その言葉を皮切りにして語られたのは、不気味で荒唐無稽としかいえない話だった。
キリル信教の教主である国王が、前史にない予言を告げたこと。
その予言は国そのものを揺るがすような凶事をもたらす内容であったこと。
国王の勅命として南東の地へ派遣されたのが、自分たちであること。
予言の内容は不可解で、キャスたち曰く「当たっている」らしい前半部分すら私には理解できなかった。おぼろげな言い方に対する解釈など無数にあるものだ。
私に関連があるとされるのは、「神の使い」の部分だという。
神の使いとやらは悪魔が降り立つその日まで眠り、時が来れば悪魔を滅さんとするため敢然と戦う使命を持っているのだそうだ。
そしてその神の使いこそ、この私なのだ。
一つに耳が聞こえないこと。もう一つは、この目があることだそうだ。
「人の悪を見出すその目こそ、神の祝福に違いない」ということらしい。

神の使い、だと?
神すら信じたこともない、聖書の一篇さえも読んだことのない不信心の塊である、この私が?
不確かすぎる予言を信じて来た彼らには悪いが、正直言って笑えない冗談としか思えなかった。
私が神の使いだろうと報告した後の話を読み流して、私はペンを取った。
いくら私が気落ちしているとはいえ、そんな冗談を言われたくはないと書けば、二人はどちらもニコリともせずこちらを見返してくる。
二つの視線に負けじと更にペンを走らせた。
教徒であるキャスでさえ信じていなかったと言うのなら、信心を持たない私がどうしてそんなことを信じられるだろうか。
ルイスにしたってそうだ、と書きかけたところで紙を覗き見ていたキャスが先に答えを口にし始めた。
「俺は、……少なくとも今の状況が普通じゃない、と思う。街の奴らもおかしくなってるし、事件のことも」
そこで一度口をつぐみ、ためらうように俯いた。
教会の四方にそびえる松明が煌々とキャスの横顔を照らす。
「……今朝、三人殺されてただろ。あんなの……マトモな奴のやることじゃない」
唇がわずかに震えているのがわかる。日光の下では青い顔さえしていたかもしれない。
……脳裏にサミュエルたちの無惨な姿が浮かんだ。死者の尊厳のかけらもない惨たらしい有様と、押し寄せてくるような濃い臭いが今でもはっきりと思い出せる。
確かにあの光景は、いや殺人事件の全てが異常ではあった。犯人はまともな神経をしていない。
だが、だからといって予言などという胡散臭い話を簡単に信じるだけの根拠になるかと言えばそうではないだろう。
私がそう反論すれば、キャスは「違う、俺が言いたいのはそういうことじゃないんだ」ともどかしげに首を振った。
「俺……見たんだ。信じられないかもしれねえけど……見えたんだ」
言うなりキャスは思い出したのか、にわかに顔を覆い狼狽し始める。
「あれは、……あれを書いたのは……人間じゃない。頭おかしくたって、あんなこと……」
「――書いたのは?」
半ば自分に言い聞かせるように呟くキャスに割って入ったのは、彼に任せ黙していたはずのルイスだった。
「それは、犯人と被害者の書いたあの紙のことですか?」
彼は目を見開いていた。何がルイスの興味を持たせたのか不思議には思ったが、彼のいつもの姿にばかり神経がとられてしまっていた。
私の感じたもの、見えたように思ったものはやはりまぼろしであったのか。何度も何度も確認して安堵しても、なぜか不安が拭えない。
キャスは違う、と苦しげに首を振った。まぶしいほどに青い目がかすかに濡れていた。
「違う、俺が見たのは――地面だった。地面のあの……言葉だ」
「地面の? ですが、でたらめな字でとても読めるようなものじゃないって、」
「俺も字は読めなかったよ。なのに……なのに、なぜか読めたんだよ!」
癇癪を起こしたようにキャスは何度も首を振った。
地面にあった異様な紋様については私も強烈に印象に残っている。はらわたで描かれた陣の中、びっしりと書き込まれた血文字は忘れようにも忘れられない。
彼はあの血文字のことを言っているようだった。だがルイスの言うとおり、あの血文字は今の言語でも古い言葉でもないまったくのでたらめだったのだ。
読めない、なのに読めた? 明らかに矛盾した言葉に、それまで沈んでいたのも忘れ悩む。
「読めねえはずなんだ。だけど……頭ん中で勝手に……見たくもねえのに、それが……!」
そこまで言うとキャスはぎゅっと眉を寄せ頭を抱えた。
何かに怯えるように、肩がかすかに震えているのがわかる。

