「僕にはわからないことがあるんです」
ルイスが重々しい沈黙を破った。全員が彼の方へ顔を向ける。
「この人がそういったものを確かに持っているとして――神父様、なぜあなたは彼を放っておいたんです?
 不満が徐々に溜まっていっていたのを見ていたあなたなら、いつかこういう日が来ることもわかっていたはずでしょう。
 なのにあなたは彼に会おうともしなかった。実際に見て確かめようともしなかった。それはなぜなんですか?」
淡々としたルイスの言葉に、神父は一瞬、この場にはそぐわない表情を作った。
私の目が正しいとするなら、虚を突かれたとでもいうべきか。
すぐに口を引き結ぶが、やはり私だけが感じたものではなかったようでキャスやマギーも訝しげな顔で神父を見ていた。
「……施設の者たちに信心深い者は少ない。それに、彼もまた滅多に外には出ないのだ。言い訳になるかもしれないが、きっかけがなかった」
「そうですか? でも言っていましたよね。施設の人たちも、街の人たちに同調し始めたって。
 まるで自分が直接聞いたかのように、施設の人たちがこの人をどう思っていたのか、さっき言っていたじゃないですか。
 彼らは教会に来たことがあるってことですよね。繋がりがないって、おかしな話だと思いませんか?」
神父の動揺がひどくなった。
場の空気を読めないマギーが、「ああ」と思い出したように声を上げる。
「そういえば礼拝堂で施設の奴らと出くわしたことがあったっけな。けっこう熱心に説教を聞いてたような。なあキャス」
彼女よりは賢しいのだろう、キャスは俺に振るなとでも言いたげなほど露骨に嫌な顔をした。
だがマギーとルイスの視線に負け、「確かに見た」と渋々彼女に同意を見せる。
ルイスは淡々と、しかし証言を得たことでどんどんと神父を追い詰めていく。
「キャスさんたちや副団長が来た時にも、あなたは彼を「あんな男」呼ばわりしたそうですね。
 ずいぶんとおかしな話です。神父様がさっき言った話だと、あなたは彼をむしろ好ましい目で見ていたかのように語っている。
 なのにどうして、――嘘をつくんですか? 何か言えないことでも、あるんじゃないですか?」
徐々に弧を描いていく口許。対照的に神父は俯いて黙っている。
「ねえ、神父様。罪を負った人たちを目覚めさせ、改めさせる彼の能力はむしろ、神聖な力だと思いませんか?
 僕でさえそう思うのに、どうして神父様は彼を「あんな男」と呼んだんです?
 他人事のように語っていますけど、あなたは――他の人たちと同じように、彼を恐れていたんでしょう?」
「……馬鹿な」
絞るように言う神父。だが、ルイスの勢いは止まらなかった。
腕を組み笑う彼、彼はこんな顔をするような人だっただろうか。
(……)
「罵っていたんでしょう。恐れて、怯えて、責任転嫁をして。彼を化け物だと言っていたんでしょう?」
「――何を言うかと思えば、下級兵士の分際で――」
「――なら彼の目を見てみればいい。ほら、被害妄想なんてないと、彼の目を見て言ってください」
声を荒げる神父を遮り、ルイスは有無を言わさず彼を促した。
私へと。

神父は動きを止め、額に汗を滲ませて深く呼吸を繰り返した。
「見る、だと……」
誰も彼の言葉に反応しない。今や皆、どこか冷たい目で神父を見据えていた。
本人であるはずの私が一番どうでもいいと思っているような気さえした。
実際はどうでもいいわけではない。だが、彼を蔑む気にはなれない。
ただ見てほしくない。目を合わせるつもりもない。これでもしまた彼の考えが視えたらもう言い訳などできないのだから。
恐い。――恐い。
意図的なほど伏せられている褐色の目。ちらりと目の端にとらえるだけで、わずかに動揺しているのがわかる。
これで十分ではないか。神父は嘘をついていた。彼は、私を恐れていた。それが証明されたのなら、何もこんなことをする必要なんてない。
そうやって揺れる私の目に、ルイスの言葉が飛び込んできた。
「目を背けたままでいいんですか? そうやって、」

(いつまでも忘れたふりを続けるなんて僕が許すと思う?)

背筋に冷たいものが走った。
――私は今、ルイスの目を見てはいなかったはずだった、口だけを見たはずだった。にもかかわらず、頭に冷たい声が滑り込んでくる。
だがこれが彼の思考だなどと信じられなかった。私の知るルイスは、こんな冷たい感情を滲ませるような人ではない。
妄想だ。妄想に違いない。
思いながら、私は神父の目以上に、彼を見ることを恐れていた。
ルイスのあの、色の薄い瞳を見たらもっと悪いものが視えてしまうような気がした。
(さあ早く)
ぞっとするほど冷たい声が、楽しげな、何者も入る余地のない濁りきった憎悪の気持ちが、また流れ込んでくる。
受けているだけで気が狂ってしまいそうだった。
(早く、)
せっついてくる彼、いや、妄想の声。
見ずとも無理やり割って入ってくるそれから逃げるように、私は逸らし続けていた目を注意深く横へと流す。

