風が吹いている。
いつもと変わらない温く乾いた夜の風だ。
なのに、それがどうしてかひどく気持ちが悪い。何か嫌なものを、とてつもなく不吉な何かを運んでくるような気がする。
教会の外、施設と似たような丘の上の風景を見下ろせば、今常軌を逸した事件が起きているとは思えないほど平和そのものに見えた。
だが確かに違う。深夜であっても二つ三つは点いていた明かりがなく、代わりとばかり関門付近の軍のキャンプでは慌しげに光が揺らめいている。
こことは対岸にある施設もまた、本来なら屋上に小さな明かりが一つあるだけのはずだった。
今はそこにあるべき頼りない光はなく、施設そのものが昼間のような光を窓からもらしている。
正面玄関から覗く人の群れ。見慣れない彼らは街の者たちだ。施設を忌避していた彼らは、あそこで何をしているのだろう。
またよく見えるようになった目にそっと触れ、なぜか私は笑ってしまった。
――本当に監視者のようではないか。
入りきれず玄関にあぶれた人々のうち数人がふいに後ろを振り返り、不安げに視線を漂わせ始めるのが見えた。
それを認め、視線を逸らす。彼らがそんな行動をとったのが私のせいかどうかを確かめる術はない。
また笑みがこぼれる。
何もかもが馬鹿馬鹿しくなってきていた。
そう、何もかも、不明瞭すぎるではないか。
殺人事件の犯人もわからぬまま、この街は私の視線とやらに怯え、誰が悪いともいえないままに狩られ、この先私や街の者たちがどうするかさえわからない。
事件だけならばよかった。犯人が見つかろうが見つかるまいが、それは明確な事件であり、賞賛も不満もすべて軍に向けられるだけの話なのだから。
なぜ事件だけに終わらなかったのだろう。くだらない噂に翻弄される必要など、どこにもなかったではないか。
私はそんなにも他人にとって不快な存在なのだろうか。だが、不快とはなんだ? 他人を恐怖に陥れる視線など、あるはずがない。
表情と吐息だけだった笑みが、くつくつと喉を鳴らし始める。
ナンセンスな劇でも見せられているかのようだ。意味不明なもやもやを残して幕が降りていく。この劇の幕はいつ降りるのだろう。
早く終わってしまえばいい。他人にとってこの劇の主役は私かもしれないが、こちらからすればいい迷惑だ。
無理やり劇に上げられたところで私は道化にもなれないし、正義の味方にも悪の親玉にもなれやしない。ただの冴えない、普通以下の通行人だ。
いや――監視者か。
私は笑いながら、同時にせり上がってくる涙を必死でこらえた。
あの、ただだらだらと続いていく日常を返してほしい。
グエンとくだらない話をして、アリアナに小言を言われて、アビィに馬鹿にされ、ドナの温かいご飯を食べるだけだった生活に帰りたい。
他人から見れば退屈で何の面白みのない日々だったかもしれない。生産性もない怠惰な奴だと笑われるかもしれない。
だが、たとえ誰にも理解されなくとも、ごくごく限られた人たちの中で囲われるように生きていたとしても、私はそれで幸せだった。
なぜこんなことになってしまったのだろう。
人が殺されてしまったから?
それが、常軌を逸した殺人事件だったから?

風が頬に当たり、目がすうすうと冷えるのを感じた。
泣いてはいない。私は、泣いてはいけないのだから。
本当はわかっている。私が描いていたような、平穏な日常など最初から存在してはいなかったということを。
だからなぜ私なのかと、皆に聞いて回りたい気持ちでいっぱいだった。
なぜ私などが恐怖の対象になったのか。私は何もしてはいないのに。
何もしていなくとも罪になるのなら、一体私は、何のために生きているのか。
(そう、私さえいなければ、この街は平和なままだった)
(私がどう思っていたかなんて問題ではない。彼らが総じて私を恐れ、疎んじていたという事実そのものが問題なのだ)
(善は多数の意思で決まり、悪は少数の利己で決まるというのなら、誰が悪いかなど決まりきっている)
……小高い丘。やや背の低い塀の向こうは、ちょっとした崖になっている。
何気なく崖の下を覗いた。こちらの山は施設側より木々が少なく、かさついた土がむき出しになっているのが見えた。
落ちたら痛そうだ。
(存在するだけで悪。いるだけで罪。妄想まで取り憑き始めた。なのにどうして生きている?)
……痛いだけで済むのだろうか。

