「じゃあ、これを貸してあげる。手を出してごらん」
言われ、手を出した瞬間に切り落とされるのではないかという恐怖と戦いながら恐る恐る右手を差し出す。
その手に重いものが載せられた。見た瞬間、それが何かはわかっていたが――にわかに信じがたい気持ちで受け取ったものを再度見下ろした。
「君はハロルドやノーマンのことを大切に思っているんでしょう? なら、僕がこの二人に何をするのか、それがどれほど辛いことなのかも知っているよね。
 もし君が嫌だと言うのなら、君の目の前でハロルドの肌を少しずつ、そこのかまどで丁寧に焼いてあげる。ノーマンの頭の傷から手を突っ込んで、中身を君に食べさせてあげるよ」
渡されたのは、刃渡り十二センチを超える凶悪なナイフだった。布の巻かれた持ち手に染み込んだ黒ずんだ血が、サミュエルの汗に溶けていきそうだ。
明言されたわけではない。しかし彼が暗に示した命令は残酷なものだった。また、それを拒絶した時の対価にも吐きそうになる。
この男のように気が狂えたならどれほど楽だっただろう。しかしサミュエルは震える手で、二択のどちらを選ぶか迷うことしかできなかった。
「肉の焼ける匂いは君も嗅いだことがあるはずだよ。髪の毛や湿ったものが焼けた時の匂いや、脂が溶けて落ちる音はずっと体に、耳に残るだろうね。
 生肉も食べたことがないようだから知らないだろうけど、脳って案外美味しいものでね。友達のものは格別なんじゃないかな」
手に口を当ててくすくすと笑うアルバート。罪悪感など微塵も感じさせない態度にサミュエルはいっそうの恐怖をおぼえた。
やはり目の前に立つ、つい昼間まで屈託もなく笑っていたこの男は人間などではないと確信する。
同じ人間であるというのなら、どうしてここまで残酷なことを簡単に言ってのけるだろうか。サミュエルを躊躇なく追い込むことができるだろうか。
全身を恐怖に慄かせていまだ迷うサミュエルを尻目に、アルバートは再び踵を返した。
横たわる二人のそばまで歩き、意識を失ったままの彼らを縛り上げる。下がっていたカーテンを引き裂いて丸め、こじ開けた口に無造作に押し込んだ。
「さあ、どうしようか。僕はどちらでも構わないんだよ。選ぶのは君だ」
無抵抗に転がる二人を並べ、アルバートは両手を広げた。
穏やかな、しかし虚無の瞳でサミュエルを見据え、選択を迫る。
「何でもできるんでしょう。自分が助かりたいならなんだってできるんでしょう? 嘘をついてばかりの君が、約束を果たす最後のチャンスだ」
演説がかった口上を述べ、彼は後退し沈黙した。

心臓の鼓動が喉元まで迫ってくるのを感じながら、サミュエルはゆっくりと、ゆっくりと座り込んだまま進む。
なぜだか呼吸がひどくしづらかった。だらりと口を開け、荒い息を繰り返す。汗が全身から吹き出してそのまま溶けてしまいそうだった。
永遠のように思われたが、サミュエルは気がつけば二人を間近に見下ろしていた。
ハロルド。ノーマン。半分だけ開かれた目がサミュエルを更に追い詰める。
「……許してくれ……ノーマン、許してくれ」
頭から血を流し続けるノーマンを見下ろし、呆然と何度も呟いた。
ナイフを両手に握りなおし、高く掲げる。どこを狙うべきか、そんなことを考える余裕さえなかった。
目を閉じ、何度も何度も許してくれと呟きながら、両手を勢いよく振り下ろした。
その瞬間、両手から――両手に握ったそれを伝って、感じたことのない嫌な感触がサミュエルの全身を走り抜けた。
同時にくぐもった叫び声が彼の耳を突く。痛みと衝撃で覚醒したノーマンは目を見開き、友の凶行に悲鳴をあげたのだ。
サミュエルは目を固く閉じたまま、力任せに腕を戻す。
「駄目だよ、そんな場所じゃ痛くて苦しいばかりだよ。楽にしてあげたいっていうのは嘘だったの?」
アルバートの揶揄、ノーマンの悲痛な叫び。サミュエルは意味のない呻きを喉から搾り出して、彼らの声を打ち消そうとする。
