通り過ぎた雨の後。
夜の林はいまだ土を濡らしていた。
「疲れちゃった。ねえ、疲れたよ。あんなの、僕の捜してたひとじゃない」
木々のさざめきとともに、幼げな口調でアルバートがこぼした。

彼の手には不穏なものが握られている。闇に紛れているため、それが何であるか人の目では判別できないだろう。
……右手には宿屋の妻、グレアムの目が一組。そして左手には最初の犠牲者である、アッカーの顔の皮が握られていた。
ルイスは廃墟の屋上で、月明かりを受けながら一人立っている。それを見守る者はなかった。
「でもね、リズ。君が悪いんだよ。君がどこまでも浅はかなだけ。何も、何にも変わらないよ」
ややちぐはぐな言葉を並べるアルバートはそこにいないはずの存在に向けて語りかける。
虚ろな目をしているにもかかわらず、やはり口だけは笑みを形作っていた。
「辛いね。かわいそうだね。君が悪い。裏切った君を許すことはできない」
――神様がそう言っているから。
アルバートはそれだけ呟くと、瓦礫を蹴って跳んだ。
そのまま駆け出して林の斜面を下り、静まり返ったデントバリーの街へ降りる。殺人犯を警戒してか誰も出歩いてはいないようだった。
たどり着いて足を止める彼は、全力疾走に近い運動をしたにもかかわらず息一つ乱れていなかった。
両手のものを持ったまま、肩まで伸びた黒髪をそのままかき上げる。目の高さほどで一つに縛り、彼は歩き始めた。
ぽつぽつと乾きかけた路面を照らす街灯に映る彼は、デントバリーに到着し、最初の凶行の時に来ていた上下揃いの服ではなく、支給品の粗末な軍服を身にまとっていた。
その姿を見た者は、おそらく彼をアルバートと呼びはしないだろう。

閑散とした街路に軍靴を響かせ、アルバートは街の外れへと向かう。宿屋とはまた異なった方向の通りに出た彼は、一軒の家の前に立った。
その家が空き家であることを彼は知っていた。しかし空き家であるはずのそこの窓から小さな光が洩れている。
二度、三度とノックを繰り返す。しばらくして、一人の男が不審げに扉を開けた。
「こんばんは」
男は突然の来客に、そしてその来客が予想外の人物だったことに驚き目を丸くした。
「お前は……」
「夜分にすみません、クーパーさん。ちょっと話をうかがいたくて」
その男は、施設で暮らしているはずのサミュエル・クーパーだった。
サミュエルは警戒を露わにしてアルバートをねめつける。なぜここにいるのがわかったのかと、わずかに焦りを滲ませていた。
「何の用だ? 深夜に非常識だと思わんのか」
「そうは思います、だからお願いしているんですよ。クーパーさん。話をうかがいたいんです」
「こっちには話なぞない。でかい顔をするのは施設にいる時だけで――」
言いかけて、アドルフが言葉を止めた。視線が下に降りていた。
「――話をうかがいたいんです」
ぞっとするほどに静かな声が聞こえ、サミュエルは視線をゆっくりとアルバートに戻した。
サミュエルの記憶が確かなら、彼は兵士に向かないようなお人好しだったはずだ。常に人のいい笑顔を浮かべている無駄に綺麗な顔が気に入らなかった。
今目の前に立っている彼も、同じ笑みを浮かべているはずだった。にもかかわらずサミュエルはその笑顔を見た瞬間、思わず一歩後退した。
全身の毛が逆立っているのがわかる。
「お前が……お前が殺したのか」
思わずそう口走っていた。
アルバートはぞっとするような笑みを浮かべたまま、やんわりと首を振った。
「違うよ」
彼の否定に構わず逃げ出そうと踵を返すサミュエル。しかしその前に、アルバートの大きな手が彼の頭ごと口を塞いだ。
乾きかけた人の皮が目の前に迫り、サミュエルは半狂乱で暴れるも、圧倒的な体格差に逃れることは叶わない。
「声を上げたり、暴れたり、逃げようとするのは悪い子だ。悪い子はどうなるのか、よく知っているでしょう」
穏やかな声が耳元で囁かれる。幼げな口調がよりいっそう不気味さを増し、サミュエルは動きを止めた。
彼は噂話で、そして実際に現場を見て知っていた。街に潜む殺人犯がいかに異常で、残酷な殺し方をするかを。
何よりそれは今彼の目の前にある、彼の頬に触れているアッカーの皮が雄弁に物語っていた。
逆らえば、自分も同じ運命を辿ることになるだろう。たとえどの道救われないとしても、少しでも生きる時間を稼ぎたかった。
力なく頷くとアルバートは「約束だよ」と念を押し、彼の口から手を離す。両手に持っていたものを腰に下げたポーチにしまう。
サミュエルは彼との約束どおり黙ったまま、怯えた目でその様子を眺めるしかなかった。

