「あ、ちょっと待ってくださいね」
くだらない雑談に興じていると、不意にルイスが打ち切った。
腰に提げたポーチから無骨な黒く四角い箱を取り出し、顔の近くにもっていく。
「……聞いています。どうぞ」
ルイスは箱に喋りかけ、そして熱心に何かを聞いているようだった。
あの箱から音でも出ているのだろうか。だが唇がないので、私にそれが何を言っているのかを聞き取る術はない。
軍は一般に流通しない機材を所持、占有しているという噂は聞いていたが、これが噂の代物なのだろうか。
こういうのは機密情報なのかと思ったが、そうでもないようだ。
「あ、これ無線って言うんですけど、遠くの人でも喋れて、今レオ……あ、はい。異状ありません……」
あっさりと箱の正体と会話の相手を明かす様子からも、隠そうとする素振りは見受けられない。
そのまま無線とやらに向かって会話を始めるルイス。
どうせ聞こえないし、内容への興味もない。暇を持て余し視線を彷徨わせるが、知りすぎた自分の部屋にある真新しいものは一つしかなかった。
真剣な面持ちで聞き入っているルイスを眺める。
相変わらず一つに纏めてある髪は、おそらくほどけば肩ほどまであるのだろう。
上司に対して物申すところや長い髪からして、規律などにさほど執着していないようだった。
だがそれでやっていけるのだろうか。彼に辛そうなところは微塵もなかった。
出会い頭は犯人の捜索、次はこんなところの警備を一人で任されるところからも、なんとなく煙たがられているのではないかと思える。
事実、今彼と会話しているらしいあのサンディオとかいう男も、ルイスのことをどこか疎ましげに見ていた。

それにしてもまじまじと見れば、彼は私が最初見た時に抱いた印象以上に整った顔立ちをしていた。
彫りの深い顔に、意思の強そうな濃い眉。やや垂れた目じりが強い印象を和らげている。
男性的とも、女性的とも言えない不思議な雰囲気があった。唇を引き結べば力強くもなるだろうし、微笑む表情はあまりにも柔らかい。
このような男でも兵士になるのかと、私は素直に疑問をおぼえた。
もっと華やかな場所でも、いやそちらのほうが彼に向いているのではないか。
視線が無線を持つ手に移る。筋張った手は思いの外しっかりとしていた。だが男性のような荒々しい肌のつくりでもない。
この手が血や硝煙にまみれた時を思う。赤の他人を気遣うような心根の持ち主は、その時を耐えることができるのだろうか。
……そう思ったところで、私はふと、彼の指先が汚れていることに気がついた。
茶色い錆のようなものが所々、皮膚や爪の間に染みこむようにして残っている。
土、だろうか。

「……了解。引き続き警戒にあたります」
言い終えてルイスは無線を顔から離した。私も彼への注視をやめる。
彼の目は私に移されるが、先ほどとは一転してやや厳しい面持ちだった。
何かあったのだろうか。
「また、死体が発見されたそうです」
――死体。
この二日間で飽きるほど聞いてきたが、やはり耳慣れない不穏な言葉に、体が硬直するのを感じた。
「街の外れ……宿のある通りの端です。身元はまだわからないみたいですが、兵士ではなく一般人のようです」
ルイスが緊張した表情で続けた。
兵士が死に、今度は一般人が手にかけられた。
小さな街にはまた、そこで暮らす人々も多くはない。施設はもちろん街の者も皆、顔くらいなら知っていた。
あの中の誰かが死んでしまったということなのか。
現実味のない喪失感が胸の奥に広がっていく。「急いで身元の確認をしているところです」と言うルイスの言葉に構わず、私は疑問を紙に走らせた。
――それは、兵士四人を殺した犯人と同一人物なのだろうか。
読み上げたルイスは、なぜか眉をひそめた。
「四人……?」
静かにこちらへ目を向ける。相手の意図がわからないまま、私は当直の兵士四人がすべて殺されたと聞いたのだが、と続けた。
「四人……すべて……、ああ、そうだ」
私のメモをぶつぶつと読み上げていた彼は、しかし軽く笑って顔を上げた。
先ほどの疑念のまなざしを振り切るかのように、
「そうでしたね。記憶違いしていたようです」
すみません、と頭を掻いた。
殺された兵士の数を間違えて覚えていたのだろうか。
どことなく違和感を覚えたが、
「まだ断定はできないみたいですけど、その可能性はあるんじゃないでしょうか」
ルイスは私の問いに答えてくる。あまりにも普通。私はそのまま流されるように、些細な疑念を振り払った。
もしも同一犯によるものだとすると、犯人の標的は兵士だけではないということになる。
それよりも、殺されたのは誰なのだろう。
施設の誰かかもしれない。そう思うと、言い表せないような焦りをおぼえてくる。
「ここの人じゃありませんよ」と、私の思いを見透かしてルイスが慰めた。
「事情聴取に伺ったとき、みなさん揃われてました。殺されたのは昨夜のことだそうですし」
言われて、かすかな安堵の息をもらしかけたが思い直す。
他人だからとて容易に安心するべきことではない。それに、どの道犯人は捕まっていないのだから、新たな犠牲者がこれから増えるかもしれない。
思ったよりも無秩序で残酷な犯人。一刻も早い解決を望むのは当然のことだろうが、心からそう願った。
目の前の彼も、こんなところで油を売っていていいのだろうか。現場へ急行するような指示が出ているのなら、ここにいるのはまずいだろう。
私は思ったことをそのままルイスに伝えた。
「このまま施設周辺を警戒しろとの指示が出たので大丈夫です。何しろここは街から離れてますし、一人でも警備にあたったほうがいい」
何しろ相手は、一般人をも殺害するような輩なのだ。言われてみればその通りかもしれなかった。
「まあ、さすがにここで喋っているわけには――」
「――レンツ!」
ルイスが言葉を続ける間に、扉を開けるなり男が私の名を呼んだ。
一瞬の疑問を置いて、それがグエンだとわかる。彼は珍しく髪をおろし、帽子を目深に被っていた。
確か以前に従事していた、瓦礫撤去の作業の時の帽子だ。
ルイスもグエンも、予想外の人物がいたことにお互い言葉を止めていた。
「……ああ、すみません」
先に口を開いたのはルイスだ。
「……」
対するグエンは、まだ動きを止めている。
顔の半分が隠れているせいで、彼がどんな表情をしているのかはわからない。かろうじて見える口は呆けたように開いていたが、すぐに引き結ばれた。
「ここの警備を担当することになりました――」
「――話は聞いた」
ルイスの言葉をさえぎって、ようやくグエンは帽子の鍔を掴みつつ言った。顔を隠すような所作に内心で首を捻り、一拍置いて閃いた。
そうだ。彼は、敵国の元兵士なのだ。
名前も顔立ちも違う彼は、見る者が見ればそれだとすぐにわかってしまうだろう。
思わずルイスの方を見た。彼の顔からは、疑惑の色は読み取れない。
正しくは、何の感情をも読み取ることはできなかった。
彼は相変わらずにこやかに微笑んでいた。疑っていないならそれで構わないのだが、なぜだか違和感があった。
……完璧すぎる、とでも言うべきか。
「あ、それじゃあ僕は、外を見回りしてきますね」
急にルイスがこちらへ向き直り、思わず肩が跳ねる。
私へ向かって手を振る彼の表情はいつも通りだった。先ほどとの相違も感じられない。気のせいだったのだろうか。

