「おい、レンツ」
後ろから腕を引かれ、振り返るとグエンがいた。帽子を無造作に被っているせいで髪があちらこちらへはねている。
「帰るぞ」
言うなり有無を言わさず腕を強く引っ張られ、力で敵うはずもない私は人垣から出ることを余儀なくされた。
彼の方からついて来いと言ったくせにあまりにも身勝手な振る舞い。
だが彼が腕を引いてくれたことで、サンディオの顔も――伝わってきた彼の気持ち、のようなものも、消えた。
一秒でも早くここから立ち去りたい。あの凄惨な現場を、たくさんの人に囲まれた状況を早く脱したかった。
(なぜたくさん人がいては駄目なのだろう)
私の願いに違わず、グエンは足早にもと来た道を辿り続ける。その様子は明らかに動揺し、焦っているように見えた。
まっすぐに前を向いた彼を見ながら、歩くうち少しずつ冷静になってきた頭を捻らせた。
軍人であった彼なら、痛々しい傷跡をいくつも残すほど前線をかいくぐってきた彼なら、私よりも残酷な光景への耐性がありそうだと思ったのだが。
そんな彼でさえも目を背けたくなるほどだったのだろうか。確かに、あの狂気に満ちた惨状は未だに目の裏に焼きついて離れないほどだ。
あれが、元々生きていた人でできた光景だなんて信じられなかった。それも、私のよく知っている人のものだなどとはどうしても思えなかった。

早歩きで帰途を辿る彼に引かれる私は小走りで、あっという間に丘のふもとまで着いた。
慣れない運動をこなしたことでひどく疲れていた私は、思わず膝に手をついて大きく息を吐いた。
頭がくらくらする。あれだけ走ったはずなのに、顔がひどく冷たい気がした。
「顔が青いぞ。大丈夫か?」
よほどひどい顔をしていたのだろうか。片手を上げて応えてはみたが、あまり大丈夫とは言えなかった。
めまいがした。これが単なる貧血だといいのだが。

息を整えて姿勢を戻し、目前を見上げた。
すると、丘の上から手を振る姿が見えた。――ルイスだ。
その姿を認めた瞬間、あの毒気のない笑顔が無性に恋しくなった。鼻の奥にこびりついた生っぽい臭いを紛らわせたかった。
丘を上ろうと足を踏み出した私。またグエンが私の腕を掴む。そのおかげで私は後ろにつんのめった。
何だ。何なんださっきから。