「おい、遅いぞサミュエル」
「誰もいるもんかって言ったじゃねえか。酒のやりすぎで耳までおかしくなっちまったんじゃ――」
玄関を進んで居間に進めば、そこには更に二人の男がいた。
彼らはサミュエルを揶揄するが、同時に現れたアルバートを見てやはり言葉を止める。
「皆さんこんばんは」
アルバートはにこやかに二人へ笑いかけた。どういうことだと二つの視線がサミュエルに突き刺さるが、彼はひどく憔悴した様子で口を開かない。
「軍人風情が。何しに来やがった」
「キッドマンさんに、フィッシャーさん。夜分にすみません」
一人ひとりの名前を覚えているのか、アルバートは壮年の男二人に挨拶をした。
ハロルド・キッドマンとノーマン・フィッシャーは当惑顔で顔を見合わせた。
「お話をうかがいたくて。お邪魔かとは思いますが、ご協力お願いします」
「……おい。なんだってこいつがここにいるんだ」
アルバートの言葉を無視してハロルドが問い詰める。だがサミュエルは怯えた目で一瞥しただけで、やはり答えることはなかった。
「呪いについてご存知でしょうか」
アルバートもまた彼の疑問を無視してたずねた。
しかし、そのあまりにも突飛な問いに、場の異常さも忘れ二人が笑う。
「呪いだって? おい、聞いたかノーマンよ」
「何を言い出すかと思えば。やっぱりあれの周りにはいかれた奴が集まるんだな」
「――呪いについてご存知でないと」
二人の嘲笑に気を害する様子もなく、アルバートは笑顔で確認した。それから続けて、
「それなら、祝福という言葉はご存知ですか?」
やはり意味不明なことを尋ねてくる。
ハロルドたちは笑うのをやめ、奇異な目でアルバートを見た。
冗談で言っていると思っていた二人は、続けられた妙な質問にさすがに違和感をおぼえたらしい。
「こちらもご存知ではないのですね」
確認して満足そうに頷き、アルバートは一旦口をつぐんだ。
先ほどとは若干気色を変え、薄気味が悪そうにハロルドたちが囁き始める。
「……おい、本当にこいつ、頭がおかしいんじゃないのか」
「サム。なんでこいつを入れちまったんだ、おい、サミュエル」
ノーマンがしつこくサミュエルに問うが、彼はやはり脂汗をかいたまま黙っていた。
「どうしちまったんだ? ほら、こっちに来いよ、なんでそんなとこで――」

