエンはまだ、口を真一文字に引き結んでいた。彼もまた、私を責めるのだろうかと身構える。
――こんなはずじゃなかったのに。
ふと頭に思い浮かんだ、脈絡のない考えを打ち消して、言葉を待った。
「部屋に戻れ」
グエンが発したのは、とても短い言葉だった。
なぜ、と問いたかった。それでも、有無を言わさない彼の目に圧され、私は料理をほとんど平らげないまま、席を立つ。
食堂を出るまでがとても長い道のりに思えた。誰も彼もが、私を見ていた。
異質なものを見るかのように。
あのドナでさえ、厨房の隙間から、同じ目で私を見ていた。
なぜ。どうして。
(彼らはこれを望んでいたのではなかったのか)
……部屋に戻っても、腹が鳴るばかりで、何をしたいわけでもなかった。
私は今日、皆でくだらない雑談をしたいと思っていたのに。
無意味に狭い室内を巡りながら、いっそここから出てしまおうかと思った。
そもそも私には、何も非はないはずだった。何が悪いのだろうか。 わからない。意味が、わからない。
ここから出て、アリアナに出会い、そして彼女も私の様子に安堵し笑う。
想像はしたが私はそれでも、扉を開けなかった。無意味に部屋を歩く。
何もかもがわからないが、たぶん私の想像と真逆の現実が待っているだろうことはわかっていた。
ならば私はここで待つしかない。誰が来るのか、誰も来ないかもしれないが、それでも待つしかなかった。
アリアナの涙が脳裏に蘇る。首筋がちりちりと痛んだ。
そしてグエンの、ドナのまなざし、アビィの敵意、マギーやキャスの当惑。
周囲の皆から向けられる恐怖の視線が次々に呼び起こされた。
歩くのをやめ、ベッドに座り込んで頭を抱えた。
なんで、どうして。この二語が頭の中でぐるぐると回っている。
それ以上の考えはちっとも浮かんでこない。何がわからないのかさえ、わからないのだから。


どれくらいそうしていただろうか、気配を感じて、私はゆっくりと顔を上げた。
グエンか、ドナか。そう思っていた私の前に立っていたのは、本当にまったく予想もしていない人物だった。
「こんにちは」
――ルイス・パーネット。
名前が真っ先に出てくる。しかし、私には
(今の私には)
彼とどこで出会ったのかも思い出せない。
私はなぜ、彼の名前を知っているのだろうか。
それ以前に、なぜこの男がここに来ているのだろうか。

私の戸惑いなど意に介さずといった様子で、パーネットはニコニコと人のいい笑みを浮かべ、部屋に入ってきた。
頭を少し屈めるしぐさにアリアナを思い出す。彼女ほどではないが、やはり彼は長身だった。
「こんなに早く会うことになるとは思ってませんでしたけど」、とパーネットが帽子を脱ぎ、頭を掻く。
現在の展開に、そして彼に対する私の認識自体についていけないのに気付いたのだろう。パーネットは手近な椅子を引き寄せると、説明を始めた。
「実は僕、この施設の警護担当になったんです。ほら、ここって街からちょっと離れてますし、後ろは林ですし」
犯人の意図はわからなくとも、警戒はしておくに越したことはない、と言う。
しかしこの明らかに新米の雰囲気を漂わせる男に警護などできるのだろうか。
林といえば、とパーネットは続ける。
「あれから特に問題はありませんでしたか? ほら、体調が悪そうでしたよね」
――あれから?
あれ、とはいつのことを指しているのだろうか。
私と、この男が出会った時。
そんな時は、果たしてあったのだろうか?

朝、いや昼になりかけていた、この時点で私はすっかり疲れてしまっていた。
理解不能なことが起こりすぎて考えることも億劫だ。
この男、兵士がなぜこの部屋に来ているのか、なぜ他には誰もやってこないのか、彼はなぜ私を知っているのか、私もなぜ彼の名前を知っているのか。
私は本当に、変なのだろうか。

――ほら、知らないほうが良かったなんてこと、有り得ない――

胸のあたりがむかむかする。頭がどうにかなりそうだ。
「――大丈夫ですか?」
よほどひどい顔でもしていたのだろう、パーネットは心配げにこちらを窺った。
軽く笑ってみるだけにとどめる。それぐらいしか返答の余力がなかった。
「でも、仕方ないと思いますよ」
否定も肯定もしない私に対し、パーネットは訳知り顔で続けてきた。視線だけ彼に向ける。
彼といつ出会ったのかは知らないが、どうせこの男も、今の私はおかしいだの何だのと続けるのだろう。
うんざりする。
「――おかしいですもんね、ここの雰囲気」
だが、彼が言った言葉は真逆のものだった。
声を潜めて話し始めたのは、扉の外に誰か人がいるからなのだろうか。窺いつつ、パーネットはつらつらと自らの感想を述べた。
「今ね、こっちでは犯人特定のために事情聴取してるんですよ。その一環で、警護のついでに今、もう一人聴取に来てるんです。
 そしたら今取り込み中だから、今度にしてくれって言うじゃないですか。どういう事情ですかって聞いても答えないし、全員に話しを聞きたいって言っても応じてくれない。
 おかしいなって思って、あなたを思い出したんです」
時折パーネットは扉を振り返る。足音でもしたのだろうか。
それでも彼は話をやめようとはしなかった。私も、第三者から見た話というのは気になる。
知らず身を乗り出して、少しでも声が小さくて済むようにとパーネットの話に、見入った。
「……一回会っただけの僕じゃ、わからないのかもしれませんけど。ここの人たちは、あなたを隠したがっているように思えていけない。
 危険人物とか、重病人だっていうならともかく、なんでもない普通の様子じゃありませんか」
普通、という言葉が小気味よく私の胸に落ちた。
私が望んでいるせりふを、こんなにもためらいなく言ってくれるなんて。
それとも、やはり第三者から見れば、私はおかしいところなんてないのだろうか。
おかしいのは、ここの者たちなのだろうか。
パーネットは殊更に声を潜めた様子で、私に囁きかけてきた。
「もしあなたの体調が悪いとしても、こんな雰囲気の中で生活してたらいい思いはしませんよ。
 ……実際、伝教者のお二人も、ちょっと参っているように見えましたし……。いや、すみません。言い過ぎました」
ふいに顔を離し、とってつけたように笑うパーネット。間髪入れず扉が開いた。
次こそは、と期待したが、やはり私の知らない者が立っていた。
隣でパーネットが立ち上がる気配がした。






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