(許さない、) 血、血、赤い血がすぐに黒くなるけれど、それが嫌だって言いたいんじゃなくて、たとえば比喩の話なんだよ。 なんて汚いんだろう。なんて愚かでかわいそうなんだろう。かわいそうに、もっと空は青いと思って生まれてきたのに、毒の沼でゆっくり他人を殺しながら生きているなんて。 甘い。甘いよ。ありのままを見ない皆の目はガラス玉だ。だからガラスを入れたって気付きやしない。 違うよたとえばの話。比喩の話だから。僕のことは何も気にしなくたっていい。
(許さない) でも僕は何もかもを気にしてしまうよ。だけれど僕のことは何一つ気にしないでいい。勝手にやっているだけ、ああこれですべてがガラス玉、幸せになれた。 お前が何者かは知らないけれど僕はお前なんて大嫌いだ。血は赤い。そしてすぐに黒くなっていく。
(忘れることは裏切りだ) 真っ黒になった血はなかなか落ちない、そうやって服や肌や土を汚していつまでもいつまでもこびりついて邪魔になる。腐れた臭いに頭も痛む。 ガラス玉だと思っていないお前のような奴こそ一番たちが悪い。ああ、ああ、気にしないで。気のせい、妄想、独り言。僕が洗い流してあげる。 君に最後はあるのかな。最後がなければ僕は君を祝福しよう、だけれどやっぱり大嫌いだから早く死んでしまえ、そうすれば還れない場所に放り投げてあげられるのに。
(忘れないと言うことも裏切りだ)
最後なんていらないよね? 僕のように、アルファベットの最後は何だったかな、ねえ、君の名前は何だったかな、 何ていったかな? まさか、君も、最期が欲しくなったなんて、
(裏切るだなんて)


(――言わないよねえ?)



今回ばかりは私にもはっきりとわかった。
(今回、ばかりは?)
体中が震えている。音の振動が、芯からせり上がって破裂したように響いている。
声帯がびりびりと裂けてしまいそうなほどにきつく絞りあがって、高いのか低いのかわからない絶叫をつくっていた。
私は叫びながら、こうして考えていられることに心から安堵した。私だ。私が、今、ここにいる。
泣いているのか、目を瞑っているのか、立ち上がっているのかもわからないほど神経が霧散してしまっていたが私は私として今ものを考えている。
これが本当に妄想なのだろうか。だとしたら、自分で作り出したものを持て余している私はなんと愚かなのだろう。
だが今はそんなことどうでもいい。心どころか体まで砕け散ってしまいそうな、大きすぎる憎しみの塊がひたすらに恐ろしかった。
いや、今でさえ私は、あれに心を囚われているのか。誰かが激しく私の体を揺すっているが、それが誰なのかさえわからない。
まだ残滓がくすぶっている。私の中で、あるはずのない無秩序な激情を育もうとしている。
左手が痺れる。痺れている。いや、痺れているのはキャスの手だ。私のものでない力で握りつぶされかけ、変色しかけた彼の手。
離さないと、離してやらないと。私がまた殴られる羽目になってしまう。そう思っているのにちっとも動かない。むしろ力を増していく。
みし、と嫌な響きが伝わってきた。このままでは骨まで砕けてしまう。

「大丈夫ですか?」
ふっと感覚が戻った時真っ先に飛び込んできたのは、両手にそれぞれ私とキャスの手を掴んだルイスの言葉だった。
続いて、顔をしかめるキャスに、叫び声に飛び出してきたのだろう、彼とルイスの隣でこちらを覗き込むマギーが映る。
力の込められた手首に圧迫感こそおぼえたものの、手のひら自体にある痺れるような痛みほどではない。
どうやら手を離したことで私は……正気に、戻ったようだった。右手の感覚もきちんと感じ取れる。指もたどたどしくはあるが意思どおりに動いた。
ルイスの手からも解放されたキャスの手はまだ赤みを残していて、爪が紫に変色しているのがわかった。
私のせいではない。しかし、やはり私のせいだ。すまない、とすぐに言えるならよかったのだが。
「……本当にすみません。まさかこんなことになるなんて」
どうしても埋められないタイムラグ。その差を縫ってルイスがすまなそうに言った。
「ちょっと思っただけだったんです。キャスさんの体験が、レンツさんのものに似ているから……同じものなんじゃないかって。
 キャスさんが見たものが、レンツさんならもっとうまく視えるかもしれない。そう思ったんですが、まさか、そんなに凄まじいものだったとは」
しょぼくれたように後悔してみせるルイスに、マギーが「何がどうなったんだよ」と問い詰める。
だがマギーを遮るように、
「同じものを……見たってのか? あれが見えた?」
キャスがこちらへ問いかけてきた。それに対し、私は頷くことも首を振ることもできない。
彼が見たものが同じかどうかなど私にはわかるはずもないのだ。
だが、今は沈黙は許されないのだろう。私はうまく使えない右手を叱咤しペンを持った。
思い出せる限り、メモに字を連ねていく。あれほど強烈な衝撃を受けたにもかかわらずいざ思い返すとなると残像もおぼろげとなっていた。
夢のようなものか。実際、今日あった数人の思いらしきものも今はそのほとんどを忘れている。覚えているのは、言葉にできないほど原始的な感情だけだった。

……許さないと繰り返していた、裏切り、慈悲、偽善者、
(人の子、お前の望みは)
――何を望むか。神のしもべの、祝福。
血……赤、いや……血の陣だ。口に広がる血の味が強くなった気がした。

