『あんなバケモノのために、あたしたちの身まで危なくなるなんて理不尽よ』
『それよりグエンだ。あいつを隠すことで俺たちが共犯だと思われる』
『役立たずのくせに厄介なもんばかり拾ってきやがる。二人ともここから追い出せばいい』
乾いた砂交じりの風が頬を強く打つ。
不気味なほどに強く輝く真円の月が、わずかに金が混じるはずの髪を銀色に変えていた。
キャスリーンは屋上の縁に座り、まばらな街の明かりを眺めていた。
右手から煙が流れている。くたくたに半ば潰れかけた煙草。
教会に入ってから断っていたそれはすっかり風化してしまい、湿気っていたが、それでも深く吸い込めば楽になれる気がした。

更に一人、街の者が殺されたという情報は、夕方には全員に知れ渡っていた。
レンツの異常、軍人の調査などでただでさえぴりぴりとしていた雰囲気がより一層険しくなるのが嫌でもわかった。
キャスリーンはもはやレンツ側であると見做されているせいか、直接言ってくる者はいない。
それでもことあるごとに無遠慮な陰口が耳に入ってくる。
彼が顔色を険しくするたびにマギーはわざとらしくフォローを入れてくるが、違った。
キャスリーンの胸を満たしているのは怒りではない。
なぜか、どうしようもなく悲しかった。
――軍部にグエンを悟られないようにする、そうドナに提案された時、誰も反対はしなかったのに。
仲間のふりをして、その実簡単に裏切る。ここは肉親を、大切なものを失った傷を持つ者が集まった場所ではなかったのか。
白くなった灰が空に流れるのを、ただ呆然と眺めるしかないのだろうか。

ふと、扉の開く音がした。
「よう」
軽く見渡してキャスに声をかけてくるのは、やはりマギーだった。
キャスは彼女に返事することもなく、そのまま首を戻す。足音ののちに、隣に腰掛けてきたのがわかる。
数日前、レンツの座っていた場所だった。
「禁煙。ついに破ったな」
誓いを破ったことに咎める素振りはなく、一本よこせとマギーは続ける。キャスは舌打ちしながらも、ローブの裏ポケットに忍ばせた箱を取り出した。
マギーは慣れた手つきで一本取るとそのまま口にくわえた。
「昔よくやってだだろ。マッチがもったいないってさ」
色気も素っ気もない純朴な笑みを浮かべて、ほら、と顔を突き出してくる。
「もう、そんな歳じゃねえだろ」
そう抗議しつつ、キャスはマギーに顔を寄せた。
煙草の先と先をあわせ、葉の燃える火が二人の顔を照らす。夜闇も相まって光はいっそう強く感じられた。
「うわっ何これ」
マギーは息を深く吸い込んだと思うと、激しく咳き込み始めた。
二年ほど開封したままで放置し続けた味はやはり決していいものではないらしい。
非難がましい目を向けると、キャスは先ほどより幾分か柔らかい顔で、
「二年モノだ、ありがたく吸えよ」
他の者には決して言わないであろう軽口を叩いた。
幾分いつもの調子に戻ったキャスを見て、マギーもまた安堵したように笑う。
湿気ったそれは、吸い込むたびに舌がぴりぴり痛んで喉にタールが張り付くような不快感があった。
それでも息を吐き出すたび、臓腑にこびりついた悪いものが一緒に出ていっている気がした。

大げさに音をたてて呼吸するマギーを見やりながら、彼女もまた何かしら溜めていたのだろう、とキャスは思った。
「厄介なことになっちまったなあ」
マギーがぼやいた。
「人死にが出るだろうって聞いちゃいたけど、これじゃ何がなんだかわかんねえよな。別のとこでいろんなことが起きすぎてる」
楽天的な彼女が愚痴をこぼすなど滅多にないことだ。それだけ、今の状況というのは不可解すぎた。
彼らの受けた予言を信ずるならば、それが関与するのは兵士の殺害だけのはずだった。
そして本来の仕事である、「神の使い」の捜索……候補の一人と思われるレンツは精神に異常をきたし、しかも肝心の非凡な能力まで失っている。
この街に到着し、施設に身を寄せた時点で違和感はあった。
――人が、冷たすぎるのだ。
もちろん、自分たちの格好がゆえに今まで何度も痛い目にはあってきた。
だが、それだけではない何か。
施設の者たちが始めて二人を見たとき、彼らはその外見に警戒してはいなかった。
神への畏敬も、異常な出で立ちも関与しない、単純な警戒心。
見知らぬ者に対する、圧倒的な嫌悪がそこにあった。いや、今でさえあるのだ。
田舎の偏見と片付けられない違和感を確かに抱いていた。
過去に何らかの確執があったせいなのか、それとももっと別の何かなのか、キャスにはわからない。
施設の中でも極々一部、外部から来た者や若い者などはむしろ来訪者を快くさえ思っているところを見れば、過去に何かがあったのかもしれない。
敵国の兵士がいることに関しても異常だ。しかも、グエンを嫌悪しながら彼らはその存在を頑なに秘匿し続けている。
その割に、あっさりとグエンの正体をキャスたちに明かすではないか。
薄気味の悪い、いやな不協和音が常に身にまとわりついているような気がした。
……軍部も何かを隠している。掴みどころのないレオンもしかり、レンツの調査を丸投げするところなど、不可解以外の何者でもない。
身辺警護と称する兵士の存在も、必要があるのかどうかさえ、わからない。
しかも、予言にはないことまで起こり始めた。
一般人の殺害なんて、

