――現実とは残酷なものだ。
(残酷な現実とは何だ)
――過去、現在、未来において、知った場所で知らない場所で勝手に人は死んでいく。
――それを残酷と言わずして何という。
(だけれど、現実とはそんなものだ)
――いいや違う。誰も彼も、見ないふりをして、忘れてしまうのだよ。おまえだってそうだろう。
(見ないふり、忘れたふり、そっちのほうが残酷ではないのか)
――そうかね。
――今のおまえはどちらを選んでいるのか、考えたことがあるかね?
(……あなたは、誰だ)
――誰だっていいじゃないか。リズでも、キャスでも、ルイスでも。グエンでもいい。
――それより見ようじゃないか。知らぬ存ぜぬが罪というなら、ありのままを見ればいい。
――そら、部屋に誰か入ってきたぞ……。





05:演ずる者





「時に、一つの話をしよう」
……私は眠っていた。真っ暗な部屋、そして古びたベッドに眠る私自身の姿が見える。
置いていたままの椅子にまたしても誰かが座っていた。どこから入ってきたのか、音もなくすでにそこにいる。今日は本当に来客の多い日だ。
淡い燐光を放つ、輪郭もおぼろげな人影。男女の区別さえつかぬそれは、一つ、と指を立てた。
「その昔、ある暴君が世の中の全てを破壊せんと企てた。まあよくある話だがね。だから神はやはり、その暴君を見守ることにしたのだ。
 だが神は間違いを犯した。暴君はこれまで生まれ出でた彼らとは明らかに常軌を逸していた。その害は人の理までも侵し、獣や生命ならざる者までを窮地に陥れたのだ」
眠っている私の脳に直接語りかけてくるように、声なき声が説明を始めた。

音程もない。文章でもない。確かに声だとわかるのに、それが振動によるものでないというのはとても不思議なことだ。
燐光を闇にとかしつつ、それは指を躍らせて何かを諳んじるように空間をなぞる。
「大地は穢れ、空は干上がり、海は腐敗した。愚かな人々は暴君を神さながらに崇め、恍惚と死んでいった。
 聖書でいう黙示録のようなものだな。神ならざる者が、神のごとく振舞う。人の世に関わるべきでないとはいえ、このままでは神もまた滅びてしまう。
 しかし下から上へ上がることはできるが、上から下へは行けないのだ。それに人の業は人が償わねばならぬ」
ふと、不定形だった人型の存在が輪郭線を濃くし始めた。
人と獣が混じったような、いびつな生き物がそこにいた。場所を問わずまばらに生えた体毛、のびきった手足、大きく裂けた口。
たっぷりと伸びた髪は艶やかで、それがまた薄気味悪さを助長する。あどけない不完全な顔立ちと、小さく膨らんだ胸がひどく不釣合いだ。
獣の血を混ぜた少女はやはり微かな燐光を帯びて、丸く大きな目を細めにたりと笑った。
「神は人の子に使命を託した。すなわち暴君を討ち、世の破滅を食い止めるようにと。
 しかし神の力は膨大だ。人の子ひとりに託すには、人はあまりに脆弱なのだ。だが数多くの兵を作り出すことはできなかった。
 もはや神は古きものとして忘れ去られ、暴君がそれにとってかわろうとしていたのだから。
 暴君を憎み、力を渇望する者はさほど多くはない。また神そのものを信ずる者は驚くほど少なかった」
獣人の少女の腕がぼとりと落ちた。筋肉も皮も、ぐずぐずに溶けてしまっていた。
腕が落ちたのを皮切りに、髪が抜け、顔の骨はむきだしになり、腐敗とは違う汚泥のような臭いを放ちながら体中の肉が床にずるりずるりと落ちていく。
ベッドのそばまで転がった目玉がぎょろりとこちらを向いたと思えば、風船がしぼむようにして泥に溶ける。
骨だけになったそれは支えるだけの筋肉をなくし、無様に崩れた。衝撃で骨は砕け、もはや生き物がそこにあったという証は何一つなくなった。
「神は三人の子を選んだ」
真っ黒な泥からあぶくが立ち、ヘドロの息を撒き散らせて声が鳴った。
「一人はすべてを見守る者。一人は罪を罰する者。一人は情けをかける者」
泥の海から這い上がるように、真っ白な手が伸びる。床に手をついて、泥を引きずりながら、今度は一人の少年が姿を見せた。

