がた、と椅子をひきずる音がした。
王はやおら立ち上がり、ぎごちない動きで歩を進める。
びくりとレイモンドは肩を揺らし、狂気の王が次に何をするのかと慄いた。
「信じる者は救われる。信じぬ者は救わない。救われないのではない。救わないのだよ」
ぶつぶつと、誰に聞かせるでもなく王が呟いた。
足を擦る奇妙な音と、低く呟き続ける王の声だけが木霊し、室内は異様な雰囲気に呑まれていた。
「しかし慈悲はすべての者へもたらさなければならない、そうだろう。私は神ではないが、私は神とは違うのだ」
足音が止んだ。声はレイモンドのすぐ後ろまで来ていた。
同時に、饐えた臭いがかすかに鼻をついた。地下の黴がこびりついたかのような、古ぼけた嫌な臭い。
「私の顔が。私の目が見えるかね、レイモンド君。レイモンド主教よ」
肩に手を置かれ、レイモンドは恐る恐る振り向いた。
「だから、だからもっと早く手を打つべきだったのだ。何をすべきかと言うのなら、私が狂ってしまう前にすべきだったのだ」
王の血族を証明する金色の目がレイモンドを射抜く。
暗がりで光を失っていたはずのそれは、爛々と輝いて彼のすべてを見透かしているようだった。
不気味な、浮浪者めいた姿、それに似合わぬ豪奢な衣服、饐えた臭い、狂気をにおわせる言動、ぎらぎらとした眼。
あまりにも異様な光景にレイモンドは先ほどの威厳も忘れ、ただただ怯えた。
つい数週間前までは、それこそ傀儡のように異を唱えることもなく自分に従っていたかの国王が、今は底冷えするような独裁者の目で自らを見下ろしている。
うかつに口を出せば何をされるやらわからない、そう思わせるものを今確かに目の前の傀儡であった男は持っていたのだ。
「祝福は呪いに、呪いは祝福に、神とは悪魔で悪魔こそが神だ。おまえたちはみなそれを演じる傀儡に過ぎぬ。神に似せられた泥人形に過ぎぬ」
王のかさついた手がレイモンドの頬を覆う。あの臭いが間近まで迫り、彼は叫びだしたい衝動にかられた。
しかし、目が――室内のわずかな光をすべて反射するような金色の目が、彼の魂までをも射すくめていた。
「おまえという泥人形は一体なにを演じていたのだろう。何をすべきか、何もかもすべきだ。おまえは私を信じるべきなのだ。
 レイモンド、チェスター・レイモンドよ。おまえという泥人形に何を詰めれば、私はおまえの神でいられるのか」
レイモンドの体が大きく跳ねた。その衝撃で椅子と机が大きな音を立て、存在を消していた一同が思わず顔を上げる。
明らかに異常な事態が起きつつあった。彼は、レイモンドは何をされているのか――王は何をしようとしているのか。
王はびくびくと痙攣する彼の頬を、それでもしっかと包んで離さなかった。
「おまえの願いを叶えることで私が神になれるのなら、私はいくらでもそうしただろう。
 だが人には神を操ることはできまい。できもしないことを望むのなら、私はそれを奪わなければならぬ」
叫び声が響き渡った。
苦痛の叫びではない、気がふれたような間の抜けた叫び。それは途切れることなく老人たちの耳に突き刺さる。
レイモンドの痙攣はおさまっていた。しかし目を限界まで見開き、だらりと体を弛緩させて口からだらしない叫びをもたらす彼の姿は異常以外の何者でもない。
彼らは恐怖、驚き、さまざまな目の色をしてただその光景を見守るしかなかった。
ふいに王がレイモンドから目を離し顔を上げる。
「――ああ、そうだ。そう。おまえたちにも見せてあげよう。予言とは何なのか、奇跡とは何なのか」
先ほどまでレイモンドを射竦めていたあの光を目の当たりにし、彼らは皆息を呑んだ。
ある者は傀儡であった男の変貌に怯え、ある者は王の超越した気配に圧倒され感銘を受ける。
誰もが目の前の君主に、人ならざる者である証を感じていた。

王が再びレイモンドに目を落とす。
魂を抜かれたかのように、男はもはや焦点の定まらぬ目で二つの光を見返していた。
緩んだ口からは断続的な声が漏れ、歳を経ていくらか少なくなった歯を越え皺の刻まれた唇を越えて唾液が糸を引いている。
主教という威厳を取り払って無垢に還った彼の姿は、尊厳のかけらも見出せないほどの有様だった。
老いた彼らは皆、王が何をしたのかさえわかってはいなかった。
「これがレイモンドの、そしておまえたちの本当の姿だ。生きるためのすべての欲を忘れ泥人形へ還るおまえたちの姿」
王の目は煌々と輝いていた。まるでレイモンドの魂を吸い、それを種にして燃え盛っているかのようだ。
「私はこれに新たな器を入れることにしよう。神の、神を代弁する私のしもべにふさわしい器を、リャグーシカの名とともに」
緩みきって俯くレイモンドを上向かせ、浅く皺の刻まれた額へと唇を落とす。
――洗礼の儀式。
その場を見守っていた一同は同じ言葉を思い浮かべた。
経典の中にある、最初の神の子――コースチン一世がこの世に遣わされたとき、彼は彼の敬虔なるしもべたちの額へキスを落としたという。
もはや現代の洗礼においてはそのような風習は失われていたが、今この場で繰り広げられている光景はまさに伝説が蘇ったかのような光景だった。
薄汚れた王、白痴と化した老人という奇妙な組み合わせ。
それでも彼らは皆、目の当たりにしているものへの神聖さを確かに感じていた。
懐疑的な老人たちを信心へと導いたのは、あるいは王の眼が放つ異様な輝きのせいだったかもしれない。