『――これは、おまえたちが思っているよりも残酷で、苦しいことかもしれない。だが、どんなことが待ち受けていようと、おまえたちはそれを試練だと思えるかね?』

教会を出る直前、老年の師が言ったことを思い出す。
今にして思えば、彼はこの混沌とした状況を予見していたのかもしれなかった。
なぜ、下っ端で疎まれていた自分たちが「予言の確認」という大きな仕事を選べたのか。
「頭悪い俺たちじゃなくて、もっとお偉いさんが来なきゃいけないんじゃないのかねえ」
キャスの思いを継ぐようにマギーが言った。
キャスは予言など信じてはいない。いや、正しくは半信半疑だ。
信じたい、だが信じられない――それでも教会から、キリル信教からすれば、国を揺るがすほどの大きな予言であるはずなのだ。
なぜ指名されなかったのか。なぜ、教会から逃げるように伝教者を立候補した二人にその任がまわってきたのか。

予言の確認、ならびに遂行の手助け……神の使いの捜索。
事態の迅速な収拾。
人民への呼びかけ。
だが静観すること。決して介入しないこと。

胸にせりあがってくる感情がなんなのか、キャスには理解できなかった。
ただ、やはり悲しかった。
「……どした?」
マギーが心配そうに声をかけてくる。
その声が喉まで出掛かった感情の塊に染みこんで痛みを訴えてきた。
――無力だ。なんと無力なのだろうか。
いろんなことが起きて混乱していたとしても、それにしても自分は何一つとして役に立っていない。
それどころか、居候としての責務、日常のことさえ果たすことができないのだ。
「役立たず」と罵られるレンツとキャスとに、一体何の違いがあるだろうか。
違うというのなら、レンツはまだハンデを負っている。
耳が不自由ということはどれほど困難なものかわからないが、顔を向けられなければ相手の言葉を知ることさえできないなど想像もつかなかった。
彼を助けてくれる数少ない友人もまた、今の状況に戸惑い手をこまねいている。
キャスにはまだ、マギーがいる。それに五体満足、感覚も正常だ。
なぜキャスは恵まれていて、レンツにはそれが与えられないのだろう。
自分のほうがはるかに醜く、汚れているのに。