「大丈夫か?」
ふいに肩を叩かれ、大げさなほどに肩が跳ねた。
訪れたキャスが少しだけ怪訝そうな顔をしてみせるが、すぐに沈痛な面持ちでこちらを窺ってくる。
私はいたたまれず目を逸らした。
不躾な行為に気を害することもなく、キャスは私の隣で塀に肘をつき街を眺める。
不器用な彼なりの慰めなのだろう。それがわかるからこそ惨めでたまらなくなる私はなんと卑屈なのか。
「あのサンディオとかいう奴、遅いな」
自己嫌悪に浸っている間に数秒の時間が経過したらしく、キャスは当たり障りのないことを口にした。
声音がわからない私にもわかるほどに彼は明らかに気を遣っている。いつにない慎重さで一連の騒動に関する、特に私にまつわるものへの発言を避けているのがうかがえた。
下手な気遣いをさせてしまっていることにまたどっぷりと自己嫌悪するかたわらで、視線を向こうへ滑らせる。
今は夜のうえ、明かりのある場所が限定されているので探しやすい。
サンディオの言っていたキャンプをぐるりと見渡すも、特にそれらしい影は見当たらなかった。こちらに見えない場所にいるとわからないが、なんとなくそこにはいない気がした。
となると残るは施設のみだ。
私はメモを取り出す。いつもいつも意図的に忘れていたのに、ここ数日ですっかり癖がついてしまっていた。
興味深げにメモを覗き込むキャスに、キャンプにはいなかったから施設にいるのだろう、と連ねると彼はにわかに目を見開いた。
「……また、見えるようになったのか?」
そう問われ思い出した。いつの間にやらまた見えるようになったが、そういえば誰にも伝えてはいなかった。何しろもっとややこしい事態が立て続けに起きていたのだ。
言わないほうが良かったかもしれない。ふとそう思った。せっかく、キャスが気遣ってくれていたのに。
だが言ってしまったものは仕方ないので頷くと、「そうか。……そうか」と意味深にキャスも頷いた。
返答の意味を尋ねる気も起きなかった私は、マギーは一緒ではないのかと話をすり替えた。いつもこの問いをしている気もする。
「あいつは洗い物してるよ。……でも、そうなのか。見えるように……なったんだな」
私の密かな拒絶はあっさりと跳ね除けられ、キャスは再びそのことをぶり返しては神妙に頷いた。
これは、さすがに聞くべきなのだろうか。だが正直、今はこの目のことについて触れてほしくはない。一人でそっとしておいてほしい。
嫌な顔でもしていたのかもしれない。キャスはこちらを見ると、困ったように目を伏せた。
それを見ると胸がちくりと痛んだが、これで彼も話を完全に変えてしまうだろう。卑怯にも安堵した私の内心と予想とは裏腹に、再び顔を上げた彼は決然とした表情をしていた。
「あんたに聞いておいてほしいことがある」
覚悟を決めたその眼差しに、私はより一層の混乱を予感した。
キャスが、マギーが何かを隠していることには気付いていた。神父との会話でも何やら見慣れない言葉を言っていたし、何よりも実直すぎる彼らに隠し事をさせようという方が難しいだろう。
それを暴きたいなどとは思わなかったし、何より自分のことで精一杯だというのにこれ以上厄介なものを抱えたくはない。
そう、私は優しくなどない。口にしないから利己的なものが伝わらないだけだ。
だから、彼らの持っていた秘密が私にも関係のあることだったと何となく察しても、いや、察したからこそ聞きたくなかった。
「……本当は、まだ喋ったらいけないのかもしれねえけど。でも、多分、今じゃないと……」
意図的に反応をしない私をよそにキャスは迷っているようだった。どうやら重大な何からしい。
そのまま「やっぱりやめておく」と言い出すことを祈った。
もう、何も考えたくはない。

だが私の祈りというものは絶対に届かないのかもしれない。
何しろ、神に祈ったことさえなければ、いるかいないかさえ考えたこともないのだ。誰が私の願いを聞き届けるというのか。
キャスが顔を上げる。視線は、私の向こうにあった。
何かあるのかと振り返るより先に、大きな手が肩に置かれるのを感じた。
……振り返りたくない。
「お前」
ああ、そうだ。キャスの視線が上にある。それはつまり、マギーではないということだ。
私が今一番考えたくないものを孕んだ人物が後ろにいる、ということだ。
背後にいる彼が何かを喋っている気配がする。キャスへ向けた言葉なのか、キャスはやや安堵したように「そうだよな」と同調した。
肩に置かれた手の温もりがじんわりと伝わってくる。普通ならほっとするはずなのに、その温もりがやけに厭わしい。
――違う、違う。あれは、妄想のはずだ。私一人が勝手にそう感じただけだ。
ぞわぞわと上ってくる不快感を振り払い、またあの目をした彼と対峙する想像を打ち消して私はゆっくりと振り返った。

頭一つほど視線を上げた先のルイスは、いくらか真剣な面持ちで、しかし振り返った私を認めると優しい笑みを浮かべてきた。
私の知っている彼の表情。穏やかな温かみのある眼差し。
安堵するべきなのに、どうしてか余計に不安になるばかりだった。
「この人もきっと無関係ではないと思います。予言が嘘でも本当でも……、レンツさんには知る権利がある」
ルイスが肩から手を離し、私たち二人の間に立つ。耳の聞こえない私にも二人の言葉が見えるよう配慮してのことなのだろう。
予言、という見慣れない言葉に疑問符を浮かべるべきなのだろうか。
たとえ彼らの言う秘密に私が関係あったとして、それを聞く気になどなれない。
もうたくさんだ。
(彼の言うとおり何もかも忘れてしまえばよかったのに)
否定も肯定もしなければ、仮にしたとして時間は絶えず進んでいく。私だけでなく、私以外のすべての人の時間が。
それに私はいつだって無言なのだ。聞きたくないと意思表示しないのならば、話もまた進んでいく。
キャスが神妙な面持ちでこちらを見た。自らの保身に躍起になる私とは対照的な、前を向いたきれいな目をして。
「俺も信じちゃいなかったけど、……きっとあんたは知らなきゃいけないんだ」






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