かさついた手のひらに包まれ、惰性にまかせ開かれていたレイモンドの瞼が静かに閉じられる。
溢れた涙が頬に筋を作るが、見守る老人たちからはレイモンドの姿は見えなかった。彼は今、親鳥に護られる雛のように王のローブに包まれているのだ。
王は目の前のしもべにしか聞こえないほどの小さな声で、何事かを呟き続けている。それは呪いにも聞こえ、福音にも聞こえた。
断続的に響いていたレイモンドのうめき声は徐々に徐々に弱まっていく。
子守唄を歌う母、母の歌声を揺りかごに眠りに落ちる子。郷愁を誘う不可思議な光景だった。
レイモンドの声が完全に止まったとき、王もまた呟くのをやめた。
続いて発した言葉はやはり抑揚のないものだったのだが、二人を見守る者たちにはどのように聞こえたのか。
「おまえの穢れは赦された。さあ、目覚めなさい、チェスター・リャグーシカ・レイモンド。おまえが最も無垢だった、あるべき姿へ」
王の言葉とともに、彼の衣の下がもぞりと動く。
立ち上がったその姿を見て、誰もが目を見開き感嘆の声をもらした。

それは間違いなく、チェスター・レイモンドそのものだった。
だが、彼は明らかにチェスター・レイモンドではなかった。
「奇跡だ……」
誰かが思わずもらした言葉は、この場にいるすべての者たちの総意に違いなかった。
装飾のついた格式ある祭服を身に纏い、背筋を伸ばして佇む彼の姿は、かつて彼らが見た頃そのままに若返っていたのだ。
余分についていた贅肉はすっかり削げ落ち、白髪のまばらに生えていた頭には赤味がかった茶髪がたっぷりと茂っている。
驚きのあまり言葉を失う同僚たち。かつてレイモンドだった男は、ゆっくりと皺のない目を開けてそんな彼らを一瞥した。
すべてを見透かすような超然とした視線が老人たちを射抜く。
若かったレイモンドには、いや、老いていた彼さえも到達できなかった高みに、今の彼はたどり着いているかのようだった。
「私のいとしいしもべ。おまえは神に、この私に何を誓うのか」
悠然と立つ薄汚い男がレイモンドに問う。
彼は視線をゆっくりと主へ向け、そして恭しくひざまずいた。
「我が主、我が神よ」
頭を垂れてレイモンドが口を開く。活力に溢れた、しかし涼やかな水のように澄んだ声。
「あなたへの不義を忘れることなく、私はこの身の永遠をあなたに委ねます。あなたに賜った恩恵を奢ることなく、私はこの魂のすべてをあなたに捧げます」
レイモンドの言葉はやはり、古い聖典の中に記された使徒の言葉だった。
繰り返される歴史を目の当たりにし、思わず場のすべての者たちが椅子を立ち彼と同じくひざまずく。
王はレイモンドの言葉に応えず、また他の僕たちの行為も意に介さず、黒ずんだ手を前に差し出した。
レイモンドは恭しくその手を取り敬愛の口付けを落とした。
「――これが神の力。これこそ、私が神に賜った力だ」
王が言った。最初と同じように沈黙が訪れたが、戸惑いや疑惑のそれではない。
「バーンズのようにあるべきものを信ずるのもいいだろう。ホープウェルのように自らの信仰を貫くのもいいだろう。
 しかし忘れてはいけないよ。おまえたちは私あってこそのものだということを。私なくしては泥人形にしか過ぎないということを」
儀式めいた言葉を幾分か和らげ、王は彼らに語りかけた。
やはり鷹揚で抑揚のない口調だったが、もはやこの場にいる誰もが王を影で罵ることはないだろう。
「時は満ちた。機は熟した。天より降りた魔が地上を穢すならば、私はこの聖域を脱し魔を清めなければならない。
 すべての民は私のいとしい子どもたちだ。南東の地に降り立つ三人の悪魔は、その血肉を貪るだろう。魂までをも切り裂くだろう」
だが王は、その目こそいまだ爛々としていたが表情の変化も口調の変化もなく、教科書をなぞらえるように無機質に喋っている。
声にもしぐさにも威厳などなく、ただただ色濃い疲労を滲ませて、狂信する僕たちを扇動しているようにさえ見えた。
「おまえたちは私のためにその腕を切り落とし、その足を焼き、その心臓をも差し出せるか。
 悪魔は強大だが、私は神の血を継いだだけの無力な赤子に過ぎない。しもべたるおまえたちの信仰があってこそ、私は私でいられる」
抑揚のない演説が冷たい石室に響く。
王の僕たちの答えは、皆同じだった。
――すべての血肉、すべての魂を捧げます。
老いも若いも入り混じった唱和が室内を埋め尽くした。