駄目だ。これ以上は思い出せそうにない。
ひとしきり書き終え、かろうじて読み取れるような汚い字をキャスへと見せる。最初の一文字を見ただけで彼は唇を震わせた。
彼の見たものと、同じだというのか。
「それだ。……確かに……同じものだ」
生気をなくした顔でキャスが呆然と肯定した。恐らく彼は秘匿していたのだろう、マギーは話について行けないようできょろきょろと首を回している。
「どういうことだ?」
「レンツさんの持つものが本物だということが証明された、ということです」
「遠くが見えるだけじゃなかったのか?」
マギーが問う。残念ながらそれだけではないのだ。
だがどう解説すべきか私は悩み、その間にルイスが代弁を始めた。
「遠くが見えるというだけでは、今日のような事態が起きた理由として不十分ですよね。
 神父様を含め、街の人々は皆レンツさんの目におびえていた。彼が実際に街を見下ろしている時、たくさんの人が彼の視線を実際に感じていたわけです。
 レンツさん自身も幼い頃に普通なら見えるはずのないものを目撃して施設の方を戸惑わせていました。
 疑っていたわけではないんですが、それらすべてが事実であったこと――この人が普通では見えないものを見ることができる、見られた方もそれを感じ取ることができると判明したということです」
彼の説明は簡潔でわかりやすく、当事者以上にこの目のことを理解しているかのようだった。
感心するかたわらで何か違和感のようなものが残る。
ルイスはなぜ――キャスと手を繋がせたのだろう。そのほうがより強く感知できると、なぜわかったのだ?
それに、もはや仮にという言葉では済まないのだろうが、仮に私の視えるものが妄想ではなく事実であったとしよう。
事実であったにしても、私は「相手の思っていることが視える」ということしか知らなかった。
記憶を読み取り、更に第三者の意思まで読み取れることなど、経験したことさえなかったのだ。
なぜ彼は迷いなくこの方法を発想するに至ったのだろうか?
「これはもう決定的だな」だとか「神の使いの証拠と言って間違いないと思います」だとか興奮気味に喋りあう三人。

……今まで、極力避けてきたことだ。変に疑いをかけるのは良くないと私が一番良く知っていた。
だから見過ごしてきた、だがそれももう限界だ。

私は一人、メモに言葉を書き連ねた。聞いてはいけないとどこかで声がしたが、それ以上に、不信とも言える疑念が膨れ上がりすぎていた。
――ルイス。あなたは何か知っているのではないか。
どう書こうか悩んだ挙句、実際にメモに躍ったのはたったそれだけの問いだった。本当はもっともっと問い詰めたいことが山ほどあるのに。
紙片を千切りルイスへ渡す。受け取るまでの彼は少しばかり驚いたような顔をしていたが、紙に目を落とすと――薄く笑みを浮かべた。
ただ顔の形を変えただけのような、薄っぺらい笑みに見えた。紙切れの笑顔にまたすぐ色がつく。だが、私はもはや彼の色のない表情が嘘だとは思えなくなっていた。
「僕のことを信じられませんか?」
ルイスは私の問いに問いを寄越してきた。キャスとマギーが不思議そうに彼を見つめ、私の与えた紙片を見る。
だが短い問いの書かれた紙はルイスの手の中でくしゃくしゃに握りつぶされていた。
私は何も返事ができない。信じられるかと言えば否定しなければならない。ただ、今まで見てきた彼であってほしいと望んではいる。
大丈夫だよ、と言ってくれた。家族……いや、アリアナたちでさえ距離を置いていたあの時も彼はありのままの私を受け止めてくれたのだ。信じたいに決まっている。
黙ったままの私を見据え、ルイスはごく優しげに微笑んだ。慈しみさえ感じられる眼差しを、やはり正面から受け取ることはできない。
家族を裏切ったならば、次は友人も――打算の上でしか成り立たない友人でさえも裏切るのかと心の中で冷たい声がした。
「いいんですよ。信じようが、信じまいが」
続いた言葉は私だけでなく、あとの二人へも向けられていた。
「どちらにしろ来るべき時は来る。僕はあなたたちの敵ではない、それだけを信じてくれればいい」
彼らからしたら、いきなりこんなことを言うルイスに面食らったことだろう。
おそらく私のいだいている違和感というものは、それが真実にしか思えなかったとしても他人には共感しがたいことのようだ。……いや。
今はどこにいるかもわからないグエンはルイスを異常なまでに警戒していたし、やはりあの時――あの雨の日、アリアナも同じことを思ったのかもしれなかった。
「何のことかさっぱりわかんねえけど、教会のじいさまがたよりは信用してるよ」とマギーが言い、キャスもまた言葉にしないまでも力強く頷くのを見る。
申し訳なさそうに、ありがとうございますと言うルイスの態度が全て嘘だとは思えない。だが、彼に得体の知れない何かがあるのもまた事実に思える。
私は……間違えてしまったのだろうか。無理やりにでも施設にいればよかったのだろうか?
――何を望む?
キャスの見た光景にあったその問いがふいに思い浮かぶ。数日前に同じ問いをどこかで受けた気がしていた。
叶うものだとは思っていない。それでもそう問われたなら、今はただ、平穏な日々が欲しかった。
それの他に何こそが必要だというのだろうか。
……グエンならどう答えるのだろう。今彼はどこで何を考え隠れているのか。
彼ならきっと、私の望む答えを示してくれるはずだった。






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