(――私を見るな、神父だ、私は神父なんだ、聖職者だ。見るな見るな見るな、いやだ、どうして、お前ごときに――)

神父の目を見た瞬間、先ほどまで感じていたあの嫌な濁流は消えうせた。代わりに澄み切った恐怖心が怒涛のごとく頭に押し寄せてくる。
安堵と落胆が私の胸を満たした。
神父ははじかれたように立ち上がり、青ざめた顔で竦み後ずさった。わずかに首を振って「やめろ、やめろ」と呟いた。
「やめろ、――やめてくれ! 私を覗くな! 誰の許可があってこの私を、この……悪魔め!」
心を覗くまでもなく、目を必死で閉じ、何かから逃げるように体をよじらせて喚く神父。
悪魔、という言葉を発した瞬間、続いて勢いよく立ち上がる者の姿を捉えた。
椅子が後ろに倒れる。マギーが慌てて彼に続き席を立つ。当人のキャスは即座に神父の胸倉を掴むなり彼の頬を思い切り殴りつけた。
きっと、凄まじい音が響いたのだろう。神父はしたたかに拳をもらい仰け反るが、倒れることは適わなかった。
「何様のつもりだ、このクソ野郎! てめえに人をどうこう言う資格でもあんのかよ!」
掴んだ襟を引き寄せ、殴られたショックで怯える神父に向かって吼える。
宿屋で殴られた時やドナの叱責で見せた時とは比べ物にならないくらい、彼は怒りをむき出しにしていた。あの時も同じことを思った気がするが。
鼻の頭に皺を寄せて、神父に今にも噛み付いてしまうのではないかというほど睨みつけている。色素も大きさも薄い瞳のせいで、いっそう神父は怯えているようだった。
今まで大人しくしていた分だけ蓄積してしていたのか、それとも本当に彼の逆鱗に触れたのかはわからなかった。
「お前みたいな奴がいるから教会なんて大嫌いなんだよ! くそ、……くそが、このクソ野郎が、悪魔はてめえの方じゃねえか!」
そこまで言ったところで、キャスの手が離される。マギーが止める前に、彼は自ら神父を解放した。
神父は呆然とした表情でよろめきながら、混乱していたのかまず襟を正した。
血を流す鼻を拭い、それから頬に手を伸ばす。清潔にしていたのであろう祭服が血で汚れてしまったのを認め、顔をしかめた。
「……私は悪くない。私は……」
うわごとのように繰り返す神父の表情は不気味なほどに抜け落ちていた。
殴られたショックなのだろうか。それとも、
(悪魔、俺たちこそ悪魔じゃないか)
……かく言う私も、きっと周りから見れば神父と似たような顔をしているのだろう。
冷静に見ているようでいて、心はひどくからっぽだった。何かを感じるという機能が抜け落ちてしまったかのようだ。
やはり、私の目は本当に常軌を逸している、……のだろうか。まだ信じることができない。
妄想だ。他人の気持ちなど、わかるはずがない。仮に言い当てることができたとしてもそんなもの、偶然や予測に過ぎない。
アリアナやアビィのことは視えなかった。それに、さっきのことも――あれこそ妄想と言わずして何と言うだろう。

拳についた血を疎ましげに見下ろすキャス、いつもと違う怒りを見せる彼にうろたえるマギー、壊れた人形のように呆然と頬に触れる神父。
また沈黙が訪れるかと思ったが、間は長くは続かなかった。
「あなたの弁解なんてどうでもいいんです」
冷たい宣告を下したのは、やはりルイスだった。
彼は今、薄闇のなかで淡い笑みを作っている。その表情はどうにも私の知る彼とはそぐわず、むしろ、――あの妄想にこそありそうな顔だった。
何者の言葉も理解できないであろう、呆けた神父に歩み寄り、彼に対して斜交いに微笑みかけた。
「人を救うべき立場であるあなたが人を貶め、私欲のため保身に走っていた。その事実はどう弁解しようが変わらないことです。
 殴られた意味がおわかりですか? なぜキャスさんがあなたに怒りを向けたのか、わかっていますか?」
わずかな光に照らされる彼の笑みは、一枚絵のように完璧で美しいといえた。それこそ美術教本にでも出てきそうな、理想の芸術像のようだ。
だが、だからこそ、私は今まで感じるはずのなかった彼への感想を抱いた。
――薄気味悪い。
不気味なのだ。私の知るルイスという男は、端正で繊細な顔立ちはしていてもくだけた雰囲気を持っていた。
自分の容姿にまるで気づかないような、柔和で優しく、そしてどこか頼りなさげな印象を与える、ただの若者だったのだ。
だが今目の前で神父に語りかける彼は違った。
人としてあるべき不完全さ、私にその秀でた外見をさほど意識させなかった不完全な親しみやすさが完璧になくなってしまっていた。
そんな人間がいるはずもない。優れた人間というのは、不完全なものやどちらかに偏ったものを持って始めて人に親しまれるのだから。
感情の読めない薄い瞳を細め優しげに神父に語りかけるルイスは、薄気味悪いほどに完璧で、何もなかったのだ。