「――ああ。いい答えだ。やはりこの瞬間は実に気持ちがいい」
完全に儀式を終えたのか、王の口調も元に戻っていた。
だが誰一人として頭を上げず、王の一字一句も聞き逃すまいと耳をそばだてている。
「始まりが始まりつつあるということは、まだ始まってはいないということだ。だからおまえたちはおまえたちのできることが訪れるまで待てばいいのさ。
 ただ、一つだけ言わなければならないことがあってね。そう、これは予言だ。きっとね。……ホープウェル司祭、顔を上げなさい」
突然名を呼ばれたが、臆することなくホープウェルが面を上げた。 聡明そうな老人を見据え、
「おまえの弟子が二人、デントバリーへ行っているね」
王の問いかけにホープウェルは頷き、「まだ未熟ですが、真に誠実な心を持った弟子たちです」と答えた。
しかし次に告げられた言葉は、彼の自信に満ちた発言を覆すものだった。

「道を見つけられぬ者、道をなぞる者。そのどちらかに悪魔の一人が潜んでいる」

異常な事態にも動揺を見せなかった老人の顔が、驚愕に染まった。
即座にデントバリーへ向かった弟子たちの顔が思い起こされた。
「……マギーが……キャスリーンが――?」
思わず彼らの名をこぼす。
「どちらかはわからない。定められていたはずの運命も変わってきていてね」
恐らく、そのどちらであってもホープウェルの絶望は変わらないだろう。
手塩にかけた愛弟子のどちらかが、この国を――この世界を滅ぼす魔そのものだと、どうして気付けようか。
受けた言葉の衝撃を受け止めきれないでいるホープウェルに、
「弟子と、私と。どちらを信じるだろうか」
王が冷酷な問いをした。ホープウェルの目は一瞬だけ揺れたが、すぐに王をまっすぐ見据え、
「あなたの言葉こそが私のすべてです。しかし、私には祈ることができる」
「そうだね。私も祈ることにしよう。悪魔が彼らの中で消滅するように」
王への忠誠を保ちつつ、弟子への愛も捨てきれない答え。王はそれを否定するでもなく頷いた。
ホープウェルは主の寛大な心に深く礼を述べたが、しばらく考えた末に再び口を開いた。
「……しかし、もしも……もしも彼らが悪魔に打ち勝てず身を転じてしまったなら、その時は私がこの手で安寧の地へ運んでやりたい。
 私の教えが足りなかったばかりに、彼らを苦しめることになるのですから。――この老人の身勝手な願いを、許してはくれませんでしょうか」
静かに、しかし決意を込めてホープウェルは許しを請うた。
王は足を引きずりながら、今度はホープウェルの元へと向かう。
「まだ時ではない。それでも、その時が来たなら私はおまえを止めはしないよ。その時が来たなら私は出来る限りのことをおまえに施してあげよう」
痩せ細り老いた背中に、優しく手が載せられる。
その瞬間、ホープウェルは王の手から何かが怒涛のごとく押し寄せてくるのを感じた。
感情であったか、それとも歴史であるのか。自分の中にある光景や、見たこともない世界の光景が通り過ぎ、認識する前に消えていく。
一個の人間には到底抱えきれないほどの、大地の記憶とも言うべき奔流だった。
レイモンドはこれをすべて受け止めたのだろうか。
ホープウェルの目に、知らず涙が浮かんで流れていく。何のための涙なのか、老いた彼にさえわからなかった。
「ありがとう……ございます」
溢れてくる名もない感情を押しとどめ、声を振り絞った。
一つは自らの決意を許してくれたことへの、一つは世界の一端を見せてくれたことへの礼だった。
王は再び頷く。背に置いていた手を離せば、ホープウェルに訪れていたものも止んだ。

「時が来ればわかる。そうすればここに集まればいい。その時、私はおまえたちそれぞれに予言と祝福を与えよう。
 それまでおまえたちは神の使いに足る者を探しなさい。神の使い、救いを求める者、神のすべてを信じる者、魔のすべてを憎む者」
受けた命を深く胸に刻みつけ、彼らは再び扉の奥へ戻ろうと足を引きずる王の姿を見送った。
一人だけ、若返ったレイモンドは王の後に従い、同じく扉の向こうへ消えていく。
すべての穢れを浄化し赦された、失われたはずの洗礼名を受けた彼のみが聖域に入ることを許されているらしかった。
さまざまな思惑があったはずの密会を終え、一同はお互いに一言も発することなく静かに部屋を後にし、暗い階段を上っていく。
おそらく誰一人として、今夜祈りを捧げない者はいないだろう。






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