いや。
あれは、私だった。
子供の頃の私。発育不良の細い体に、絡まりあった金髪ともいえないくすんだ黄土色の髪。
ただひとつ違うのは、その目がぎらぎらと飢えに光っていたということだ。
彼は裸のまま椅子に座り、悠然と足を組んだ。浮いたつま先から泥のしずくが落ちる。
「三人の子はひとつの神の代行者として、暴君の使徒に悪魔と蔑まれながらもついには邪神たる暴君を討つことに成功したのだ」
喋る間に彼は凄まじい速さで成長していった。十代の半ばを超え、二十歳に迫る顔つきになり、今の私とさして変わらない……わずかに若い頃まで。
しかし私は彼のような表情はしない。酷薄な笑みを浮かべ、蔑んだまなざしでベッドの上の私自身を見下ろしている。
ただ眠るだけの自分自身を嫌悪しあざ笑っているかのようにも見える。
「それでは終わらなかった。暴君は神の、神の代行者の手を逃れ魂を彷徨わせ、無垢な命を奪い再び世の破滅を執行しはじめた」
声にまで色がついてきた。男性とはわかるが、高くも低くもないなめらかな音。もし喋ることができたのなら、私はこんな声をしているのだろうか。
ぱちん、と彼が指を鳴らした。すると彼の輪郭を縁取っていた燐光が一瞬閃く。光が元の落ち着きを取り戻した時、目の前の彼は豪奢なローブに身を包んでいた。
頂には大仰な王冠を載せている。童話の王様が載せるような、はっきりとしすぎた小道具を身につけた姿。まるで私自身がその暴君となったかのような姿だった。
「今なお暴君はすべてのものを破壊し尽くさんとしている。――さて」
重そうなローブの袖を上げ、彼はまっすぐ指を突き出した。その先は私。
眠っているはずの私の目が、見えない力によって開かれる。
しっかりと目を開けた私の視界は、それでもなぜか私の目には戻らない。相変わらず部屋を俯瞰するような視点のままだ。
「人の子、おまえの望みはなんだね」
唐突な問い。
ベッドの上の私は、ゆっくりと瞬きをした。
「人から蔑まれ恐れられ情けをかけられ生きてきたのだろう。おまえの根にある願いとはなんだね」
蔑まれ、
恐れられ、
情けをかけられて?
――そう。否定はしない。私は瞬きを繰り返す。
今まで、最初から対等な位置で私と接してきた人はいなかった。使えないと罵られ、気味が悪いと恐れられ、
それでも一番つらかったのは、慈愛に満ちた情けの目で見られることだ。
私は、私という人間は、そうやって庇護されないとならないほど弱く不完全なものであると思い知らされる。
人間以下の惨めな存在なのだと、彼らが言っているような気さえする。
使えない、気味が悪い、それならそれで構わない。悲しくとも構わない。
それでも生きていいよなどとどうして言えるのだろう。私は、そう誰かに言われなければ生きていてはいけないのだろうか。
そうかもしれない。
「  み  が」
私は思った。ふと、思っただけだ。こうなっていれば、と心の中でもらしただけだった。
望みを言ったところで何になるだろう。叶えてくれるとでも言うのだろうか。
だが、一つの願いが頭を掠めたその時、眠っている私の口からあまりに不恰好な音が勝手に漏れた。
「き  お える  よ に」
いやだ。喋るな。耳を塞ぎたくなる。なぜ私に聞こえるのか。耳は聞こえないはずなのに。
二十五年ぶりに出した声は発音さえできず、ろれつも回らず、幼稚だった。
声が出せるのに頑なに喋ろうとしなかったのはそのためだ。こんな声、誰にも聞かせたくない。
そもそも無表情にゆっくり瞬きをしたまま喋る姿は不気味以外の何者でもないだろう。
「   いた   い 」
怪しい発音ですべてを吐き出した私。椅子に座っていた暴君は、身を乗り出して楽しげにそれを聞いていた。