「――知らないならいいんだ。生贄が増えるだけだもの」

突然聞こえた不穏な単語に、思わず彼らはサミュエルの間に立っていたその男を見た。
しかし男は、アルバートはそこにはいなかった。
ハロルドたちは変化についていくこともできず立ち尽くす。アルバートの正体を知っているサミュエルだけは小さく悲鳴をもらして顔を覆った。
何なんだ、と声を上げようとしたノーマンの視界が突然暗転した。
それがアルバートの手だとわかる前に後頭部に激痛が走る。煉瓦でできた壁とノーマンの頭とがぶつかり合い、嫌な音が部屋じゅうに響いた。
白目を向いて倒れこむノーマンの姿を見、叫び声を上げる前にアルバートがハロルドの喉を掴んだ。
「人は頑丈だよね。だけれど脆い。手で簡単に殺せてしまえて、手で簡単に殺されてしまうんだから」
ハロルドの体が持ち上がる。首の肉に指がめり込み、彼は体の中から肉の絞まる不快な音を聞いた。
呼吸をしようともがく度に情けない声が洩れる。じたばたともがくがアルバートは微動だにしなかった。
「知っていたら殺される。知らなくても殺される。辛いね。かわいそうだね。でも僕をかわいそうだとは思わないでしょう?」
五十キロ以上のものを片手で持ち上げているとは思えないほど涼しい顔で、アルバートはハロルドに問いかけた。
しかし彼に答える余裕などあるはずもなく、それどころか赤黒く変色した顔から飛び出そうな目は上を向き、抵抗の動きも弱くなり始めていた。
目の前の男が弱っていくさまを、知らず失禁していく様子をアルバートは楽しげに眺めている。
そしてその光景を見るサミュエルは、どの戦場でも感じたことのない恐怖に縮こまり、必死で自らの口を塞いでいた。
やがてもがく動きはごくわずかなものとなり、緊張していた四肢がだらりと垂れ下がる。
動かなくなったハロルドを確認してアルバートは手を離した。弛緩した体が無様に床にくずおれる。
手を数回握り、改めてサミュエルに向き直った。サミュエルは腰を抜かして、それでも壁際までじりじりと後退する。
「お、俺も……、殺さないでくれ。頼む、お願いだから」
哀願するサミュエル。目には涙が浮かんでいた。
「殺す? 僕が?」意外そうにアルバートが問い返した。
「まさか君は、君たちはこれぐらいで人が死ぬとでも思っているの?」
言うなり、再びハロルドに目を落として容赦なく蹴り飛ばす。その衝撃にハロルドが鈍い声をもらした。
向かいの壁を見れば、ノーマンもまた微弱ではあるが胸が上下しているのがわかった。
だがサミュエルは一つも安心などできなかった。
一撃でノーマンを失神させ、煉瓦の壁に血の痕を残し、片手で易々とハロルドを持ち上げるような怪力の男を前にどう安心するというのか。
「なぜ、なんで俺たちなんだ? 他の奴を狙えばいいじゃないか、俺たちが何をしたって言うんだ」
半ばやけになってサミュエルが問いかけた。無責任な発言だったが、アルバートは咎めるでもなく、
「なぜって、さっきから言っているでしょう。話を聞きたいんだ。悪い子は殺されてしまうんだって」
微妙にかみ合わない会話がよりいっそうサミュエルの怯えを助長させた。
目の前の男が何を考えているのかわからない。同じ人間であるのかさえ、わからなかった。
――化け物だ。この男こそ本当の化け物なのだ。
「怯えてるの?」
首を傾げる姿は、傍目から見れば様になる光景なのかもしれない。しかしこの男から滲み出る不快な違和感は、他のどんなものより異質だった。
サミュエルの中に残っているわずかな本能が警鐘を鳴らし続けている。今すぐ逃げろ、そうでなければぼろきれのように殺されてしまうと。
しかし逃げることなどできなかった。あの二人を襲った瞬間、目はかろうじて反応できても体は全くついていかなかったのだから。
後ろを振り向いた瞬間、この男は自分をたやすく殺してのけるのだろう。
目に見えて震えるサミュエルを、アルバートは弧を描いた目で見下ろしていた。
「でも、そうだね。もし僕が生かしてあげると言ったら、どうする?」
アルバートの提案。これっぽっちも信用できなかったが、サミュエルは藁にも縋る気持ちで哀願した。
「何でもする。何でもするから、殺さないでくれ」
「何でも? できもしないことを言う子は嫌いだよ」
「誓う。できることなら……何でもするから、だから」
困ったなあ、と大げさに肩をすくめて彼は迷う素振りを見せる。サミュエルは祈るような気持ちで、アルバートの気が変わるのを待った。






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