再度振り下ろされたナイフはノーマンの体ではなく固い床にぶつかった。反響でサミュエルの体が大きくのけぞる。
尻餅をついた彼。ノーマンは涙に濡れた目でそれを見守っていた。
すぐに起き上がり、サミュエルは思わず目を開けて自分の位置を確認する。
後ろ手に縛られ仰向けになったノーマンの姿が否応なしに視界に飛び込んできた。
右の太ももが大きく裂け、血がこんこんと湧き出ている。顔をくしゃくしゃに歪めた彼は、奇妙なことに、笑っているようにも見えた。
手に持ったナイフを見た。よく見れば、鋭利なはずの刃はすっかり鈍っているのがわかる。
使い物にならない金属の塊に過ぎないそれに、鮮やかな赤いものがべったりとついていた。
滴り落ちた血のしずくがサミュエルの手を汚す。
サミュエルは体勢を戻し、再び腕を上げた。今度は目を閉じず、ノーマンの顔を、体をしっかりと見据えて。
「よく狙うといい」、その言葉はわかっているはずなのに、再度振り下ろしたナイフはノーマンの横腹を貫き、肩を砕き、いくつもの穴を開ける。
笑いもせず泣きもせず、彼はただ夢中でノーマンを刺し続けた。痛々しいくぐもった悲鳴が徐々にか細くなっていくのも耳に入っていないようにさえ見えた。
ノーマンの声が聞こえなくなっても、痙攣する体が動かなくなっても、サミュエルはしばらくその行為に没頭していた。

体中を血に濡らし、ようやく動きを止め肩で息をするサミュエル。
もはや原型をとどめていないノーマンを呆然と見下ろす彼に、嘲笑が降り注いだ。
「嘘、嘘。嘘ばっかりじゃないか! ねえ、サミュエル、サム、サミー」
アルバートが笑っていた。他人に気取られぬよう細心の注意を払っていたはずの彼は、大きく口を開けて、笑っていた。
「楽しかったんでしょう。楽にしてやることができたのに、ノーマンは何度も何度も苦しんで君を憎んで死んでいったよ。君はやっぱり嘘つきだ」
サミュエルは彼の言うことが理解できず、笑うアルバートを無表情に見上げるだけだ。
そんなサミュエルの様子を見てまた嘲笑をこぼし、
「何でもできるなんて嘘だ。やりたくなかったなんて嘘だ。許してくれなんて嘘だ。楽にしろって言ったのに、どうして君はすぐに止めを刺さなかったの?
 こんなもの使い物にならないよ。人殺し、君は人殺しだ。見てごらんよ、ねえ、ハロルドも君を人殺しって言ってるよ」
病的にまくしたてるアルバートの言葉に促され、サミュエルはのろのろと視線を隣へ移した。
さっきまでノーマンと同じく失神していたはずのハロルド。彼はいつの間にか目を覚ましていた。
全身を震わせてノーマンの死体を見つめていたハロルドは、サミュエルの視線を感じた途端息を詰めておびえてみせる。
――近寄るな、この人殺し。
ハロルドの目は確かに、彼にそう言い放っていた。
「喉を刺せば終わる話だったのに、君は実に楽しそうにノーマンをいたぶっていたね。
 ハロルド、君だって思うでしょう? サミュエルは人間じゃない。人の皮をかぶった化け物だって。彼こそ本当の化け物だって」
「……俺は……」
その言葉に、親友だったハロルドの目に、サミュエルは思わず声を上げた。鈍磨していた意識が覚醒しはじめる。
「俺は、何もしていない! お前が……パーネット、お前が――」
「――僕をその名前で呼ぶな」
徐々に語気を荒げ始めるサミュエル。しかしようやく湧いてきた彼の怒りは、アルバートの低い声を聞いた瞬間一気にしぼんでいった。
ひどく冷たい目がサミュエルを射抜く。光の一切を吸収し、淀んだ殺意がその奥に覗いていた。
初めて笑みを消した彼の顔は、ぞっとするほどに無感情で人形のようだった。
「ルイス。ルイス・パーネット。君に僕の名前を呼ぶ資格は、呼びかける資格はない。壇上にさえ上がれない観客は役名さえ言っていればいい。