背中をさする、暖かな手を感じた。
「……わけわかんねえよ」
ぽつりと呟いた言葉は震えていた。
数日前の夜、彼は控えめに、それでも優しげに笑っていた。
あんなに他人を思いやる暖かな心の持ち主の傷にずけずけと踏み込んだ自分。
そして更に心無い軍人たちの手で荒らされていくのをただ黙って見るしかできない自分。
「異常者」、「化物」、「神の使い」、あまりに物々しく、人間味を感じさせない言葉を密かに向けられながら、どうして平常でいられようか。
キャスはレンツに自分を重ねていた。彼に申し訳ないと思い、口にこそ出さなかったが。
「ここも、教会も、軍も全部クソくらえだ。寄ってたかって、大人のくせに」
胸の奥で渦巻いていた気持ちは、口に出る前に方々へ飛び散ってしまったらしい。
キャスはもどかしさに顔をゆがめ、熱くなった目頭を隠すように膝に顔を埋めた。
出掛かった涙さえ疎ましかった。泣くことしかできないのかと自嘲する気持ちも湧かない。
「神の使いが何だってんだ。それで、あいつは……」
――救われるとでも言うのか?
震える言葉を押し殺した。
どうにもならないことなのはわかっているのだ。神の僕を選んだのは自分。そして、神の意思がそう告げているのなら従わねばならないのだから。
だが、それなら、どうして。疑問符は次々と湧いてくる。
背中に置かれたやせぎすの手から感じる温度さえ疎ましい。そう考えた自分にまた嫌気が差す。
キャスの胸の内を知ってか知らずか、マギーはそれでも優しくキャスの背を撫でた。
「お前のそういうとこ、嫌いじゃないよ。俺にはよくわかんないけど」
慰めるマギーの声に頭を上げた。
「人の気持ちなんてさ、わかるわけないじゃん。だから俺はそういうの気にしないし。自分がやりたいことしかしねえもん」
じゃなきゃこんな格好するもんか、男物のローブを広げて笑う彼女の顔には陰りなどなかった。
街の女のように着飾ればそれなりに見栄えがするだろうに、キャスはマギーが化粧をしているところなど見たこともない。
男装の趣味でもあるのかとそれこそ何度もからかわれていたこともよく知っていた。
「でもさあ、お前は違うだろ。今も何考えてんのか俺にはよくわかんないけどさ、どうせまたいろんなこと悩んでんだろ? バカのくせに」
「うるせえよ」
思わず悪態が口をついて出てしまう。それが照れ隠しだということもマギーは昔から知っているのだ。
「お前はそうしかできないんだよ。俺が女の格好して、「あぁんキャスリーンくぅんケンカはやめてぇ」なんて言ったら気持ち悪いじゃん」
わざとらしく科を作る姿は不気味以外の何者でもなかった。
彼女の女性像はかなり歪んでいたが、それでもマギーが女性らしさを演じることなどキャスには考えられない。
同じように、キャスもまた品行方正な聖職者の仮面を被ることなどできはしなかったのだ。
悪ふざけに乗じるほど気分よくはないが、キャスはわずかに笑って彼女の体を押しのける。
「けどさ」
しばらくおどけていたマギーだが、言葉を継いだと思うと一転して唇を結んだ。
「お前はいつも無理ばっかしてると思うよ」
「俺が?」
思わず仰天して尋ねてしまう。そしてすかさず、
「んなわけねえに決まってんだろ、バカじゃねえの」
的外れなマギーの指摘を鼻で笑った。
やりたいようにしかできない性格、捻じ曲げることなどできない性分なのは自分が嫌というほどよく知っている。
「じゃあなんで悩んでるんだ?」
だがマギーは短くなった煙草を執念深くふかしながら、キャスの主張を更に一笑に付した。
珍しく真摯な光を帯びた目が、夜の最中でもよく見えた。
思わずたじろぎ、言葉に詰まるキャス。だが、なぜ彼女からそんな問いが出てきたのか理解できずにいた。
「よくわかんねえけどさ」
再三、言い逃れるように前置きするマギー。鼻を掻き、自身も思案しているようだった。
「無理しないってのはさ。言いたいこと言ったり、気に入らなきゃ殴ったり、我慢しないってことじゃねえの」
――殴りたきゃどんどん殴れってか?
思わず茶化したくなったが、冗談めかした声のマギーは思いのほか真面目な顔をしていた。
もどかしげに眉をゆがめ、乱暴に煙草をもみ消す彼女もまた、饒舌とは言い難かった。
いつもは煮詰まったらすぐに投げ出す性分なのだが、俯き珍しくじっと堪えて言葉を探している。
「……お前が我慢したらみんな幸せになるってわけじゃないだろ? なんていうかさ……しんどい思いしてまで耐えなきゃいけないことなのかよ」
そう問いかけて顔を上げるマギーの目がかすかに湿っている気がした。
性差なく接してきた幼馴染の少女めいた想いに戸惑いをおぼえるキャス。やはり彼には理解できなかった。
なぜ自分などを気にかけてしまうのか――。

「――まあいいや」
一間を置いたあと、拍子抜けするほどに朗らかな声でマギーが取り直した。
手をひらひらと振って「やっぱ俺こういうの向いてねえや」と笑う様子は、いつもと変わらないように見える。
「とにかく、だ。キャスが何考えてんのかわかんないし、何が気になるのかも知らないけど、やりたいようにやればいいじゃん」
あっけらかんと言い放つところも普段どおりだ。
催促されたのでもう一本、折れかけた紙筒を渡す。ソフトパックの中にはあと一本が茶色い葉を撒き散らして残っていた。
マッチを一本擦って、再び二人で火を共有しあう。久しぶりの刺激物に肺は悲鳴をあげていた。
「気を使うのも大切だけど、無神経さも大切ってね。お優しいキャスリーンちゃんには難しいかな?」
軽く咳き込みつつもマギーが完全に調子を取り戻して軽口を叩いてきた。
キャスはやはり喋らなかったが、代わりに軽薄な後ろ頭をはたく。
「殴ったな」とわめくマギーはどこか嬉しそうだった。






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