空気を読み取って退散していく彼の姿をグエンが目で追いかける。
完全に扉が閉まっても、グエンはまだその向こうを見つめていた。
対する私は、正直に言って、彼の来室に戸惑っていた。私はまだ相対する準備ができていない。
ややあってようやく帽子を脱いで、
「今のは……」
グエンが呆然と呟く。警備の兵士だという話を聞いていたなら、彼は何に疑問を抱いているのか。
見覚えでもあるのだろうか。私は何か尋ねようとして、やめた。
また扉を見つめるグエンの背中に、言い知れない雰囲気を感じ取ったのだ。
その裏で今、彼はどんな表情をしているのだろう。

「見えないって本当か?」
振り向いたグエンの顔は今度こそ、いつもの表情に戻ってはいた。
しかし正真正銘いつもの彼であるなら、なんでもない軽口をたたいてみせるところだ。
急いで入ってきたからには理由があったのだろう。いきなり本題らしきことを尋ねられ、思わず落胆する。
しかも問われたことは、さっきも取り上げられたことだった。
私は内心でため息をつきながら、そう聞いてきた人は他にもいたが何のことだかわからないとまた説明した。
「何も? ……まったく見えないのか?」
まったく見えないわけがない。そうだとしたら、私はもはや身動きひとつとれないだろう。
だいたい字を書くことすらできないではないか。
動転する彼の様子は滑稽ともいえたが、笑うことはできなかった。
私がグエンに落胆したように、彼もまた私の言葉に落胆を見せているようだった。
気まずさから私は話題を変える。新しい犠牲者が発見されたようだという、とれたての話題だ。
だがグエンは食いついてはこなかった。「そうか」とだけ呟いて、気難しげな思案顔を見せる。
「……夕食は運んできてやるから。体調が戻ったら教えろよ」
後ろの言葉には優しげな響きもあったのかもしれない。だが、私には伝わらない。
私が読み取ることができるのは表情と動作だけ。彼は一度も、笑ってはくれなかった。
あるいはグエンもまた、気まずさを覚えているのかもしれない。そう言い聞かせる。
それに、彼だって今は正念場でもある。軍に見つかったら最後、どう反論してもこの殺人事件の犯人に仕立て上げられてしまうのは明白なのだから。
何度も反芻しながら、それでも無言で出て行ったグエンの振る舞いと、先ほどまでいたルイスの振る舞いとをどうしても比較してしまう。
グエンは何のためにここに来たのだろう。私を慮るためとは言いがたい。それに比べて、――。
――私が望んでいた場所は、本当にここだったのだろうか。
記憶の欠落が今の軋轢の原因であるなら、私はきっと、忘れてはならないことを忘れてしまったのだろう。
思い出したい、と少しだけ思った。
頭の隅で何かがうずく。痛みにも似たうずきに、こめかみを押さえてみるが効果はない。
まだ日は落ちていない。それでも私はベッドに潜り、目を閉じた。
知らず蓄積していた疲労が一挙に押し寄せる。悪夢のような現実から逃れるかのように、私はすぐに眠りに落ちた。






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