「ご病気のところ申し訳ありません。レンツ・ヴァイルさんですね?」
パーネットと同じく兵士、いや、階級章から察するに、彼の上司であろう、端正な顔立ちの男だった。
そこそこの長身にこの体つき、今時珍しい金髪となれば、女性からのアプローチが少なくないようにも思える。
だがこの男には表情がなかった。そして煙草の匂いと同じくらいに、兵士の臭いが部屋に充満していた。
あらゆる意味でパーネットと対極にいる男。彼はおそらく、元々前線にいた兵士なのだろう。そんな男がなぜこんな僻地まで来ているのか。
私は男の立ち居振る舞いに緊張を覚えつつ頷いた。
彼もまた頷き、私、そして敬礼するパーネットを横目で促すと、敬礼を降ろさせる。
「今回の現場を仕切っています、レオン・サンディオと申します。二、三、質問に答えていただきたいのですが」
持っていた紙面を時折確認しつつ、サンディオと名乗った男はそう言ってきた。
最初に彼の言っていた、病気、という言葉に反論をあげたくなったが、私は素直に紙にペンを走らせて了承の旨を伝える。
「まあ、事情は概ね窺っていますし、差し障りない範囲で構いませんので」
更に念押しをしてくる。施設の者は私の様子をどのように伝えたのだろうか。
パーネットを横目で見ると、こちらの思いが伝わったのか、申し訳なさそうに笑いかけてきた。

都会の雰囲気を持った男前二人に挟まれ劣等感を覚えつつも、サンディオの問いに意識を集中するよう努める。
「――あなたは夜間、見張りをしているそうですね」
その言葉に頷く。見張りといっても、ほとんど暇つぶしのようなものだが。
「他の人から伺ったところ、あなた自身の特性を活かして今の作業に従事しているとか」
曖昧な言葉だった。私の特性など、何かあっただろうか。
黙っているのが肯定ととられたか、サンディオはページをめくって続けた。
「それで、一昨日の夜から昨日の朝にかけて、何か異常はありませんでしたか? 不審な人物を見たとか、関所の方で怪しい動きがあったとか」
彼の言葉に、私は思わず笑ってしまった。ひょっとすると声も出ていたかもしれない。
二人が怪訝そうにこちらを見てくる。その様子がまた、おかしい。
彼は何を言っているのだろうか。冷静そうな顔をして、思ったよりうっかりしているようだった。
子供でもすぐにわかるようなことだ。
だが、どちらも私の様子に困惑しているようだった。半ば呆れつつもペンを握る。
どうか冷静に考えてみてほしい。この施設は、関所はおろか、街からも離れているではないか。
私が見ているのはせいぜい施設の周辺くらいのものだ。それはそうだろう。
――それ以上、肉眼で見えるわけがない。
関所で何か動きがあったとしても、把握できるはずがないのだ。
犯人がこちらに逃げてきていたのなら何かしら目撃しているだろうが、そういうこともなかった。
残念だが私が役立てるようなことは何一つない。

「……あー……いや」
サンディオは形容しがたい表情で、伸び始めた髭を撫でた。
「警戒なさらなくても大丈夫です。私も、一応そこの彼も、把握してますので」
そして不可解なことを言う。
把握とは何のことだろうか。
理解しかねている私の様子を間違って受け取られたか、サンディオは更にまくし立ててくる。
「こちらとしては協力さえしてくれれば、それ以外のことには興味ありませんし、あなたとここの方たちが公言したがらないのも理解しています。
 一昨日の夜です。何かありませんでしたか? 早く就寝したとのことですがそれまでの間に、不審な動きはありませんでしたか?」
彼の物言いだと、私がたいそうな秘密を持っているように思えた。
しかも誰かに漏らすと不利益が生じるような類の何かだ。
この私に、そんな隠された秘密があったとは。私でさえ知りもしなかったことだ。
私のことをどのように聞いているのかは知らないが、見当違いもいいところだ。
警戒も何も、心当たりすらない。第一、一昨日の夜は早く就寝したような記憶もないし、
ましてや真夜中では施設のすぐ外ですら見えづらいというのにあんな場所まで見通せるとでも思っているのか。
メモを見せると、サンディオのみならずパーネットまでも覗き込んできた。
そして二人で同時に顔を見合わせる。
――またか。
「ええと」
サンディオが当惑顔で面を上げた。
「本当に心当たりがないんで?」
頷いた。加えて、何の話かさえ見当がつかないと伝える。
「屋根裏の方々や、そちらの……いや、街の一部の方から伺ったところによると――」
言っていいのかどうか、迷っているようだった。視線が泳ぐ。
「あなたが――通常では考えられないような視力を持っている、ということだったんですが」
だから毎夜自主的に見張りをしているなどと続ける彼の言葉は耳に入らず、思わず自分のまぶたに手を当てる。
通常では考えられないような視力?
私は部屋を見渡した。特に見えないものがないのは、元々この部屋が狭いからだ。
ベッドのすぐそばにある窓の外に目をやってみた。左端の方に街が見えるが、砂煙のせいだけでなくかすんで見える。
人が立っているかどうかさえわからない。
これのどこが、「通常では考えられない」程度の話だというのか。

私が当惑するならともかく、現実主義であろう彼らがなぜ、荒唐無稽な与太話を信じているのだろう。
呆れる反面、気持ちの悪さを覚えてきた。
今日という日は何かがおかしい。おかしすぎる。
施設の皆の態度といい、彼らの口ぶりといい、まるで私が異端の塊であるかのような扱いだ。

今まで平穏無事に暮らしてきたというのに、一体何が起きているというのか。
私がおかしいのか?
それとも、彼らが?