――読めないはずのものが読めた。見たいとも思っていないのに、勝手に頭に流れ込んでくる。
他人の強い感情に持て余される様子は、まるで今の――私のようではないか。

だがキャスは強かった。拳を作り、顔を上げてこちらを見る。
「……それを見て、わかったんだよ。これは普通じゃない、ちょっといかれた人間のしわざなんかじゃねえんだ。悪魔……みたいな奴が、本当にいるんだって」
強い意志の篭もった瞳。さっきまで怯えて潤んでいた彼は、それでも決意のまなざしを私に向けていた。
「なんで俺がそんなもん見えちまったのかはどうでもいい。ただ、これ以上人が死ぬなんて、嫌なんだよ」
まっすぐな言葉に私はひどく後ろめたくなった。似たような経験をしたとしても、人が違えばこうも違うのかと嫌気がさしてくる。
私はただひたすらに自分が消えてしまえばいいとばかり祈っているというのに、どうしてキャスは、なおも前を向けるのだろう。
もっと悪いことが起きるかもしれない。そんな予感くらい、私に限らずとも皆持っているはずだ。だからこそ簡単に武器を振り上げる。
だが目の前にいる彼は違う。私のように自分の殻に閉じこもることもせず、他人のせいにすることもしない。
自分にできることはないか、一人でも多くを救えないかと彼が願っているのが目を覗かずともわかった。
彼は、真に――聖職者なのだ。


「――手を出してくれませんか」
唐突なことを言ったのはルイスだった。
「キャスさんも、レンツさんも。片手で構いません」
何だ。彼は何をしようとしている?
表情はいつもと同じ、穏やかな微笑を浮かべていた。目は……わからない。私は昼の一件から、極力彼の目を見ることを避けていた。
キャスも決意をぶちあげた顔を崩し不思議そうにルイスを見上げている。両手を前に出し、さあ、と促されるまま、わけもわからず私は右腕を伸ばした。
その手と同じく緩く出されたキャスの手をとり、
「握ってください」
言われ、ぎごちなくキャスの左手を握る。案外にふっくらとした、わずかに汗ばんだ彼の手は同じくこちらを握り返してきた。
何をしようと言うのだろう。
ルイスは相変わらず笑んでいるだけで、何を考えているのかはわからない。
「おい、なんだよこれ」
キャスは若干気恥ずかしそうに抗議した。それはそうだ、いい年をした男二人が手を繋ぐなどそうそうあることではない。
だがルイスは彼の抗議を無視し、こちらに顔を向けてきた。
「レンツさん」と、口が呼びかけているのを見つめる。
「キャスさんの目を見てみてくれませんか」
彼の言葉に、私は簡単に従うことはできなかった。
また、私に目を見ろと言うのか?
また他人の気持ちを覗かなければならないのか?
(あれは妄想だと自分で言っていたじゃないか)
妄想であってもそんな気分になるような行為を進んでしたいなどとは思えない。
嫌だ、と首を振ろうとした。だが同時に思い出す。
冷たい……あの薄い目を。頭の芯まで凍らすような、あの冷酷な眼差しを。

――なぜ彼はこんなことをさせるのだろう。
尽きることのない疑問がまた新たに芽生えて根を張る。そう思いながら、私はキャスの顔をゆっくりと上へ見ていった。
こちらを心配するように、当惑して覗いてくる彼が見える。きっと私は心配させてしまうほどに憔悴しているのだろう。
ああそうだ。私は怯えている。誰かの目を見ることに、そして嫌だと思っているのに抗うことができない、大きな……まぼろしに。
だがキャスは、止めさせろとは言ってはくれなかった。
そうして私はついにキャスの目を見、そして、


ぶわ、と音がしそうなほどの言葉が私の頭の中のすべてを埋め尽くした。
見えるのは文字。ひどく像がぶれている。それでも一つ一つの文字が綴る言葉が、そのすべてに丹念に刻まれた思いがとどまることなく押し寄せてきた。
片隅に見える文字以外のもの、無惨に打ちのめされ原型をとどめない肉の塊やその腹から出て形を作っている長い腸などが気にならなくなるほどの、波が襲い掛かる。

裏切り。祝福。死。平穏。慈悲。神のしもべ。偽善者。悪魔。単語を拾うのも一苦労なほどに凄まじい呪詛の言葉、
(――さない)
何を望む? 何を? ――私は何を望んだだろう。私が願うものはきっともっと別にあったはずだった。だというのに最も愚かなものを、選んでしまった。
頭が、言葉で埋め尽くされていく。
(――から――ることは)
私は今目を閉じている。閉じているのにどうして。どうして離れてはくれない?
背骨から振動が伝わる。唇の痛み。ぬるい血の匂いがした。血。
言葉が、意思をもったかのようにのたうち始める。
いたい、と声が聞こえた気がした。だけれどキャスリーン、私のからだはいま私のものではないんだ。だって私は君の手を痛がらせられるような握力は持っていないから。
妄想、妄想、何もかもこの世界すべてが妄想の塊で私が感じるものなどどうせ本当だなんて知ることはできないしこれが誰なのかなんて知っているわけもないけれど妄想のはずだったらなんでこんなにも
懐かしい。
恐ろしい。
言葉の渦が形を成す。
それを書き連ねた、一人の人格となって。

(――許さない)






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