マギーやキャスが何を考えているのかはわからないが、二人とも私ほどではないにしろ目の前の光景に違和感を持っているようだった。
対するルイスは私たちの視線など気付きもしていないように、ただ神父に笑いかけていた。
その笑みが、どういう意味を持っているのか。絵画に落とし込まれた無意味な微笑の理由など、理解できるはずもない。
当然、神父にも理解できないようだった。そもそも憔悴した今の神父にはどんな言葉も届かなかったのかもしれない。
神父は呆然と、しかしどこか不安げにきょときょとと目を揺らしながら、ルイスを見上げていた。
答える様子のない神父。キャスならば激昂していただろう。だがルイスはやはり、笑みを崩さなかった。
「わかるとは思っていませんよ、神父様。あなたがそれを学ぶには、あまりに時間が経ちすぎた」
……彼は、そのぞっとするほど完璧な微笑の裏で何を思っているのだろうか。何を考えているのだろうか。
グエンの押し殺したような無表情とも違う、「何かを隠している」と思わせる隙さえない笑みに、裏などあるのかどうか。
だが、私の知るルイスは少なくともさまざまな感情に翻弄されていた。時に寂しさや悔しさをおぼえつつも、人間らしく生きていた。
それならば今の彼にだって何かしら考えるものがあるはずだ。
「あなたは神を否定したんですよ。神の使わしたものを悪魔と罵ったんですから」
ルイスの絵画然とした表情が崩される。
深く深く、唇をしならせることで。
真円を描いていた無機質な心が歪み、私の目は彼の崩された表情から一つの感情を読み取ることができた。
それは、あの時わずかに流れ込んできた、どろどろに濁って冷え切った憎悪。
――妄想ではなかったというのか? いや、今私がそう読み取ったこともまた妄想ではないのか?
わけがわからず、私はただ、叫びだしたい衝動にかられた。
うずくまって喚き散らしながら、目を閉じてしまいたかった。
なぜキャス達が、神妙な顔をして平気で立っていられるのかがわからない。
常軌を逸した視線を受けているはずの神父が取り乱さないのかも理解できない。私の目にこそ怯えるなどどうかしている。

「キャスさん、手は大丈夫ですか?」
不自然なほど反応を見せない神父。何が彼を茫然自失へと陥らせているのかはわからなかったが、ルイスは神父を一瞥することもなくキャスへ声をかけた。
問いかけるルイスは限りなくいつも通りだ。他人を思いやる温かみのある視線。
「……こんなもん大したことねえよ」
対して、問いかけられたキャスもまた何でもないことのように頷いてみせる。むしろルイスを見る彼の目は今までより遥かに優しいような気さえした。
まるで私が受けた彼への印象が思い込みであるかのように。
彼らは戸惑ってはいたのだろうが、それは温厚であるルイスが怒りを見せたことに対してのものだったのだろうか。
私が冷酷だと感じた彼の眼差し、挙動、それらすべてはやはり幻でしかなかったのかもしれない。
何しろ私は正常ではないのだから。
「すみません。僕が冷静になっていなければならないのに」
その程度の謝罪で許されてしまうところを見れば、確かに彼ら二人の方が正しいといえた。
もやもやと恐怖を翻らせる私を当然顧みることもなく、膝をつき放心した神父を見ながら彼をどうするか、とマギーが提案した。
「このまま放っておくってわけにはいかないだろ? ……だからって縛っちまうのもなあ」
「そうですね。神父様がレンツさんを恐れていたのはわかりましたが、何かをしたわけでもないですし。副団長が戻ってから指示をあおぐしかないでしょうね」
具体的な拘束案が出されても、神父は聞こえてすらいないかのようだった。
それもまた私の中の違和感を助長させる。今なら私が顔を覗き込んだところで反応すらしないのではないかとさえ思えた。
なぜ、神父は魂が抜けたかのように黙りこくっているのだろう。その目はただ漫然とルイスを追っていた。
――やはり、彼なのか。彼に何かあるのか?
グエンなら何か知っているのかもしれない。「あの男には近寄るな」というあの忠告がどうしても繰り返し頭に浮かんでくる。
私の妄想とは言い切れない、だが何の確証もない嫌な予感が付きまとっていた。
「神父様も消耗されているみたいですし。ひとまず僕は彼を寝室まで送ります。皆さんは、……もうずいぶんと時間も経っていますし、食事でもしておいてください」
先ほどとは打って変わって慎重に神父の背中を支えるルイス。びくり、と体を揺らして振り返る彼は、やはり怯えていた。
私にではなく、ルイスに向けられている。それは今までから考えてもおかしい話のはずだった。
神父が怯えるべきは決してルイスではなく、この私であるはずなのだ。にもかかわらず、私の方をちらりとも見ないのはどういうことなのか。
「何かあるかな」と言いながらいそいそと小さな台所へ向かうマギー、相変わらず眉をしかめて神父を見送るキャス。
私はただ、当事者だというのにそれらを傍観するしかなかった。






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