こちらはこちらで同じ顔というのが気持ち悪かった。あんな表情は一生できそうもない。
「おまえの願い、確かに聞き届けた」
限界まで吊り上げた凶悪な笑みを浮かべ、暴君は大きくゆっくりと頷いた。
まるで自分が全知全能の神そのものであるかのようにごく当然に、私の願いを聞き入れると言う。
この性別もわからない燐光を放つ存在はなんなのだろうか。
怪物、暴君、神。
さまざまな姿をとって人間を惑わすさまは、まるで悪魔のようだ。 暴君は立ち上がり、
「この先を見るがいい」
横たわる私の眼前に指を突き出しそう言った。私の目はその言葉に従い、間近すぎるせいかやや寄り気味に指先を見つめる。
指先に点る淡い燐光が強くなった。まぶしくはないが、部屋がうっすらと明るくなるような、静かすぎる光だ。
「残酷なこと、苦しいこと、辛いことを目の当たりにしても、おまえは見ることをやめなかった」
二本の指先が眼前でゆらゆらと揺れる。私の目もそれを追った。
「どのようなことがあってもおまえはその目を閉じることはないだろう」
視界から逃れる位置に来れば、頭を動かす。それでも足りなければ体を起こす。
瞬きを忘れ、その光に魅入っているようだった。
「おまえを蝕む呪いが解けたとき、わたしの祝福がおまえの願いを聞き届ける」
光が消える。急に真っ暗になった空間。
私の側頭部を、二つの手が覆っていた。暴君は私の耳を覆い、額と額を重ねる。
同じ顔が向かい合ってお互いを見つめている。荒々しく凶暴な表情の私と、死者のようにつめたい顔をした私。
「戻ってくるんだ」
そう暴君が声をあげると、今まで俯瞰的に見下ろしていた視界がなくなった。
かわりに私の眼前に、見飽きた青緑の瞳があった。限界まで見開いたその目は文字通り、爛々と燃えていた。
「庇護の呪いはじきに解ける。燃え尽きた炭の山で、おまえはたくさんの声を聞く」
手のひらで覆われた耳から、音が直接入ってくるのがわかった。
幾重にも連なり大小さまざまに聞こえてくるのはすべて人の声。
うめくような、断末魔の叫びが幾重にも幾重にも入り込んでくる。
耳を塞ぎたくなるような怨嗟が脳までを侵してしまいそうだった。だが、もう既に耳は塞がれているのだ。
それに、――聞こえないことよりはどんなにか素晴らしいだろう。
「それでもおまえは願い続けるのだな」
目が、人ならざる者の目が問いかける。
耳を塞ぎたくなるようなおぞましい怨嗟の合唱。
だが、私は自分の意思で頷いていた。
聞きたくないこと。それでも、聞こえないよりはずっといいのかもしれない。

(それで本当にいいのか? よかったのか?)

内側から囁きかけるのは誰の声か。
深みのある、心に深く突き刺さるような……懐かしい声だ。
誰だか思い出せない。つい最近まで、覚えていたような気がするのに。
耳を覆う手が離れていく。怨嗟の声は止み、代わりにおぞましいほどの静寂が戻ってきた。
暴君がまた口を開く。しかし音が聞こえない。声が、聞こえないのだ。
「契約は確かに果たされるだろう」
唇の動きを読み取っても、不安になる。本当にこう言っているのだろうか、違うことを言っているのではないかと。
私はなんて不確かなものに頼ってきたのだろう。
ぐらついたものに頼って、安心して、求めていた。確証など、何一つ得られていないのに。
聞こえなくなること、また戻ることが怖い。
だが、この……夢……から覚めれば私はまたあの無音の世界を味わうことになる。
――嫌だ、嫌だ。目覚めたくない。
蔑まれながら生きていくなんて、もうたくさんだ。






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