 僕はその名前がとても嫌いだけど、君たちに呼ばれるにはぴったりだ。ねえ、おじいさま。セルバシュタインなんて何の役にも立たなかった」
最初こそサミュエルに対し語りかけていたが、視線を外しぶつぶつと呟く彼。
呟きの中にあったその仰々しい名前を耳にした時、サミュエルは別の意味で震え上がった。
あまりに特徴的で、誰もが知っているはずの名前だったのだ。
軍のすべてを取り仕切る名家中の名家。国を代表する稀代の英雄。
「お前は、――お前はまさか――どうしてこんなところに――?」
しかし彼はその問いに答えず、再び笑顔を貼り付けてサミュエルに向き直った。
「感謝してほしいくらいだよ。永遠に不特定多数の君たちを、一瞬だけでも壇上にのぼらせてあげたんだもの」
そのまま歩を進め、怯えるハロルドの髪を掴んだ。
足首に隠された二つ目のナイフを取り出し、意味のない呻きを撒きちらす彼の耳に刃先を充てる。
「なぜって、君たちが善良な人の皮を被った化け物だからだよ。せっかく見つけた神の使いを君たちに壊されては困るんだ。とても困るんだ。
 君は、君たちはここで何をしていたの? 隠し事は良くないよ。ドナ・エメットだって僕に賛同してくれる。君たちがしようとしていることは皆にとって罪深い。
 歪んだ善と正当化された悪なんて正しくない。僕はそれを正したい。そうしなきゃならない。君たちは悪で、僕たちは善だ」
ハロルドの悲鳴が甲高くなった。側頭部から血が流れ始めていた。
渡されたそれとは違い滑らかな斜面をもった刃先が沈み、裂けた皮を緩やかに引っ張る不快な音が響いた。
サミュエルは麻痺しかけた心でハロルドの耳が削がれていく光景を見守り、目の前の彼が放つ言葉を必死で反芻していた。
しかしいくら再生しなおしても、彼が何を言っているのかちっともわからなかった。
わかることといえば――馴染みが深いのは、施設を切り盛りするあの仕切り屋の女の名前、そして「化け物」という単語だけだ。
脳裏に忌々しい、不気味なあの男の姿が浮かび上がる。
あの、何もかもを文字通り見透かす、呪われた男。化け物という単語は、あの男やこの男を形容するにふさわしい言葉だ。
善と悪というのなら、人の秘密を無闇に暴き、こうして人を痛めつけるような彼らこそが悪ではないか。
サミュエルなど、それに翻弄されたか弱い子羊に過ぎない。
無実の彼らがあんな化け物のせいで嫌な思いをするのなら、それを正そうとすることの何が悪いのか。
「傲慢な気持ちを隠す君は嘘つきだ。善良なふりをして他人を壊す君は嘘つきだ。嘘つきは悪い子だって言ったでしょう。
 悪いことを隠す君も、神さまを裏切る彼も、不必要に人を殺した彼も。みんなみんな悪い子だ」
水っぽい嫌な音をたてて、耳がハロルドのもとを離れた。
嘘つき、嘘つきは悪い子。何度も繰り返されてきた言葉に、サミュエルは再三身の危険を感じ取った。
――悪い子は殺される。殺されてしまう。
今、彼はハロルドへの行為に没頭しているように見えた。今なら逃げきれるのではないか。
そう思い、じりと後退するサミュエルに無慈悲な言葉がかけられた。
「大丈夫、大丈夫だよ。今逃げても君が犯人になるだけだから。だから僕と遊ぼう。まだまだ夜は長いんだもの」
血にまみれた手を見下ろす。
腹立たしいことに、彼の言うとおりだった。この姿でどうやって助けを求めるというのか。
もし真実を話したところで、パーネット、いや、セルバシュタインの名を持つ彼を咎める者などいるはずがない。
国を代表する英雄がとても楽しげに一般人をいたぶり、殺していたなどと、誰が信じようか。
絶望に今度こそ身を委ねたサミュエル。
「お話をしよう。君も、一晩をかけてじっくり遊んであげるからね」
断面から血を滴らせる両耳を持って、慈悲を打ち砕く言葉が添えられた。






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