「――奴に近付いたら駄目だ」

何事かと振り返る私に、グエンが言った。
かつてないほどの切迫した、真剣な表情。額から汗まで滲んでいた。
奴とは、誰のことなのだろうか。
まさか丘の上にいる彼のことなのだろうか。だとすると、なぜ?
あまりに突拍子のない忠告に首を傾げる私に、グエンは更に念を押した。
「あいつはお前が思ってるような奴じゃない。奴は、あの男は俺の――」
そこまで言ったところで唐突に口を閉ざした。視線は私ではなく、もっと後ろの方へと向いていた。
腕にあった感触がなくなる。
「――レンツさん、グエンさんも!」
よかった、と軽く息を切らせながら、ルイスがすぐそこまで降りてきていたのだ。
「でも……ああ、もう見てしまわれたんですね。止めようと思って急いで来たのに」
私たちが何を見てきたか察して、ルイスは暗い顔をした。
彼は既に現場を見ていたらしい。確かに、彼の体にはあの場に漂っていた濃い死臭のようなものが染み付いてしまっていた。
「犯人はよほどの異常者らしいな」
先ほどまでかつてないほどの真剣な面持ちで私に警告していたはずのグエンが、またしてもさらりとルイスの言葉に同意を示す。
グエンは何をしようとしているのだろう。何がしたいのだろう。さっぱりつかめない。
警告の先はルイスではなかったというのか。それならば頷けるが、この状況で他の誰かを指しているとも思えなかった。
「ええ、……本当に。あんなことをする人がいるなんて、信じられません」
首を振る彼の目には隈ができていた。連日してひどいものを見たせいだろう、濃い疲労がうかがえる。
「そうだな。一体誰が、あんな無意味なことをしたのやら」
「一日でも早く犯人を捕まえないと。これ以上犠牲者を出すわけにはいきません」 決意を新たにするルイスだが、閑職にまわされた彼にできることはほとんどないのではないか。
そもそも彼に犯人を捕まえられるだけの技量があるのかと心配になる。彼が次の犠牲者になってほしくはなかった。
「捕まえられるといいんだがな」と、グエンがやや斜に構えて言う。
顔はやはり無表情を貫いていた。私はますますわからなくなる。
皮肉屋の彼ではあるが、ルイスに対する物言いは他の人に対するそれと比べるとより一層棘があるように見える。
気だるげでも胡乱げでもなく、徹底して表情を隠しているのも気になっていた。やはり、彼はルイスのことを嫌っているのではないか。
ルイスがこちら側の兵士だからだろうか。だがただそれだけの理由で人を嫌う男には、どうしても思えないのだ。
誰よりも信頼を置いていたはずなのに、今の私には彼の気持ちが理解できなかった。
「見張りもそこまで役に立っていたとは思えないな。こうやって身内が死んだんだから」
続けざまにルイスを暗に非難し、温度のない目で彼を見やる。
しかしルイスは、その何気ない一言に衝撃を受けたようだった。
「――ここの方だったんですか」
瞠目しうろたえる彼を見て、現場では身元の確認を急いでいたのを思い出した。
ルイスは一番に現場を見たものの、気付かなかったのだろう。ここに来て数日なのだから全員の顔を把握していなくとも無理はない。
「気付かなかったのか?」
心底意外そうにグエンが片眉を上げた。
「その……顔を見る前に、ちょっと気分が……でも、そんな……」
「……」
額に手を当てて首を振るルイス。その姿を、グエンは奇妙な目で見ていた。
呆れているような、哀れんでいるような目にも見えた。
彼の愚鈍さ、兵士としての弱さに呆れ果てているのかもしれなかった。

「レンツ、さっさと帰るぞ。イカれた奴がすぐそこをうろついてるかもしれないんだ」
ルイスへ向ける視線もそこそこに、グエンは話を切り上げて私を促した。
彼の言葉に、ルイスは含まれていない。彼は私たちの身を案じて、わざわざ施設まで来て、ここまで降りてきたのに。
「奴も忙しいんだ、あんまり引き止めてやるな」とグエンは言うが、それではあんまりではないか。
グエンは彼のことが嫌いかもしれない。人の好みまでとやかく言う筋合いもない。
それなら、私ぐらいは礼を言ったって構わないだろう。それくらいの時間をもらっても許されるだろう。
ちょっと待て、と引き止めれば、グエンはとても苛立たしげにこちらを睨んだ。
さっきから、何をそんなに急いでいるのだろうか?
気にしていても仕方ない。さっさと済ませたらいいだけの話だ。振り返って、私は立ち尽くしているルイスに会釈しようとした。
「――どちらが本当なんですか? どちらでももう変わりませんけどね。三と四の違いは大きい」
振り返って視界に入ってきたルイス。彼はグエンに対して語りかけていた。
目を細め、ごく楽しげに笑んでいる。先ほどの狼狽した表情が嘘のようだ。
どちらがとは、何のことだろう。もう変わらない、三と四、とは?
しかし彼は詳細を語らなかった。
「今は戻られたほうがいい。それからまた、お会いしましょう」
最後はこちらにも目をやりながら、ルイスは小さく手を振った。
視界の端にかすかに映ったグエンが、踵を返して丘を登っていくのがわかる。
私は慌ててその後を追いながら、ニコニコと笑う彼に向かって軽く会釈するのが精一杯だった。
先を走るグエンの顔は、さっきの現場を見た時……今まで見たどんな時よりも蒼白になっていた。






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