「――この人は普通の人ですよ」

疑念と不安でない交ぜになった私の考えをほどくような、望んでいた言葉が紡がれた。
パーネットがそこでようやく口を開いたのだ。言ったでしょう、と彼は優しげな笑みを浮かべる。
反対に、サンディオは目を丸くして彼を見ていた。
「こう言うと失礼かもしれませんけど、ほら、ここは街から離れてますよね。それに聴覚障害の人はこの人しかいませんよね。
 だからイメージだけで話してるんじゃないですか? 耳が聞こえないなら目はいいんだろうって。
 この人も目が悪いわけじゃない。それでそういう噂が一人歩きしたんですよ」
彼の意見に私も賛成だった。
そして、噂を信じて私を頼ろうとした軍に疑問も覚える。
サンディオ、彼はどちらかというと見たものしか信じないような性質であるように思えた。
その彼までも信じざるを得ないほどにこの噂は大きくなっていたのだろうか。
パーネットは得心がいったとでも言いたげにサンディオを見下ろしている。
対するサンディオは気難しげにこめかみを揉み、何か思い悩んでいる様子だった。
私やパーネットの言葉と、彼の聞いた言葉と。どちらを信頼すべきなのか揺れている。
あくまでも信憑性に欠ける噂を信じようと努めるその姿に、ふと、彼は何か別の目的があってここに来たのだろうか、と感じた。
それとも捜査が行き詰っているのかもしれない。藁にもすがる思いで噂を信じたというのなら、多少は頷ける。
サンディオは疲れたようなため息をついて立ち上がった。
「……。では、特に何もなかったと」
その言葉に二度頷く。わかりました、と答える彼はひどく疲れているように見えた。
「質問は以上です。あとは……おそらく先に彼が伝えたと思いますが、そこの兵士がこの施設の警備に当たります。
 いや、まああなたがたの身の安全のためですので。日常生活に支障をきたすことはないようにしますし、ご協力をお願いいたします」
正直、この施設に危害が及ぶ自体など有り得そうもないとは思うのだが、私はやはり頷いた。
第一私に拒否権はない。パーネットがここにいるという時点で、おそらくもうドナや施設の主要な者にも通達はいっているのだろう。
ならばそれに従うまでだ。
サンディオはそこでまた一つ息をついて、同じく退室する素振りのないパーネットを再三横目で盗み見してから、足早に去っていった。

緊張感が解かれる。
役人然とした彼の態度はどうにも苦手だった。知らず張っていた肩を、軽く回す。
目の端でパーネットが同じ動きをするのが見えた。
目が合った。
思わず、二人して笑い出す。
久しぶりに、心から自然に出た笑みだった。
何年も一緒にいた仲間ではなく、ほとんど面識のない男と笑い合うことになるとは思ってもみなかった。
一抹の寂しさよりも、包み込まれるような安堵感が私の胸に去来する。
状況はひとつも好転していなくともかまわなかった。
私はいまだ笑いを堪えつつ、パーネットにありがとう、と伝える。
何についての礼なのか、それでも彼に言いたかった。
少なくとも、彼が発言してくれたことによって、私自身は救われたのだから。
それに上司に対して進言するということがどれほど勇気のいる行為なのか、私には想像もつかない。
にもかかわらずパーネットは、何のためらいもなく言ってのけたのだ。
「僕はそんな、大したことはしてません」
緊張のせいで、何を言ったかも覚えていないと彼は恐縮する。
何も覚えていないというのなら、私も同じだ。

朝からずっと、自分の状態を把握するのを拒んでいた。私は普通だ、何も忘れてなどいないと。
だが今、私は自分でも驚くほど自然に、ここ数日の記憶が所々欠けているのだと説明することができた。
私は普通にしているつもりでも、他の人にとっては違うらしい。
もしかしたら本当に、彼らの言うように病気なのかもしれないと。
書き綴ると不安そうに見える文面でも、私はとても晴れやかな気持ちだった。
覚えていない。ただそれだけだ。
たったの数日間を忘れているだけで、いったい何の不都合があるだろうか。

事実、読み終えたパーネットの顔にも深刻そうなものは見受けられなかった。
「ああ、だから最初に僕が来たとき、不思議そうな顔だったんですね」
覚えていないことに対して詫びようとした私を制し、仕方ないことだと受け入れてくれる。
むしろ、少しだけでも自分のことを覚えていてくれたのが驚きだと笑いさえした。
確かに会うまでは思い出しもしなかったというのに。
「きっとすぐに思い出しますよ。僕の顔を見て思い出したなら、他のことも同じかもしれないでしょう?」
否定ではなく、建設的な意見をはっきりと述べてくる。施設の者にはない潔さがまぶしい。
――そう。そう言って、欲しかった。
いつもなら、見知らぬ者からの申し出など断るところだろう。
それでも私は、彼が回復の手助けをしたいと言ったとき、断らなかった。
パーネットには人を信頼させる不思議な魅力のようなものを感じる。ためらわず懐に飛び込んでいくような、無謀とも言える無邪気さと言うべきか。
だがそれに救われ、救いを求めていたのもまた事実だった。
きっとまだ、グエンたちは私を許しはしないだろう。
事実を見つめ始めた今の私はまだ、自分の何が悪かったのかさえわからないのだ。
私が理由を見つけるまでは、彼らに会っても焼け石に水なのだろう。

彼が怒られては困るので、警備に支障は来たさないようにと念を押す。
そうして私と、パーネット……ルイスは、何をするでもなくとりとめのない会話を交わした。
一挙一動に注目するでもない。恐れをはらんだ目を向けることもない。
お互いの故郷の話や、仕事への愚痴などを聞く。
大した話などしていない。それでも、楽しくてたまらなかった。

いっそ、――彼らなど必要なかったのでは、と考えるほどに。






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